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"我不是你(僕は僕だよ)" 自分が何者になるべきかを決める 台湾映画「オールド・フォックス 11歳の選択」

「オールド・フォックス 11歳の選択」(原題:老狐狸 / 監督:シャオ・ヤーチュエン / 2023年 / 台湾/ 112分)



あらすじ
台北郊外に父と二人で暮らすリャオジエ。コツコツと倹約しながら、いつか、自分たちの家と店を手に入れることを夢見ている。ある日、リャオジエは“老獪なキツネ”と呼ばれる地主・シャと出会う。優しくて誠実な父とは真逆で、生き抜くためには他人なんか関係ないと言い放つシャ。バブルでどんどん不動産の価格が高騰し、父子の夢が遠のいていくのを目の当たりにして、リャオジエの心は揺らぎ始める。
図らずも、人生の選択を迫られたリャオジエが選び取った道とは…!?

映画公式HP https://oldfox11.com/#intro

世間の波と大人たちから影響を受ける少年

台湾バブル期の背景を説明する字幕のあと、父・タイライがウェイターを勤めるレストランの厨房の片隅のショットから物語は始まる。夜、仕事が終わってタキシード姿のままの父・タイライと子・リャオジエが、厨房の隅で食事をする様子をミドルショットでとらえる。タイライは椅子に座らず立ったまま調理台に腰をもたれさせるような姿勢で食べる。ほかの同僚も立ったまま食事をする様子や、料理人たちが後ろで鍋を振るう様子も同時にフレームに映る。白色の蛍光灯の下で銀色の調理台の上のせわしない食事の様子は、所謂あたたかい家で家族団欒の食事といったものではなく、作業のような印象を与える。食事の後アパートに戻り、タイライがサックスをアンダンテにゆったりと演奏する。やっと2人にホッとした息をつく瞬間が訪れる。タイライのサックスの演奏のショットと共に、赤色のジャケットを着て真紅のリップをひいた「美人のお姉さん」リンがアパートの家賃の集金に一戸ずつまわってリャオジエの家を訪ねるまでのショットが、クロスカットで映されていく。これが彼らの日常のひとつであると示される。しかし、集金に向かった先の麺食堂を営む男が、新たに店を出そうと思うから退去する予定だと告げる。少しずつ彼らの日常が変わっていくことの導入である。そして、リャオジエのアパートの入口を出た右側に、壁のように盛り上がる急な坂道があるのがアパートの通りの背景に映される。リャオジエたちの行く先が平坦でない困難な壁であることを暗示するかのように。★1)

 11歳リャオジエの周囲に、子ども同士の友人関係は徹底的に排除されて描かれる。いじめっ子3人以外に周囲に子どもはいない。学校の中の様子はほとんど描かれることなく、放課後に友人と一緒に遊ぶ様子は一切描写されず、夜に父の職場のレストランの厨房の片隅で宿題をする様子が映される。父の職場の同僚、リンやアパートの家主で権力者のシャ(古狐)など、リャオジエの人間関係は大人がほとんどを占める。バブルで不動産の暴騰により家を買えず理想の生活が遠のいたり、投資に大失敗した同じアパートの麺食堂の男が自殺したり、リンが区長に自分の社長シャの所有する土地の話を耳打ちする様子を立ち聞きしたり、11歳の少年にとってはあまりにも大人すぎる世界を見させられる。彼は大人たちの置かれる状況や選択によって、自らの運命が左右されていき、最終的に「自分が何者になるべきか」を選択させられる。
 また、リャオジエが亡き母に思いを馳せるシークエンスは序盤にこそ登場するが、中盤からは登場しない。母の生前の願いだった理髪店を持ちたいという夢を叶えたいというよりも、とにかく家がほしい、勝ち組になりたいと執着するようになり、やがて父・タイライと古狐・シャの間に立つ構造になる。


