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村上春樹氏の「私たちは日々“自分の物語”を作り続けている」発言から“定年45歳”について考える

学生時代はどっぷりと村上春樹作品にハマり、いわゆる”ハルキスト”であった私。

そんなわけで、今でも村上春樹さんの動向はなんとなく追いかけているのですが、彼の母校である早稲田大学に早稲田大国際文学館(通称・村上春樹ライブラリー)が開館するのに先立って、村上春樹さん、ファーストリテイリングの柳井正さん(村上春樹さんと同期なのだそうです)、建築を手がけた隈研吾さんが登壇した際の発言より。

 僕は小説家なので毎日物語を作っているわけですが、小説家じゃなくても、人というのは日々自分の物語を作り続けているものです。意識的にしろ、無意識的にしろ、自分の過去・現在・未来を物語化しないことにはうまく生きていけないんです。
 今の若い人が自分の未来について、ポジティブな物語をうまく作れているだろうかということを最近よく考えます。コロナ禍という特殊な状況下にあって、多くの若い人が自分の未来に対して薄暗いビジョンしか抱けていないんじゃないかという気さえします。

どの時代に生まれて、育ってきたときの世相がどんなものだったのかは、深く自身の考え方に寄与することになると思います。だから、このコロナ禍が自身の人生を左右するような時期にぶつかってしまった人たちにとっては、物事をクリティカルに、とても冷静で慎重に考えるようになるんだろうな、と思います。

それは、良いことでもあり、ちょっと悲しいことでもあるかもしれません。しかし、現実を変えることは出来ないので、どうプラスに好転させていくか、そこに尽きるのだと思います。

サントリー・ホールディングズの新浪剛史社長が「45歳定年制」を提唱しました。

私自身の話ですが、新卒の就職時はいわゆる「就職氷河期」。内定はゼロでした。

映画業界でどうしても働きたくて、大学4年生の頃からアルバイトをしていた社員4人の会社で卒業と同時に正社員にしてもらいましたが、当然、そのお給料だけでは東京で一人暮らしをすることは出来ず、親に24歳まで仕送りを続けてもらっていました。

その後、私がいつか結婚するときのためにと親が貯めていた貯金を使わせてもらって海外留学をして、戻ってきてからまた映画会社に就職。この頃にはもう仕送りをしてもらわなくても大丈夫になりました。

しかし、その就職した会社が倒産の危機で買収され、映画事業をやらないことになったので、転職。そこでハリウッドの映画会社に転職することになります。しかし、転職して7年ほどしたところで、日本支社をクローズするとなり、またまた転職活動。

そうして転職を繰り返すうちに、確実なものは何もない、自分が生き残るために必要なものを身に着けて行かないと生きていけない、という考え方になりました。いや、なってしまいました。

時々、バブル期に入社してから一度も転職をしたことがない社員の人に、就職した当時の話を聞くことがあります。引く手あまたで「うちの会社に来てください」とばかりにいろんな会社からインセンティブ(説明会にいけば何かもらえたり、とか)もらったよ、と。就職してからも、かなりバブルな社員旅行やら忘年会やら。そして、一度も転職活動をしたことがないまま今に至るそうです。

「そんなバブルな時代に良い思いをしてみたかったよ」と思う反面、私の前に立ちはだかってきた数々の壁があったからこそ、「自分磨きをしないとまずいぞ」と思える今がある。

これが「私の物語」なのかなと思います。

日々精進しながら、スマートじゃないけど、ジタバタしながら頑張っていくストーリーを紡ぎ続けたいと思います。

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