ゼロバイ思 1: 小さな死

ゼロバイとの出会いは忘れもしない、と言えればいいのだが、忘れてしまった2021年12月1日、FNS歌謡祭の時だったらしい。のっけからこんな情けない出だしで申し訳ないのだが、本当にうろ覚えなのだ。途中から慌てて録画したっぽい記録を後で見て、あっこの時にはもう惚れていたのだ、と気付いた。 (酒飲みながら見ていたとはいえ、記憶力の低さが自分でもこわい。)

その3日後、これは忘れもしない12月4日、ふと、TXTの新曲(ではない) どこかで聴いたけどよかったな、とyoutubeで検索し、たどり着いたのが日本版のMVであった。心臓の鼓動のように躍動感のあるリズム。何度も繰り返すSay you love meという、祈りのようなフレーズ。

赤い血を胸から流し、背中を寄せ合いお互いのぬくもりを確かめあうかのように歌う、少しこの中では大人っぽくみえる二人の少年?いや青年?たち。二人とも魂から咆哮するかように情熱的な、しかしタイプの違うメインボーカルの、少年たち。そして濡羽のような黒い長い髪の少年は、なんて暴力的な美貌なんだろう。その大きく感情豊かにくりくりと動く、憂いを秘めた、同時に力強さも感じる瞳が、この楽曲の生命力の豊かさと、その背景に秘められた物悲しさを、まるで象徴しているかのような。
この5人の、少年と青年の狭間の若い肉体が、印象的で生命力溢れる音楽と共に、躍動している。衝撃であった。
「いつ見ても5人で一緒に半ズボン履かされてるこたち」(だいたいあってた)(いつもではない) という私の中のこれまでのTXTに対してのイメージは、完全に覆された。

その後に見た韓国版のMVに夢中になり、本当に冗談でなくこの日だけで50回くらいは見た。
スタンドバイミーを思い出すようなロードムービー。親の目を盗み、5人だけの逃避行。彼らが歳を重ねおじさんになっても、おじいさんになっても、一生の宝物として心に抱き、現実がつらくなった日もふと宝箱から取り出し、心の支えにするような。そんな、少年の日の思い出。に、なりそうな。
そう思いながら微笑ましく見ていた。この物語がヨンジュンの演じる、ひとりの少年の幻覚だと気づくまでは。

何回も繰り返し見るうちに、違和感に気づいた。ラストの自分のマンションの前で、ひとりぼっちで起きるヨンジュンのカット。車は燃えたはずなのに、いつの間にか帰りたくない家の前に戻ってきている 。そこに彼と旅していた仲間の姿はない。
終盤のシーンでは、秘密基地ではしゃぐ5人と1人で家で踊る彼の姿が交錯し、さらによく見れば彼のほっそりとした右手首には、ファッションとはちぐはぐな、まるで入院患者の個体識別のようなバンドが幾重にも、巻かれている。


ひょっとしてこれは、精神を病んだ彼の幻覚の中の出来事なのでは?と思うまでに、時間はかからなかった。

数日後に家に到着した、FREEZE BOYverのコンセプト写真に私は目を奪われた。そして、MVに感じた違和感の原因を、はっきりと確信した。これはダイレクトに、明らかに、依存症や精神的な不調をモチーフにしている。MVの彼もやはりきっと、そのような問題を抱えながら生きる一員、だ。


スビンは買い物依存。コロナ禍でどこにも出かけられないのに、だからなのか、大量の靴箱に囲まれている。ヨンジュンは明らかに摂食障害であろう。ちっとも美味しくなさそうにカップラーメンを見つめ、その頬は痩け手首は折れそうなほど細いのに、醜く肥大した(と思い込んでいる)姿を見たくないため鏡は割られている。ボムギュは睡眠障害で、今夜も眠れないのか、空虚な目で薄暗い部屋の中に佇む。テヒョンは誰もいないペットサークルの中で横たわっており、かつてここに存在していた命を亡くした悲しみから立ち直れないのだろうか。日本のアニメが好きで、歯に矯正器具をつけたヒュニンカイは、典型的な「ナード」で、大好きなものに囲まれているのにその表情は暗い。もしかして少数派故に学校でいじめられ、部屋に引きこもるようになったのだろうか。

たくさんのモノに囲まれている彼らはゼロバイの主人公の少年(以下ゼロバイくんとする)と同じ、物質的には恵まれた家庭の子供たち。ゼロバイくんは家庭内不和があったけど、家庭に何か理由があるのか、特にないのか。コロナ禍により全てが停滞し、外界との接触が減り、ますます病んだのか。しかし。
この子達は家の中では1人で苦悩しながらも、公園で集う仲間の存在がある。そのひとときだけは、過剰な行動を取らなくとも、気持ちが楽になれる。積み上がった大量の靴の中から選んだ、おろしたての靴をはき公園に向かう足取りだけは軽いし、みんなと食べるカップラーメンだけは味がする。ひとりで食べた時のように、後で吐き戻したくなる頻度は少ない。