少年の揺らぎ 

父親への眼差し

リャオジエの心情は単純な道筋を歩まず複雑に揺れ動く。リャオジエにとって家をもつことは、生前の母の夢だった理髪店を営むことを叶えたいという夢そのものでありつつ、勝ち組になるということの意味を次第にシャと関わるうちにもつようになる。そして、この家をもつ夢を軸にし、タイライとシャの相反する2人の間でリャオジエの心は揺れるように展開(編集)されていくタイライとシャのどちらを信じるか(あるいは慕うか)、それは場合と状況に応じてリャオジエの思考でどちらか一方のみを選んでいるというよりも、その感情や姿勢が内的に同時に存在しダイナミズムを生み出している。
 例えば、シャに近づくようになったリャオジエを警告するタイライの声に、リャオジエは「知るもんか」とシャに入れ知恵された言葉で返し自室の戸を閉ざしてしまう。しかし後日、クリスマスプレゼントに任天堂のゲーム機や自転車を与えられたリャオジエは機嫌を取り直して、タイライと一緒に家の外を自転車で並んで漕いでいく。作品の序盤にあったような2人のあたたかな親子の触れ合いを取り戻す。それでもリャオジエはシャと近づくことをやめない。リャオジエは再びシャに会いに行き、シャの運転する車に乗っている姿を、いじめっ子3人に見せつけて優越感に浸る。リャオジエは、シャのようになりたいとシャの近くにいるために(強い側に立つために)リンの秘密をシャに耳打ちする。後日、シャに灰皿で顔面を殴打されたリンがリャオジエの家を訪ね、シャに告げ口しただろうとタイライを責める。リビングで言い合う2人を黙って見るしかないリャオジエの後ろ姿を映すショットで、リャオジエはシャの冷酷な顔を初めて知り、自分のしたことの意味を理解する。そして、同時にリンから語られるシャの弱い孤独な側面を知る。しかし、それでもだからといってリャオジエはシャと関係を絶ったりすることはない。家を持ちたい希望がリャオジエを支え続ける。アパート1階の麺食堂の男が自殺したことで事故物件になったため不動産価格が下がり今なら買えるはずだとタイライに主張する。

 リャオジエが家をもつことに固執するのは、自分が勝ち組になれるという側面もあるが、自分自身だけでなく父・タイライと共に現在の苦しい生活から脱却を果たすことの意味合いもあっただろう。リャオジエはシャに憧れタイライに反抗するようになるも、タイライを否定することはなかった
 その様子は、シャから事故物件になった麺食堂の1階の家を売ってやろうと許された夜、自宅に戻ってからのシークエンスで描かれる。春節でレストランが多忙でタイライは夕食を作り置きし、メモを残していた。リャオジエは泣きながらメモの余白に「家が買えたよ」と書き記す。また、タイライのメモには、光熱費の節約は意味がないと以前リャオジエがタイライに反抗したことを受けて、その通りにしようと書かれていた。しかし、その晩、リャオジエは以前通りに湯を使い終わったらすぐに給湯器のガス火を止める。そして翌朝、リャオジエは、深夜に帰宅して疲れて寝ているタイライの目覚まし時計をすぐに止め、タイライを起こさないように自分で身支度をして学校へ向かうのだった。タイライを否定していればこの行動には至らないはずである。
 クライマックスで、結局、シャから売ってもらえると言われた家は、麺食堂の男の遺族が買い取ることになった。タイライが譲ったことを知ったリャオジエは、食器を机から叩き落して激しく抵抗し、自転車で「知るもんか」と泣きながら公園に向かう。この時、自分が勝ち組になるということよりも、父と共に家を持てるという夢が潰えたことへのショックも大きかっただろう。公園のベンチに座るリャオジエを迎えにくるタイライの後ろ姿とともに、シャがリャオジエに向かってタイライは負け組だと言う、フラッシュバックのショットが切り込まれる。そのフラッシュバックのショットで、リャオジエは「父は負け組ではない」とはっきりと答える様子が映され、リャオジエはシャに傾倒しつつもタイライを信じていたことが観客に示される。

