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ADHDの息子が海外インター校で変わった話③「デジタル機器の教育への活用」と「特別視」「変化」

マレーシアクアラルンプール在住の
美帆です。

マレーシアで3人の子育てをしています。

長男は8歳の頃、注意欠陥多動性障害、ADHDと診断されました。

3年前、中学1年時の偏差値は35。

そんな長男をマレーシアのブリティッシュ系寄宿制
インターナショナル・スクールへ入れて3年。

息子はこの学校で
成績優秀者として2年連続でトロフィーを獲得するほど
成績の良い生徒となりました。

それはどういった要因によるものか。
日本との違いは何か。
考えたことを書いています。

デジタル機器の教育への活用で「学ぶ権利」がようやく守られる子どもたちがいる

さて、2月18日、こんな記事を読みました。

iPad使わせてください 学校に訴えて可能に

本当に喜ばしい記事でした。

記事の男児の学ぶ権利が守られた
、と感じました。

簡単に学習障害のうちの
書字障害(ディスレクシア)について説明すると、こんなことです。

・文字がマス目からはみ出してしまう
・鏡文字を書く
・漢字を覚えるのに多大な困難を伴う
・黒板の文字をノートに書き写すのが難しい

書字障害の原因ははっきりとはしていませんが、書字障害では「眼球運動」が苦手であることが多いそうです。

前(黒板)を見てそこに書いてあることを覚え、下を見てノートに書き写す。
この「眼の動き」が苦手です。

ですから、「板書」(黒板の文字を書き写すこと)は、定型発達の子の何倍もの努力が必要になります。

そこをサポートしてくれるのが
iPadなどの「カメラ」です。

 「おはよう」。どの学年の児童も登校して着席すると、黒板脇の「予定帳」を確認する。始業前のわずかの間に、翌日の持ち物など連絡事項をノートに書き込んだ。その中で、男児はランドセルからiPadを取り出して、予定帳を撮影。帰宅後、それを見ながら翌日の支度をするのが日課になっている。
 小さい頃から、長い文章を書くのが苦手だった。文章を黙読すれば内容はすぐ頭に入るが、音読すると声がたどたどしくなる。
 主治医の薦めで、3年生の時に両親にiPadを買ってもらった。いろいろなアプリを試し、音声入力の機能を使えば考えがすぐにまとまり宿題がスムーズにできるようになる。「学校でも使えたらいいな」。思いが募り、4年生の時に担任の教諭に手紙を出す決心をした。iPadで文章をまとめると時間をかけて便箋に書き写し、昨年3月に渡した。(「iPad使わせてください 学校に訴えて可能に」
毎日新聞 2018年2月18日 11時19分(最終更新 2月18日 11時19分))

つまり
書字障害の子どもにとってのカメラは、
目の悪い子どもに取ってのメガネのような「必要なツール」
です。

子どもの「学ぶ権利」を守るために、2016年に法律も施行されました。

「障害者差別解消法」により、
一人ひとりの困りごとに合わせた「合理的配慮」を行うことが義務化されました。

そこにはタブレット端末の使用も例示されています。

潜む課題

法施行された、ということを踏まえてこの記事を読むと、まだ課題があることがわかります。

『学習障害の一つ、ディスレクシア(読み書き障害)と診断された静岡県浜松市立和田小学校5年生の男児(11)が昨年3月、学校にタブレット端末の使用を手紙で訴え、今学期から一部機能が使えるようになった。』

『昨年3月』に訴えて
使用できるようになったのが『今学期』…
2月付けの記事であることから1年近くかかったことになります。

これは早いでしょうか?
それとも遅いでしょうか?

私は「遅過ぎる」と感じました。

5年生というのは、勉強もどんどん難しくなる時期、つまりそれまではなんとかついていけたとしても書字障害の子の問題が顕在化していく時期です。

法施行され、合理的な配慮は「義務化」されてます。

であればすぐに、1学期から使用できるようにして欲しい。

義務化されていてもすぐに実現出来ないのが現状です。

結果として、前例が無いけれども実現させた学校関係者も「英断」と言えるかもしれません。

ですが、
多分マレーシアのインターナショナル校なら、診断書で「ディスレクシアだからカメラ使わせて」と書いてもらえば翌日から可能になるんじゃないか、と考えるのです。

