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個性はない、主張はしない。けれどすべてが美しい

日本庭園が写真映えしない。取材中何度もシャッターを切るけれど、どこをどう切り取っても同じような絵になってしまう。見ているとこんなに美しいのに、やっぱり私のスキルのせいかと何度も撮影していると、「メインが無いから、写真映えしないんですよ」と対応してくれたお坊さんが話しかけてくれた。

日本庭園は石の配置や光の入り方など、すべての事象が重なり合って美しくなる。1つ1つを単品で見たり、どれかにスポットライトを当てても、どれもそこまで特徴は無いのだと言う。そのため目で見ると綺麗なのに、写真によって切り取ろうとするとときめきが無くなってしまう。

"メインが無い"ものについては会席料理についても、退蔵院の副住職が出演されているtedで話されていた。

"洋食のコースを頼むとメインディッシュが出てきますが、和食、会席料理には"メイン"という考え方はありません。"

最初から最後まですべての料理が平等。それぞれが同じように役割をもっている。

和食も日本庭園も、どれか一つが他より際立った個性を持っているのではなく、みんながそれぞれ自分の役割を果たし、全体で美しくあればいいという考えのもと成り立っているのだろうと思う。

それらの考え方は、和を尊び協調を重んじる、日本らしさが出ているようだ。

大学の卒業論文で"日本文化とことば"について本を読み漁っていた時、「日本には、英語で言う" I "にピッタリの訳が無い」と言う記述があった。現に日本の呼称はほぼすべてが関係性の中から生まれているという。

" I "の翻訳時に使う「私」は本来「公(public)」に対するprivateを指しているもの。「お母さんはね」や「お姉ちゃんはね」など、話す相手との関係性によって自分の呼称は変わっている。日本人は、どんな状況にも左右されない、確固たる" I "があるのではなく、さまざまな人との関係性のなかで、自分のポジションや位置をしなやかに変えていく。その様子が言葉にも表れているのだそう。

日本の「メイン不在文化」について考えていると、「自分らしく」や「個性を出して」と言われて苦しんでいた自分の悩みもなんとなく消化される。確固たるそれが見つからず、個性がないことに落ち込んでいたのは、典型的な「日本人」をやってきていたからだったのかもしれない。これは、立派な日本文化に基づく思想だったのだ。

自分だけが目立つ必要はない。オリジナルの個性を主張する必要はない。自分の周りやその場、その時がよい状態でいられるよう、相手を見て、しっかり調和して、自分にできることをすればいい。そうすればみんなで、1つの綺麗なものを作りあげることができるから。

日本文化は私に、そんなことを伝えてくれているような気がした。


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