夢が絶たれた時 少年はわかるようになる

家を持つ夢を叶えることを軸に行動してきたリャオジエは、その夢が絶たれたとき激しく動揺し抵抗するが、この夢が潰えた時にこそ、リャオジエが人としてどう生きるかを選ぶ瞬間になる
 家を飛び出し公園に行きついたリャオジエを迎えに来たタイライは、リャオジエとベンチに並び、状況をどう説明していいか分からないと漏らす。しかし、リャオジエは「説明しなくていい。わかるから」と答える。タイライはリャオジエの肩を抱き寄せ、リャオジエもまた自分の頭をタイライの肩に預ける。2人の後ろ姿をミドルアングルのミドルショットから、ズームアウトしていく。
 バブルで物価や不動産が暴騰する状況について、大人たちがリャオジエに説明しようとするシークエンスは作中に2回登場する。①タイライが風邪をひいてリンが代わりにリャオジエを世話しようと麺食堂に連れて行くシークエンス。リンがバブルで物価が高騰することを牛肉麺の値段で説明するものの「これは説明が難しい」とも言う。②タイライの叔父が出資してくれることで家を買うことが早まると期待したが、不動産高騰によりそれが叶わなくなったことを、タイライが自宅でリャオジエに説明するシークエンス。不満を漏らすリャオジエに、タイライは「自分でも理解できない」と小さくつぶやく。
 これらのシークエンスが、作品のクライマックスのリャオジエの「説明しなくていい。わかるから」のセリフを際立たせる効果を持たせている。①②のシークエンスでは、バブルで不動産が暴騰することそのものの理解について語られる。一方で、当該のリャオジエが「わかる」シークエンスは、なぜタイライが家を買うことを人に譲ったのか、それが人として良い選択であり、正義であり、他人を思いやることであると、タイライの姿からリャオジエが理解したことを示している。


孤独な古狐

ここでは、シャがリャオジエに与える影響のほかに、シャ自身がどういう人物であり、作中のメッセージとなりうるか考えてみる。
 陰で腹黒い狐と呼ばれるほど冷徹なシャであるが、彼自身がこの姿を選んだ経緯が徐々に明かされる。シャが貧乏だったころの思い出の曲で、車で中でもなんども聞き続けているという「鳥仔」の歌詞は「鳥が夜遅くまでいくら鳴いても自分の巣を見つけられない」という内容である。そして、リャオジエが「家を売って」とシャに訴える姿は、かつて子どもだったシャが周囲の大人たちに「母さんに家を売って」と要求する姿と重なる。他人を思いやろうとした母親(おそらくシャとは反対に貧乏を受け入れようとした)を忌み嫌い、今の生き方を選んだことがその後に示唆される。さらに、シャには一人息子がいたが、シャの生き方を嫌った息子は医師となり国際医療グループに入り、その後若くして亡くなってしまう。自分とは正反対に「他人を思いやる生き方」を選んだ息子が離れ、しかも先立たれている。
 シャはリャオジエに自身を投影しようとする。物語の後半、シャの所有するごみ収集所にリャオジエがやってきて、家を売ってくれと頼みに来るが、シャは冷たく拒否する。しかし、家を売ってくれないのにどうして自分を助けるのか、とリャオジエに泣いて訴えられるたシャは「お前は私だから助けるしかない」と、リャオジエと同じ目線の高さにかがんで諭すように伝える。このシークエンスの初めは、リャオジエがごみ収集所でシャを探す最中に転倒し立ち上がろうとしたとき、ごみの山に立つ西日で逆光になったシャの姿を切り返しのロングショットで映されるところから始まる。二人の立場の上下関係が明確に示されている。しかし、「お前は私だから助けるしかない」とシャがリャオジエに向かって言うとき、地面に置かれたごみの山を背景にして、2人を横から目線の高さのアングルのショットで映される。★2)
 夜になり、ごみ収集所の事務所からシャが自分で車を運転しリャオジエを家まで送ろうとするさなか、シャに「お前は私になりたいんだろう?」と語りかけられたリャオジエは「僕は僕だよ(我不是你)」と答える。リャオジエが黒い影となりフェイドインでシャ自身が鏡面に映るように姿を現す。シャは鏡面の自分に問いかけつづける。
 シャは貧乏を憎み貪欲に実業家として成功を収めたが、代償に強い孤独を抱えた存在である。自分の幼少期と似たような境遇のリャオジエを自分の方向に導こうとし、「お前は私だ。成功を渇望している」と訴えかけるも、リャオジエから「僕はあなたじゃない」「知るもんか」と最終的に拒絶されてしまうのだ。リャオジエに出会ったはじめ、「知るもんか」と同情を断つための秘訣の言葉をリャオジエに入れ知恵したシャであったが、同じ言葉で拒絶される結果となったのは皮肉である。最終的に「家を売ってやろう。ただしこれは、父(タイライ)にでなく、お前にだからだ」とシャは約束する。しかし、そこでも「僕は僕だよ(我不是你)」とリャオジエに返答され、シャはオープンカーのルーフを開けて空を見上げるしかなかいのだった。
 そう考えると、シャのアイデンティティが成立するためには、シャは自分の生き方を支持する存在が必要だったということである。他人を思いやるなというポリシーにも関わらず、自分は他人から支持されなければならない。しかしシャの秘書のリンでさえ、シャをかわいそうな人、助けてあげたかったと、哀れみの目線で見ており、これはシャの生き方をそっくり支持するような姿勢ではない。もし人が他者を顧みず貪欲に生き続けると、その結果孤独に生きるしかなくなり、自己の在り方を確信できなくなる瞬間が訪れるということを、シャの姿を通して観客に訴えているのだ。


