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MOAが「暇と退屈の倫理学」を読んでみました

はじめに

MOA(モア)とは、KPOPグループTOMORROW X TOGETHER(トゥモロー・バイ・トゥギャザー)のファンの愛称です。

そんなMOAであるわたしが、ツイッターで見かけた「暇と退屈の倫理学」を読みました。いつもは推理小説とKポアイドル雑誌しか読んでないのにこんな本読めるのかなって自分を信用できませんでしたが、先にこの本を読んだMOAちゃんの感想を見てどうしても読みたくなったので、4月中旬、おそるおそるページをめくってみました。

第1章と第2章は意外にも「わかるわかる~」と声に出そうなくらいとても順調に読めました。思わず「この本おもしろい!」とツイッターに投稿したくらいでした。第3章も納得だなあという感じで過ぎました。ところが、第4章のファイトクラブの話題あたりからは、「へー…なるほど…」という感想はもったものの、あまり共感できませんでした。そこからはなかなか読み進められませんでした。

GWはなにかと忙しく結局1ページも読まないまま終わり、このころには「わたしはもうこの本を読み切れないかもしれないよね…」という内なる心の声が聞こえてきましたw。それでも毎晩寝落ちしながら読み進めていたときにたどりついたのが第5章でした。

第5章では最初にまたむずかしい書物名が紹介されていて、正直、無理っす…と思いました。が、すぐに出てきたのです。駅舎を用いたあのたとえ話が。ここを境に、急に小説を読んでいるかのような気分になって夢中で読むことができました。

とにかく、この第5章以降、TOMORROW X TOGETHERの楽曲の世界観とリンクするというか、こう考えればつながるな!と思うことがたくさんありました。

どういう気づきがあったのか、具体的に、3つの曲についてわたしが過去に書いた感想文を引き合いに出しながら書いてみたいと思います。

例1. Run Awayと「暇と退屈の倫理学」

まずRun Away(通称943)について、わたしは過去に2回感想文を書きました。

■Run Away(走り幅跳び)
逃げたい逃げたいとさんざん悩みまくって(助走しまくって)、サビに入ったとたん豪快にジャンプする感じ。もう元の場所には戻れない感じ。

note記事「TOMORROW X TOGETHERが歌う변화(変化)のエネルギー形態別分類そして変化とは何なのかについて」より(現在非公開)

この感想の前半は、「暇と退屈の倫理学」の中の駅舎のたとえ話そっくりだなと思いました。たとえ話は、乗り換えの列車まであと4時間もあり、まだかまだかと悶々とする話でした。943の場合も、いますぐ何かをどうにかしたいのにどうにもならない状況を歌っていると思います。943の歌詞からは、この若い今という瞬間に、一刻も早く何かを見つけて自分が何者かにならなくちゃ!という焦りが聞こえてくるような気がします。「暇と退屈の倫理学」の中の「自分が駅というものにおける最適な時間の中におかれていない」みたいな表現がまさにこれだと思いました。

「暇と退屈の倫理学」では、列車の出発時間直前にちょうどいいタイミングで駅に着く人もいて、それが駅というものにおける最適な時間だと言っていました。943には「僕以外みんな幸せそうなんだ」という歌詞がありますが、これは、言い換えると、僕以外の人たちはみんな乗りたい列車がちょうどよく来るじゃん、僕だけずっと待たされてるじゃん…ちぇっ!って気持ちなんだろうと思います。

また、「暇と退屈の倫理学」には、「駅舎は別に自分に何も提供してくれないわけじゃない」みたいなことも書かれていました。駅舎は雨風から守ってくれるし、時刻表が見られるし、切符も売ってくれるし、何より「いつかは」列車が来るからです。これは、943の中の少年たちが、つまらない毎日ながらも衣食住は保証されていることと、今のうちに学業をがんばっておけば「将来」安泰なんだろうという状況と似ていると思いました。そして、「だがしかし今欲しいのはそれじゃない」と感じている点で同じだと思いました。

それから、こういう感想文も書いたことがありました。

Run Awayでの彼らは逃げたいという衝動に襲われ、ついにはもうそれが彼らに課せられた使命のようになっています。永遠に一緒にいたいから逃げるというよりむしろ逃げたいから永遠に一緒にいようよという構図にすら感じます。(←若いうちはあるのよ…こういうことが…)

note記事「わたし虹の橋を渡るよ - Cat & Dog から Thursday's Child Has Far To Go へ」より(現在非公開)

Run Awayの歌詞から感じるこうした感情を「暇と退屈の倫理学」の言葉で言ってみると、「自分に何か役割を与えなければならない」ということだと思いました。「自分を自分にとって再び興味あるものにしようとしている」という言い方もされていましたが、それらに相当すると思います。

943の歌詞は、「暇と退屈の倫理学」で言う「これこそがわたしのなすべきことだといえる何か」をついに見つけて出かけるところで終わっているので、その後ぼくがどうなったのかはわかりません。でも、「暇と退屈の倫理学」によると、この行動こそが次の段階の退屈の発生源になってしまうのです。怖!