なぜ、こういうことが起こるのでしょうか。
それは記事の最後で示唆されていました。

教頭は「男児が周りの児童から特別視されないか考慮した。主治医が学校で説明してくれ、校内での理解が深まった」

この「特別視される」ことへの懸念、これが学ぶ権利がスムーズに守られない弊害となっている、と考えられます。

その裏にあるのは次の2つです。
1.「障害がある」こと自体への差別
2.他の子と違うことが認められることへの「贔屓」「ずるい」という感情

1.「障害がある」こと自体への差別

「障害者を我が子の学級に入れないでくれ。足を引っ張られて我が子の学習進度が遅れると困る」

そう仰られる方は現実にいます。

私は長男が診断された後、
日本の学校で面談の度に
「長男がADHDであること」
をクラスに伝えたい、と先生に訴えました。

しかし、先生方は揃って難色を示しました。
長男は週に2度、特別支援級がある区内の別の小学校に通うため遅刻や早退をしているのにも関わらず。

クラスメイトは当然考えます。
「何故あの子は頻繁に学校に遅刻してきたり早退したりするのか?」と。
実際に「どうして?」と聞く子どもたちはいました。

それなのに、言えない。
それは先生方がそれによって息子が「特別視」されることを心配してくださったからです。

それは、おそらく過去に他の保護者からクレームがあったんだと今なら思います。
実際に言ってからも、婉曲的ではありましたが他の保護者の方から特別支援学級に行って欲しい、と伝えられたことがありました。

子どもたちからの差別もあります。
実際にイジメに発展することもあります。
子どもは違いに敏感です。大人よりも。

息子が受けたのは暴力ではなく、度を超えたからかいのようなものでした。

誰もがおそらく受ける「からかい」。
それを受け流せず真正面からぶつかるから、余計にからかわれる。
その繰り返しです。

この「差別」からの「イジメ」を懸念して、言えなくなっている。
そう感じます。

2.他の子と違うことが認められることへの「贔屓」「ずるい」という感情

長男の面談で、歴代の担任の先生からいつも
「贔屓と思われない兼ね合いが難しい」と言われていました。

それは、興味を惹くものがあれば、授業中であっても違うことをしてしまう長男の行動への対処について、特に言われることが多かったように思います。

「なぜあの子だけ叱られないんだ。贔屓だ」「ずるい」と思う気持ちが出ることを危惧されていました。

ですが、「努力が適正に評価され」ていれば、そもそもズルいと思わないのでは無いか、
わたしはそう感じるのです。

これは「努力を褒められない」「評価がブラックボックス」であることがその裏にある問題だと考えています。

「授業を静かに座って聞き、先生に求められた時には積極的に発言する」
「宿題は忘れずに提出する」
これらは「当たり前」とされています。

努力を認めてもらえないように感じているのではないでしょうか。

実際には、こういった課題提出や授業態度は「通知表の評価」という形で評価対象となっているかもしれませんが、内容はブラックボックスで透明性が担保されているとは感じられません。

海外インター校ではどうだったのか

マレーシアに来て思ったことの一つに、
あまり他人に干渉しない
ということがあります。
他民族多文化国家であるマレーシアでは、他人に干渉することは紛争に繋がる可能性すらあります。

今長男が通うインター校は、実に20カ国もの子が在籍しています。

彼らは「違い」に寛容です。
「あなたと私は違う。だけどうまくやっていこう」
それが「当たり前」です。

また、小中学生は宿題をやれば褒められ、
授業で発言すれば褒められます。

それらは「Merit」という毎日出る賞の数として可視化されています。

努力は評価対象です。
何をすれば褒められるかも明確です。

そして、全てやったことはやった本人に返ります。

息子がもし教室から出てしまったとしても、それは息子の評価が落ちるだけです。
クラスメイトは気にしません。

だから、「ズルい」という気持ちは生まれにくいのではないか、と感じています。

日本の教育の課題 変化や違いを受け入れる子を!

今後AIが自己学習能力を持ち、人工知能の自己再生産ができるようになると、AI技術が爆発的に発展し、これまでの世界とは非連続な世界に突入すると言われています(シンギュラリティの到来)。

その時に必要なことは「変化に合わせて柔軟に変わっていける」力だ、と言われています。

長男が通うインター校は、全生徒が自分のPCを持ち、当然プログラミングを習い、タブレットで受ける試験すらあります。
レーザーカッターで木工芸を作り、3Dプリンタで作品を作ります。
3年前の入学時点でそうでした。

今後も、より良いもの、新しくて学習に資するものが出れば、積極的に取り入れていくでしょう。

このような学校は海外に無数にあります。

日本が旧来のやり方に固執している間に、どんどん進んでいきます。

もはや「iPadを使える」かどうか、というのは、発達障害の児童だけの問題では無いのです。

私の息子は「ADHDに配慮してくれる学校だったから伸びた」のでは無く、「変化や違いを受け入れる多様性がある」「新しいものに柔軟に対応していく」学校だったから伸びたのです。

「違いや変化を受け入れにくい」のは日本の特徴です。

しかし、シンギュラリティの到来を考える時、「違いや変化を受け入れにくい子どもを作る教育」は致命的です。

学習指導要領が改定され、日本も「変化」への対応をようやく始めました。

しかし、現場が
「特別視」
をおそれて新しいことが出来ない現状は変わっていません。

書字障害の子がiPadを使えるかどうかは対岸の火事では無い
そう思います。

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ここまで読んでくださりありがとうございます。