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「見る」こと、「育てる」こと

私の手にかかると、あらゆる植物が、ことごとく枯れてしまう。

母の日のカーネーションは根腐れを起こし、「丈夫で育てやすい」と書かれていた万両(マンリョウ)の木には虫がつき、子どもが大切にしていたミニトマトの苗まで、私が水やりを始めたらカビが生えてしまった。

毎日せっせと水をあげて、ときどき肥料もあげているのに、昨日まで元気だった植物たちが、ある日を境にみるみる元気を失ってしまうのである。

植物を上手に育てる人を「グリーンハンド」というが、私みたいな人は「ブラウンハンド(ブラックハンド)」と呼ぶらしい。しょんぼり。

あらゆる鉢植えを枯らし続けてきた私だが、木や花や草が心から大好きなのである。

公園で大きな木のそばにいると、恋人と一緒にいるみたいにテンションが上がる。きれいな花を見ると、つい「かわいいね」などと話しかけて、通りすがりの人から何かを察した同情のまなざしを向けられてしまう。

こんなにも愛している植物を、なぜ私は自分の手で幸せにしてあげられないのか。

いつかおばあちゃんになったら、ターシャ・テューダーみたいにベニシアさんみたいに西の魔女みたいに、秘密の花園をつくるのが夢だったけれど、植物たちにとっては「いや、迷惑なんで結構です」という感じなのか。植物と私は、一生片思いの関係で想いが通じ合うことはないのか。

最近は大好きな植物たちに迷惑をかけないよう、そっと遠くから見守ることに徹していたのだが、この春、築40年の古い団地に引っ越しをした。

この家の好きなところはいろいろあるのだが、一番気に入った場所のひとつが、南向きの広いベランダだった。

20代のころから、なぜか西向きの部屋に住むことが多い人生で、いつもテレサ・テンの歌みたいな切ない気持ちで夕日に目を細めて暮らしてきたので、南を向いたベランダの明るさに驚いた。

そんな折、外出自粛期間が始まり、退屈した8歳の長男が「お母さん、植物育てよう」と言った。

息子は小さい男の子の常で、生き物を育てたり、観察したりすることにとても興味を持っているのだ。

学校に行けず、友達にも会えないこの期間、植物を育てることは、子どもの心に潤いを与えてくれるかもしれない。私はブラウンハンドだが、夫に似て面倒見のいい長男なら、枯らさずに植物を育てられるのではないか。

「……よし、わかった。育てよう」

私は覚悟を決めた。そして調べた。私の魔の手にかかっても、枯れずに成長してくれる強い植物を。

「ハーブだ。生命力の強いハーブを寄せ植えにすれば、虫もつかないし、手もかからない。私の黒い魔力に、ハーブならきっと打ち克ってくれる!」

「よく育つハーブの苗詰め合わせ」を購入し、息子と一緒に植え替えをした。ついでに、昨年母の日にプレゼントしてもらい、ほとんど葉が落ちて茶色くなっている紫陽花も、一縷の望みをかけて植え替えた。

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それから毎朝、子どもたちとベランダに出て水やりをした。ベランダが明るくて気持ちいいので、天気がいい日はベランダに出て本を読んだり、ピクニックテーブルを広げてお弁当を食べたり、仕事をしたりした。

ベランダにいる時間が長くなり、水やり以外の時間も、植物たちをよく見るようになった。

紫陽花が元気をなくしてきたとき、かがみ込んでよく見たら、鉢下の皿に水が溜まり、落ちた葉が重なって土がじめじめしていた。通気性が悪くなっていたんだな、と気づいて溜まった水を捨て、枯れた葉を取り除いて十分光が当たるようにしたら、みるみる元気を取り戻して綺麗な花が咲いた。

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レモンバームの葉を炭酸水に浮かべようとつまんだら、どうも葉の色がおかしい。葉を裏返したら、虫がついていた。慌てて虫にやられてしまった部分を刈り込み、薄めた薬をスプレーした。

朝水をあげても、たくさん水を吸って夕方には土が乾燥してしまうミニトマトの鉢には、1日2回水やりをすることにした。

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植物ごとに、よく様子を見て、必要そうな手当てをするように工夫したら、なんと!

この2ヶ月ほど、鉢植えがひとつも枯れることなく、全員すくすく元気に育っているのである。特に繁殖力の強いハーブは植木鉢をはみ出してのびのびと成長し、わが家のベランダはちょっとした菜園のようになってきた。

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そうなってみて、私はようやく気がついた。

自分に足りなかったのは「よく見る」ことだったのだと。

確かに毎日規則正しく水をやり、肥料もあげていたかもしれないが、以前の私は、ちっとも植物を「見て」いなかった。網膜には映していたかもしれないけれど、少なくとも注意深く観察してはいなかった。

だから、それぞれの植物が出しているサインを読み取ることができなかったし、その植物が今、必要としている手当をすることができなかった。植物はちゃんと、水や肥料、光を欲するタイミングや量を教えてくれているのに、鈍感な私は全然気づいていなかったのだ。

そりゃあ万年片思いなわけだ、と腑に落ちた。

さっぱりした野菜が食べたい気分なのに、こってりした揚げ物を口に押し込んでくる相手がいたら、人間だって具合が悪くなるし、仲良くしたくない。

「今までごめんよ……」とベランダの葉っぱを触りながら、家の中でじゃれ合って遊んでいる子どもたちを見ていて、また「あっ」と思った。

「よく見る」のが大切なのは、きっと人間の子育ても同じだ。

そして最近の私が「育児って難しい」と感じていたのは、たぶん学校が休みだからでも、なかなか外に出られないからでもない。じっくり腰を据えて、子どもを観察していないからだ。家事や仕事、時間に追われ、ろくに子どもの顔を見ずに「片づけなさい!」「勉強しなさい!」と言い続けていたから、糸がこんがらがってしまったんじゃないか。

子どもがなぜけんかしているのか。なぜ泣いているのか。なぜ苛立っているのか。目の前で揺れ動いている子どもの感情に巻き込まれる前に、落ち着いて観察すれば、必ず原因がわかる。原因がわかれば、対処法が考えられる。

おなかが空いているのかもしれないし、眠いのかもしれない。抱っこしてほしいのかもしれない。言葉が喋れない赤ちゃんの時代はいつも、必死で子どもの様子を観察していたのに、コミュニケーションがとれるようになったのでつい安心して、よく見ることを怠っていた。

自分以外の生き物をよく見て、その要求に耳を澄ませることで、縮こまっている意識が「私」ひとりの小さな枠を超え、ぐっと大きく広がるような気がする。

20代のころは、自分以外のことに時間を使うなんてもったいないとさえ思っていた傲慢な私だけれど、健やかに育っていく小さいものたちに、「よく見る」ことの豊かさを日々教えてもらっているような気がする。

まだまだグリーンハンドへの道は遠そうだけれど、おばあちゃんになるころには、もっと植物と仲良くなれているといいなあ。

……なんて思いつつ、植物のために夏の日よけを、子どものために明日のお弁当を準備する夜更けのひとりごと。



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