例2. 0X1=LOVESONG (I Know I Love You)と「暇と退屈の倫理学」

次は0X1=LOVESONG (I Know I Love You)(通称:ゼロバイ)です。

943は「暇と退屈の倫理学」でいう第一形式の退屈だと思います。第一形式の退屈は「何か特定のもの(列車の到着)が言うことを聞かないのが問題」でした。これに対して、ゼロバイは第三形式の退屈だと思います。もっとずっと深刻な状態です。第三形式の退屈とは、「何もないだだっ広い空間にぽつんと一人取り残されているようなもの」と表現されています。そんな退屈の中にゼロバイの主人公は投げ出されてしまった感じがします。

前に書いた感想文がこれです。

■0X1=LOVESONG (I Know I Love You)(中距離走)
とにかくずっと前に前に進んでる感じ。今いるところから遠ざかって行こうとしていたのに走り終わって気づいたらスタート地点に戻っている。それでも走り切ったという充実感はめちゃくちゃある。

note記事「TOMORROW X TOGETHERが歌う변화(変化)のエネルギー形態別分類そして変化とは何なのかについて」より(現在非公開)

ゼロバイのいいところはやはり最後またゼロに戻ることなんじゃないかと思ったので、この感想文を前に書いたんだと思います。

「暇と退屈の倫理学」にはゼロという概念について書かれた箇所があります。ゼロであることに耐えられなくなったとき、人は意図的に何かの隷属状態になり、ゼロであることから目を背けようとするというようなことが書いてあったと思います。ゼロバイくんの恋もこれかなあって今は思います。大変失礼なことを言うと、天使はA子ちゃんでもB子ちゃんでもC子ちゃんでも石でも死体でも(参照:天使は死体だった - 0X1=LOVESONG の歌詞が STAND BY ME を愛するわたしに刺さったわけ)よくて、たまたま出会った子だったのではと思います。もっと失礼なことを言うと、天使への恋心は本物かどうかあやしいと思います(本物って何よって話はここではちょっと置いておいて)。だけど、天使が誰(何)であろうと、天使を愛して行動を共にしたら何かが変わるんじゃないかという気持ちだけは本物だったと思います。

とても興味深かったのは、「暇と退屈の倫理学」では、ゼロの状態は苦しいとは言っているものの、決してゼロを悪者にはしていないことでした。むしろ、ゼロは「正気」、ゼロは「あらゆる可能性を持っている」、ゼロは「人間的」だと言っていました。ゼロバイを聞いていると泣きたいような気持ちがわいてくるのはこのせいかもしれません。

例3. Cat & Dogと「暇と退屈の倫理学」

最後は、わたしの最も好きな曲Cat & Dogです。

Cat & Dogにはこうした背負わされた定め事や存在理由はありません。ただ毎日横にいて、くっついて、グルーミングして、たまにフリスビーして散歩して遊びたいだけです。
(中略)
それでもCat & Dogに終わりを連想させる表現がまったくないわけではありません。終盤にはこんな歌詞が出てきます。
Let's play forever
ずっと一緒に遊ぼう
무지개다리 건널 때까지
虹の橋を渡るまで

note記事「わたし虹の橋を渡るよ - Cat & Dog から Thursday's Child Has Far To Go へ」より(現在非公開)

Cat & Dogはメロディでいうとmumble rapっていうジャンルに入ります。mumbleは「つぶやく」「ぶつぶつ言う」という意味の単語です。リズム変化や抑揚が少ないです。サビっぽいサビもないことが多いです。湖面に舟を浮かべてずっとそよ風に揺られているような感じです。それに加えて、Cat & Dogの歌詞は、猫や犬と一緒にずっとずっと楽しい毎日が続くという内容なのです。そういうのもあって、わたしは聞くたびにこの曲の中に永遠を感じてしまいます。

ただ、Cat & Dogがいくらいい曲だとしても、なぜ、二十歳前後にもなった少年たちが猫とか犬の気持ちを歌わなければならないのでしょうか(それはまあもちろんかわいいからだろう、という一つ目の正解はとりあえず置いておいてw)。

今回、「暇と退屈の倫理学」の中で「とりさらわれる」という言葉を知りました。たとえば、ダニは人のにおいを感じ取ったら移動を開始します。ミツバチは蜜を吸ってお腹がいっぱいになったら飛び立ちます。これらがダニやミツバチの「とりさらわれ」です。こういうのは、そうしようと心に決めたからしてるわけでも、誰かに指示されたからしてるわけでもないです。人生の目的とか価値観とかいう言葉が薄っぺらく響いてしまうくらい、ただ、当たり前に、徹底的に強く深く、ダニやミツバチの生にそれらがあるだけです。仮に10年以上人間が近づいて来なくて移動するタイミングが来なかったとしても、ダニはそれを無駄な時間とは感じません。疑問にも思いません。それが「とりさらわれ」です。実際に18年間飲まず食わずで待機してたダニが発見されてることが本に載ってました。