https://eiga.com/movie/100361/gallery/2/

自分で人生を選ぶこと

1987年に台湾の戒厳令が解除され、1988年には証券取引法が制定され証券会社の設立を登録制にしたため急増し、株式市場は急拡大した。1980年代なかばに、貿易黒字が続き、台湾元が高騰。海外の投資家のホットマネーの流入もあり株価指数が急騰。その結果、株式投資が市民の財テクとして定着した。当時の台湾は株式の供給量が絶対的に少なく、それらの株をめぐって投資家が短期的な売買を繰り返す加熱状況が生まれ、個人株主が資産運用として早急な収益を狙い短期に取引を繰り返した。
 シャオ自身が子どものころは他人に配慮することが大事と教わってきたが、今は違うと感じる状況に疑問を抱き物語を作り出した。全世界で階級闘争が起きている現状からこの作品の着想を得たシャオは、台湾で貧富の差が拡大する原点であった当時を物語の時代背景に選んだ。

今の世界はとても複雑だと思っています。私は自分の子どもたちに、世界はとても無垢で完璧なものだとは教えたくありません。そして、世界はとても邪悪で危険に満ちているとも教えたくはありません。この世界はある意味、2つの世界が密接に関係しているといえるでしょう。自分の人生は、自分で選ばなければならなりません。結果が異なれば、別の道に進み、自信で納得ができるまで探し続けなければならないんです。

シャオ・ヤーチュエン監督インタビューより

物語の最後に、大人になったリャオジエが自分で人生を選んだ姿を観客は目の当たりにする。建築家として成功したリャオジエは、富豪な顧客の邸宅の設計に関するリモート打合せで、顧客の当初の希望とは異なる、半ば洞穴式の様式でソーラーパネルの代わりに屋根に草を敷く設計を提案し、メリットをいろいろ並べて顧客をおおよそ納得させる。顧客に説明していなかったが、近くに海を臨む小学校があって子どもたちの目線に配慮したのだろうと打合せのあと同僚から指摘され、リャオジエは「腹黒い狐だな」と呼ばれる。このシークエンスでリャオジエは、①カッターの刃を段ボールの切れ端に包んでから捨てる(タイライが内職の時にしていたこと)、②氷水を飲む(シャが11歳のリャオジエに同情を断つための秘訣として教えたことの1つ)、③立方体が2×2につながれた模型を手で動かす(11歳のリャオジエ自身ルービックキューブで遊んでいた)という動作をとる。11歳のころのリャオジエが経験したことが、大人になったリャオジエに結びついていることを示している。リャオジエは、富豪を言いくるめるような立場になり、そして、行為の源泉に人を思いやるという「狐」になったのだ。★3)


<感想>

作品のオープニングで、家賃の集金に来たリンからもらった蚤黄酥を、タイライが一口で頬張りながらミシンを動かすショットが好きでした。タイライの生活感がでてるなあって。つづくタイライがリャオジエの服を仕立てて、リャオジエの腕を採寸するシークエンスとか、愛あふれまくっててとっても好きだった。理髪店をもつのに、「あと3年…」と笑みをゆっくり浮かべるリャオジエは可愛いけど、このあとの一筋縄でいかない運命をあらすじで知っているからこそ、切なさを感じた。ごみ収集所で必死にシャに家を売ってと訴えるシーンは胸が痛かったなあ。タイライがリャオジエの頬を叩いたあと、リャオジエのあとを追わずに何も言えず立ち尽くすショットはすごみを感じた。
 登場する2名の女性も物語に深みを与えていました。男たちに暴力をうけるクロスカットのシークエンスはかなり苦しかった。シャオにとって階級を描くために必要な登場人物でもあったようです。タイライの初恋のヤン・ジュンメイがタイライの人生をより豊かに掘り下げて描いていました。門脇麦の目線と顔の演技が最強でした。女性の登場人物にも注目してぜひ見てみてほしいです。