そんな仲間がゼロバイくんも欲しかった。
欲しくなるのは当然のことだろう。
だから現実と夢の境界が曖昧になってしまった、病に侵された自身の頭の中から生み出したのだ。

ゼロバイくんの4人の仲間は、彼が大切に飼っている金魚たちなのでは?と直感的に思った。金魚たちがゼロバイくんの唯一の救いだったのかもしれないが、金魚たちもまたゼロバイくんがいないと生きることもできず、唯一の存在であり、依存先なのである。個人的にペットと人間の関係性は、自身の飼う爬虫類たちを思い浮かべながら、どんなにペットからの反応が淡白であろうが、人間に飼われてしまった以上、依存しあう関係であることは否定できないんだぜ、、と思っている。

金魚たちとゼロバイくん、お互いが強く願いあった結果、お互いが見た幻覚なのかもしれない。願いが強すぎて、幻覚が現実になってしまったと考えたいが、そうなると結末がいっそう切ないものになる。
自分たちの世話をいつも優しくしてくれる彼は、彼らにとってもある日舞い降りた天使で、彼の世話なしには生きていられないので、彼が世界で唯一の法則でもある。
ある日とうとう、狭い水槽の中から彼のホームタウンに連れ出してくれた。念願叶って彼と同じ人間の男の子の姿になり、言葉も通じるようになった。いつも水槽の中から、「僕たちを薬のように使って、僕たちで癒されて」と言葉にならない声で叫んでいたけど、初めて得た声と言葉で彼に直接伝えることもできた。彼を抱きしめることも、頭を撫でることも、彼の涙を拭うことも、一緒に泣くことも。一緒に笑うことも。ずっとずっと彼にしてあげたかったこと、一緒にしたかったことが、全部全部叶った。
たくさん笑って泣いて、かけがえのない時間を過ごし、最後は熱で弱り命が燃え尽きてしまったけど、これぞ「死んでも良かった」だったのかもしれない。
 

🦊人間になってもよく食うなあ。。
🐰ε( ε•o•)э 𓈒𓏸◌??
(他の個体より食いしん坊で、イトミミズを圧倒的に殺戮しているので、天国にいけないやぁ〜と思っている金魚ちゃん。)

この楽曲の歌詞には印象的なフレーズが多いが、君に出会えて「死んでもよかった」という最高級の執着を見せながら同時に「Please use me like a drug」と、相手にも自分に依存させようとている点が特に印象に残る。この曲の歌詞は先ほどのMVでの金魚たちとゼロバイくんの間の、ある意味の依存の関係にもなぞらえられるし、広い意味での共依存的な愛の関係を歌っているように思うが、初めて知った恋愛だからこそお互いに執着し、依存しあう関係の幸福を歌った歌詞、と解釈するのがまず自然な気がしている。
そして、55回くらい(?)聞いた時に、「これ心中の曲や、、」と勘づいた。というか、依存し合う恋愛の慣れの果ては死と相場が決まっているのだ。ここで思い出すのが大サビ前の、ヨンジュンが自ら提案した、スビンの手を自分の首に這わせ、首元へと誘導したのちに、払いのける振付けである。


彼がわざわざ肩に手を置かれるはずだった本来の振付けを、手を首元に這わせる振付けに変更した意図はなんなのだろうか。調べた限り、まだ彼の口から語られてはいないので、それをいいことに私は勝手に想像する。そもそも元の振付けの意味が、闇に誘う手を払いのけたのか、震える肩を抱いてくれる手を取り救済されたのか、そこを想像するだけで楽しいけど、歌詞の通り、スビンの手が「ゼロの世界で見つけたぬくもり」の手だと考えたとしたら。
自分と一緒に自分の首を絞めてくれる、心中の共犯者になってくれる手こそが、自分を救うぬくもりの手、だという意図には思えてこないだろうか。
また、いったん首元まで誘導したスビンの手を、払いのけることに注目したい。この振付けが表現するのは、君と一緒なら死んでもよかったといいながらまだ死にたくはない、少年の葛藤なのだ。

それぞれに問題を抱え、過剰なものだけに癒されながら、公園に集うBOYverの5人の男の子たちも、精神病院から抜け出し、幻覚の世界の中だけで生きているMVのゼロバイくんも、ヨンジュンの考案した、スビンに一緒に首を絞めてもらい払いのける振付けも、おそらく全員が、生きていたいからこそ死の真似事をしている。

これは単なる心中ではなく、「心中ごっこ」のおはなしなのである。

ふと「小さな死」、という言葉が浮かんだ。
この言葉を多用しているのはジョルジュ・バタイユが思いつくのだが、他にどのような使用例があるのかを調べてみた。死生学の分野では、よく使用されている言葉らしい。
おそらくこれは一部にすぎないのであろうが、以下、小さな死生学序説―「小さな死」から「大きな死」へ ―大林雅之著 (1)
の緒言からの引用である。