わたしは、この「とりさらわれ」こそが、Cat & Dogでわざわざ猫や犬を主人公にしている意味だと思いました。毎日、くっついて、散歩して、フリスビーしてるだけだったら、最初は楽しいでしょうが、普通の人間だったら次第に飽きてきて、しまいには苦痛になるに決まってます。だから、この曲の主人公が普通のイケメンだったら「ずっと一緒に遊ぼう」なんて言われても嘘くさく感じてしまうかもしれません。調子のいいことばかり言うやつだなあと。でもCat & Dogは、ずっとずっと疑問を持たずに遊んでいられる「とりさらわれ」が実現しています。だから、わたしはこの曲から永遠を感じられるんだと思います。

ただ、感想の中にも書いてありますが、Cat & Dogにおける「とりさらわれ」にも終わりがあります。

「暇と退屈の倫理学」には、人間も「とりさらわれ」ることはあるけど、途中で変えることができるって書いてありました(と思う)。これは人間特有のことだそうです。ミツバチが「あしたからは、飛び立つタイミングを、満腹になったらじゃなくて10秒数えたらにしよう」というように行動を変えることはできませんが、人間はそれができます。

Cat & Dogでは、虹の橋がかかったら、それを渡って別の新しい世界へ行こうとする意志がうかがえます。これこそが「とりさらわれ」からの移動で、人間らしく生きることを表していると思います。

☆☆☆☆☆

余談ですが、この「とりさらわれ」については、ほかの曲でも活躍しているように思います。

たとえば、ゼロバイの弟たち金魚説。

人間であるゼロバイくんと、金魚ちゃんである4人(4匹)は、違う「とりさらわれ」をしていることになります。だから、たぶん4人がゼロバイくんの生き方や悩みを正確に理解できることはないと思います。ポップコーン(?)食べてるスビンちゃんなんて、いかにもヒョンの悩みなんかまったくわかってなさそうな顔してます。でも、絶対に分かり合えなくても(合えないからこそ?)、ゼロバイくんは4人が大好きだし、4人もゼロバイくんが大好きだし、一緒にいて気が楽だし、笑顔にもなっちゃうと思います。そこがいいところだなと思います。

それから、直近ではSRRのMVで5人がそれぞれ別の動物にイメージされています。これも、その動物の「とりさらわれ」の視点から考えてみるとおもしろそうだと思いました。

☆☆☆☆☆

おわりに

これは、特定の曲に対してではなく、最新のアルバムが出たときに書いた感想です。

順調にどんどんじゃんじゃん成長してたくましく立派になっていくはずよねって単純に思い込んだ自分を恥じました。いやほんと、自分の過去を振り返ってみたらさ、あんたそんなに美しくきっちり順序よく成長してきましたか?って話ですよね。

note記事「TOMORROW X TOGETHERが歌う변화(変化)のエネルギー形態別分類そして変化とは何なのかについて」より(現在非公開)

わたしは、以前、成長というものを、左から右への時間軸に折れ線グラフや棒グラフで描けるようなものに考えていたような気がします。もちろん、そのような表現が適している成長もあるとは思います。赤ちゃんの体重の増加とか、試合の結果とか、会社の業績みたいなものです。でも、今のアルバムがリリースされたとき、人間の精神的な成長はそんな一方向にきれいに向かうものではないと思わされました。

「暇と退屈の倫理学」を読んだ今、その気持ちはますます強くなりました。成長は、一点へ向かってどんどん進むことではなくて、こっちの形式の退屈からあっちの形式の退屈へ移動すること、こっちの「とりさらわれ」からあっちの「とりさらわれ」に移動することの繰り返しだと思うようになりました。その移動ができるからこそ人間なのだということ、そして、その移動の際には、迷い、無力感、焦り、怖さ、イライラもあるかもしれないけど、代わりに自由と可能性と正気もあることを「暇と退屈の倫理学」が教えてくれました。

おわり。


おまけ

「暇と退屈の倫理学」に何度も登場するハイデガーの名前、聞き覚えあったんですが、それは以前NHKの「100分de名著」という番組でこの人の著書が紹介されたからです。そのときは「存在と時間」という本が取り上げられて、その内容にわたしはけっこう感動しました。

感動したわりに細かいところはほとんど忘れてるのですが、ぼんやり覚えていることとしては、人が不安に陥るのはまだその対象に取り込まれてないから、みたいなことを言ってた気がします。狂気に不安を感じるのはまだ自分が狂気に飲み込まれてないから。ゾンビに捕まる不安を感じるのはまだ自分がゾンビになってないから、みたいなことだと思います(二つ目のたとえ違う??w)。だから、不安はいいこだと言ってたような、言ってなかったような気がします。ゼロバイくんが死んでもよかったって言えるのはまだ生きてるからです。天国に僕の席はなさそうと思えるのはまだ天国に行ってないからです。ゼロバイくんはきょうも元気いっぱいに悩みながら生きていると思います。


※この感想はMOA人格で書きましたが、子育て主婦というもう一つの人格(ていうか一応そっちがデフォルトなのですが)としてもとてもおもしろい本だったので、別途その視点での感想も書いてみたいと思います。

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