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ライターは「情報」を「言葉」に変える仕事

仕事で各都道府県の"ガイド記事"なるものを作っている。

いわゆるキュレーション記事。編集部内で記事の要素、構成を考え、ライターさんへ依頼。上がってきた原稿をチェックして公開している。複数のライターさんに類似した構成の記事を依頼して感じたのが、書いてもらった記事が「情報の羅列」なのか「紹介文」なのかで記事のクオリティが全然変わるということだ(改めて言うにはあまりにも当たり前のことかもしれないけれど)。

例えば由布院とは?の説明に「大分県由布市にある温泉」と書いたとき。「ふぅん」とサラっと流し読みしてしまうか、「由布市って大分のどの辺にあるんだろう」の疑問が浮かんでくる。読者は旅行者のため、大分に行ったことのない人が多数。県の各市の位置関係は知らない人が多いはずだからだ。

これが「福岡県の博多から日帰りで行ける距離にある、由布院」と説明するとどうなるか。「博多」は日本でも有名な都市のひとつ。九州旅行を考える人の拠点にもなりやすい。「博多から日帰りで行けるなら旅のプランに入れてもいいかも」とイメージがつく。

読者が何を思ってこの記事を見に来ているか、その文章で言いたいことは何なのかが考えられたものが"紹介文"として意味を成していくのだと思う。

恐山の住職代理・南直哉(みなみじきさい)と脳科学者の茂木健一郎の対談、『人は死ぬから生きられる―脳科学者と禅僧の問答』にこんなことが書いてあった。

95歳のおばあちゃんが「私は死んだらどこに行くのか」と直哉和尚に聞いた時のこと。本来、仏教では「答えない(無記)」が公式的な見解だ。死んだらどこに行くのか、どうなるかは死んでみないとわからない。"善い行いをした人は天国へ、悪い行いをした人は地獄へ行く"話は結局生きている人が考えたことであり、そうなっている保証はどこにもない、と。

ただ、おばあちゃんに「死んだらどこへ行くのか」と聞かれた時、直哉和尚は「天国に行くに決まってる」と断言したのだそう。どうして断言したのか、おそらくおばあちゃんは「言葉」が欲しかったのだろうと思った。

"一体どのような了解のもとで何を言おうとしているのかを忘れてしまうと、言葉はその瞬間に情報になって浮遊していってしまう。"

本の中で直哉和尚は「言葉はある種の力を生み出す」と言う。"言葉はもともと自明でも透明でもなく、力"なのだと話す。

試験結果を待つ受験生が、「受かってるかな…」と不安なさげに言う時に、根拠はあいまいでも「大丈夫だよ」の一言を伝えるだけで、心が落ち着いたりするのもきっと言葉の力なのだろう。

おばあちゃんの場合、「情報」としての死んだらどこに行くか問題は、「わからない・答えない」が本来だ。けれどおばあちゃんにとってこの時必要なものは、情報ではなく、言葉。「死んだらどうなるか」の不安に対する言葉だった。

実際はわからないことを、そのおばあちゃんに対しては「天国に行く」と断言した直哉和尚。それに対してはこんなことも言っていた。

"もし普遍的かつ絶対的な基準がどこかにあって、仏教で間違ったことを言ったら地獄に落ちると決まっているとするならば、落ちる覚悟で言わないといけない。仏教者というのは、そういう立場にある人間だと思うんです"

自分が発した言葉に対しての責任は、自分がもつ。その覚悟があったうえで言葉を発し、それによっておばあちゃんを救おうとする直哉和尚。そこには直哉和尚の言葉に対する真摯さも感じた。

個人的には、実際このおばあちゃんが天国に行こうと地獄に行こうと、おばあちゃん自身あまり問題ないのではと思う。おばあちゃんが欲しかったのは生きている時に得られる「安心」だと思うからだ。

「言葉」を扱う以上、編集や書く仕事もこれと同じことが言えると思った。冒頭の記事で言うならば、私たちが生み出す記事で「由布院に行きたい」と思う人を増やしたい。そのためには「情報」を羅列するのではなく、その人に合った「言葉」を編んでいく必要がある。そして自分たちが作った「言葉」に、必ず責任ももつ。

読者が「自分に有益な情報」を求めているならば、魅力的に言葉を組み合わせ、伝える。それは大げさに言うとか、うそを言うとか、事実をねじ曲げて伝えることでは決してない。なぜなら読者は嘘を求めていないからだ。

「情報」を届けたい人に向けて、どう「言葉」にしていくか。それがライター・編集の仕事のベースであり、ずっと追い続ける問いでもあるのだろうなと思う。


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