1 「喪失感」を「小さな死」に結びつけるもので、一般的に死生学ではこのように使われている(2)。
2 欧米では、「小さな死」という言葉は、「性の快楽」における「絶頂期」を意味してもいる。このような使用の代表的な論者は、フラ ンスの思想家であるジョルジュ・バタイユで ある(3)。
3 「大人の死」に対して「こどもの死」を 「小さな死」とする(4) 

「小さな死」についての論文をいくつか読んでみたが、非常に難解な問題で、私の拙い頭では全く理解が追いつかなかった。理解が追いつかないまま言及することは非常に失礼なので、今はこれらの定義と交えて言及することは控えるが、少しでも分かりたいので、今後読み返してみようと思う。

私がゼロバイのテーマのひとつだと考える「心中ごっこ」は、「明日も生きるための小さな死 」と捉えることはできないだろうか、という印象を受けている。
人間は生きているかぎりは他者の死しか経験し得ない。死んでもいいけど死んでもよくなくて悶々としている、人一倍生きる意味を無駄に考えてしまい、明日への一歩を踏み出すことの難しいタイプの人間は、頭が白むような刺激的な経験、例えば、薬物、アルコール、過食、SM行為、自傷行為、時には自殺未遂、すなわち小さな死を繰り返すことで生を実感し、明日、今日を乗り越えてまた明日、と毎日を生き延びている者も多い。
もっとも、健全な精神を持っていても、本当はみんな小さな死の体験がしたいからこそ、ジェットコースターやバンジージャンプなんかの、臨死体験に近い遊びをするのでは?と思っているのだけど。

生きるために儀式のように繰り返していた、あらゆる小さな死。君と一緒にする小さな死の儀式は、これまでのそれより甘くて切なく、中毒性が高い。生きるために小さな死を繰り返さなくてはいけない生きづらい少年が、小さな死の悦楽を知ってしまった喜び。結果的にこの曲が果てしない生命力に溢れているのは、小さな死が明日を生きるためのものであると同時に、悦びを伴うものなのだからでは?

バタイユの使用する小さな死という言葉がやはり印象的なのか、例えば英語でもsmall deathというと即エッチィな意味に取られてしまうらしいので気をつけなければいけないが、あながち間違ってはいないのではないだろうか。性行為以外の小さな死の体験も、しばしば一種の快楽にもつながる。
この曲のサビで、各々自分の首を絞めたり、胸をかき抱くような振付をする彼らが少し官能的な表情で踊るのは、この楽曲のそのような側面を意識的にか、無意識にかはわからないが感じとった上でのことではないか?と考えている。煩悩だらけlove sickといった風情の感想で申し訳ない。

過剰なものに触れることで生きのびること、過剰なものが救いになることは決して悪いことではないと私は考える。思春期は多かれ少なかれ、誰もがその傾向が顕著だし、個人的には生涯そのようにしか生きていけない体質の人間もいると思っている。私も少しその傾向があるから、この曲は他人事でも過ぎ去った過去のほろ苦い青春でもなく、お守りのように大事にする楽曲になったのだ。

ふと、ヨンジュン演じるMVのゼロバイくんはこの後どう生きていくのだろうか、と考えた。死ぬこともできず、小さな死を繰り返しながら、幻覚の中で仲間と徒党を組み遊び歩いたり、ある日舞い降りた天使が羽根のように優しい口づけをおくるような恋をしたり。このまま一生幻覚の世界から出られないのならそれはそれで幸せなのかもしれない。でもそれなら悲しすぎる。私が。

人々が宝物のように取り出し、何年もたっても心の支えにする青春の思い出を彼は持たない。それどころか、リアルに人と関わって生じた忌々しい思い出すらろくに持っていない。失われた青春は二度と取り戻すことは出来ない。
どうにか生き延びて、幻覚から脱出した時には、まずその点に絶望するだろうし、おそらく現実の世界で生きていけるようになっても、その喪失感は一生付きまとうであろう。
そんな時にはまた小さく死にながら、明日、また明日と生きていく彼の未来が、少しでも幸せでありますようにと祈りながら。

(1) 大林 雅之 「生学序説 ―「小さな死」から「大きな死」へ ―」小さな死生学序説、東洋英和大学院紀要 p.(2005)
(2) 佐々木恵雲「命は誰のもの」、『藍野学院紀
要』、 第 52 巻、p.74(2011)
(3) ジョルジュ・バタイユ(酒井 健訳)『エロティシズム』(筑摩書房、2000 年)、p.288.
(4) 例えば、次のものがある。リルケ『マルテの手記』(新潮社、1953 年)

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