https://eiga.com/movie/100361/gallery/

<追記>物語を動かす装置としての公衆トイレ

作中に公園の公衆トイレが3回登場する(印象に残ったから書くね)。
① リャオジエとタイライが、タイライの弟の結婚式に出席した後、式で酒を飲み過ぎたタイライが、夜の帰りに公園の公衆トイレで吐く。リャオジエはどうすることもできず支えるようにタイライの腕に手をやるなどするしかない。タイライは大便器のある個室から出て、そのままトイレの床に座りこむ。個室の外側の壁にもたれ、リャオジエに、理髪店の開店にあたりタイライの叔父が株で儲けて頭金を出資してくれることになったため開店が早まる、と伝える。リャオジエは喜び、タイライの膝にのり、どこに店を出そうかと期待に胸を弾ませる。2人が喜ぶシークエンスの途中、トイレの内側の2人のショットから、トイレの外側からトイレの入口と内部をミドルアングルのロングショットに切り替わる。2人をトイレの上からの照明がハイキーに照らし、トイレの外の暗闇をとらえるようにズームアウトしていく。2人りきりで、外は暗く、きれいとは言えない公衆トイレで良い報せ(作品の観客はこのあと不動産が暴騰することを知っている)を共有することは、2人の今後の行く先を観客に示唆している。

② 放課後の雨の帰り道、傘を持たないリャオジエが雨宿りでトイレに走りこむ。しかし、すでに先にいじめっ子3人がいて、追い出されてしまう。トイレの外の雨でぬかるむ地面が、トイレの屋根からのハイアングルのショットで映され、逃げ出すようにトイレを立ち去るリャオジエの足元が水たまりに突っ込むアップショットが映る。トイレを立ち去ったあと、屋台のある軒下で雨宿りをするところで、シャと出会い、家まで車で送ってもらうことになる。公衆トイレが、リャオジエがシャと出会い、心が揺らいでいく物語の入口になっている。

③ リャオジエはタイライにクリスマスプレゼントにもらった自転車を漕いで、シャがよく立ち寄る屋台に向かいシャと出会う。シャの運転する高級車に乗せてもらい、いじめっ子3人がたむろする公園の公衆トイレの目の前をゆっくり通り過ぎ、見せつける。リャオジエは「僕もなりたい」とシャへのあこがれを口にする。トイレがリャオジエがシャに最も傾倒する瞬間を映す装置になっている。その一方で、このシークエンスはその後、リャオジエがシャと同化されることを拒否するシークエンスと対比的につなげて映す効果を持たせている。


<補足>

★1)この坂道は幾度となく登場するが、リャオジエたちが坂道を越えるショットは登場しない。タイライがクリスマスプレゼントにリャオジエに贈った自転車を、リャオジエが喜び、タイライと共に外で自転車を漕ぐシークエンスでは、2人は坂道に向かっていくが、坂道を登りきるところまでは映されない。
★2) ごみ収集所でリャオジエが転倒して手に怪我をしたため、シャがリャオジエを家に送るまえに事務所に立ち寄る。シャはリャオジエに消毒液を渡すが自分で手当をしようとしない。シャはリャオジエを同化・投影する気はあるが、ケアをする気は希薄である。
★3)リャオジエはリモート打合せで同僚から「腹黒い狐だな」と言われたあと、立方体の模型を手で回しながら、PC画面から目線をはずしその奥の空間を見つめる。リャオジエの体の右側、腰から上をミドルアングルのパンショットで物語は終わりを迎える。この時、使用される楽曲のタイトルは「老狐狸」である(各サブスクでサントラ聞けるよ!いい曲ばっかり!)。

<参考>

  • 映画「オールド・フォックス 11歳の選択」パンフレット

  • 映画.com(2024). ホウ・シャオシェンから伝えられたことは? 台湾ニューシネマの系譜を受け継ぐ俊英、新作「オールド・フォックス」を語る https://eiga.com/extra/xhc/64/(最終閲覧:2024年7月4日)

  • マイケル・ライアン, メリッサ・ノリス[著]. 田畑暁生[訳] (2014)Film Analysis 映画分析入門. フィルムアート社

  • 亜州奈 みずほ. (2012).エリア・スタディーズ34 現代台湾を知るための60章【第2版】 .135-139. 明石書店.

  • 蔡希賢. (1994). バブル経済と東アジアの経済成長 : 東アジア産業資本の後退. 台湾経済研究院. 經濟學研究. 60 (3/4). doi:10.15017/4494340


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