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私の考え(国葬、鬱、お寺について)〜2022.8.31.

・国葬について
・更年期障害と鬱の薬について
・お寺について


胸が痛いニュースがここのところ続いていて、長引くコロナ禍の先に身近にも感染者が次々と出るなど、更年期障害3年目の私自身、自分を成り立たせるにも精一杯の今日この頃です。
恐らく世の多くの人達がそのような状況下にあり、例えば飲食店などもろにコロナの煽りを受けているような業種からは日々嘆きの声が上がり、比喩のみならず本当に胸が痛む思いです。
そんな環境の中、今の私が思っていることを3点、それぞれ軽くまとめたいと思います。


国葬について〜いつまで反対しますか?


賛否両論、と言うよりももはや反対意見が過半数となっている現在。私も最初この話が出た時は、えぇ?と心の中で反対の感情が湧きました。私の視点はただ一点、今の日本にそんなお金あるの?でした。
経済の低迷、労働賃金が上がらない、所得の差が激しくなっている中での貧困家庭の問題、日本の福祉の至らない点、子どもにかける予算、少子高齢化における支出、年金が目減りしていること、など、一瞬にして駆け巡る不安感は多大なものです。そんな折に国葬ともなると、いかほどの税金が使われるのか!?血と涙から滲み出たかき集めたお金を持って税金を納めている人達の感情は?いや、私もその一人です。
とても残念なショッキングな出来事でしたが、国葬を行うのはどうなんだろう?と率直に思いました。あくまでも率直な感想です。
日に日に旧統一教会と自民党との繋がりが明るみに出て、国葬反対の意見や議論(?)が毎日行われています。
ですが、私の考えることを結論付けて言うと、国葬はもう決まったことで覆されることはありません。お金が全部でいくらかかるのか、今それを国民に告げたところで納得されることはなく、更に反対の気運が増えるだけです。
いつまで反対しているのかなぁ、と思っています。私のような一庶民からは想像も出来ない世界から日本のイメージが、どんどん悪くなるような気さえして来ます。亡くなった安倍元首相が、一人の人間として命を落としていることは間違いがなく、安倍元首相を始めその親族の方々の思いはいかばかりでしょう。政治的思想とは関係なく、私はそう考えます。



更年期障害と鬱の薬について


身体の異変を感じ、婦人科で更年期と診断されてから約3年になります。その頃から保育士の仕事にも支障を来たし、日常の暮らしにも弊害が出て来たので、様々な治療法を試みて来ましたが、一向に良くなりませんでした。
最後の綱手となるのは、多くの人に効用があるホルモン療法ですが、これは人工的に女性ホルモンを増やす薬を体内に入れることで、更年期の症状を和らげるというものです。副作用として女性特有のガン発生のリスクがあるので、私はなるべくその治療法を避けて来ましたが、年々ホットフラッシュを始め、更年期障害の諸症状のどれも当てはまるようになり、仕事復帰を目指して今から2ヶ月前に始めました。
当然、長引く身体の不調に気持ちも沈みがちになります。また更年期の年代は、子どもの自立などにより生活にも大きな変化を感じる時で、落ち着きません。そんな中、婦人科と並行して精神科にもかかりながら、抗うつ剤や安定剤、また、更年期は不眠がちになるので睡眠導入剤を処方してもらっています。
ホルモン療法を始め、あらゆる薬には副作用があります。何かの症状を和らげるために投薬し、今度はその副作用に苦しむ、、、最近はそんな感情が渦巻いていて、薬は万全のものではない、という思いに至っています。
特に鬱と言われるような診断は、明らかな数値に基づいたものでもなく、かかった病院の医師の診断になります。もしかしたら病院を変えたら違う診断名が付くのかもしれない?とも思います。
前にもそのような時期があったのですが、ここのところ薬を飲んでいる自分に少し違和感があり、これは本当に正解なのかな?と考えたりします。
例えば、更年期障害にはハッキリとした分かりやすい諸症状があり、また、血液検査によってもその数値が明らかに証明されます。ですが、鬱のような診断の場合、患者側の伝え方、医師の受け取り方が全て、のような気がしていて、投薬よりも、自分自身の心の持ち方、物事の捉え方、考え方の思考の癖に目を向けて改善していった方が健全なのでは?と思うのが、今の考えです。
もちろん、思うようにならないことで苦しんでいる人は沢山いるし、それは私には計り知れません。通院しようと思うには理由があるのですが、きっかけはどうであれ、今の私は精神科への通院に疑念があります。



お寺について


今の私は、概ね恵まれている環境にあると思っていますが、このように心が落ち着かないことも多くあり、日常生活から少し離れたどこかへ出掛けたくなります。コロナ禍でマスクストレスも多く、また猛暑だったり体調が万全でないこともあり、自由に動ける状況ではない中で、先日ふと思い立ち、故郷滋賀にある西教寺というお寺に出掛けました。私は車の運転がとても好きで、何より気分転換になると考えたからです。
西教寺に着いて私は、その立地からも、とても清々しく幸せな安心感に包まれました。夏の終わりを惜しむかのように切なくセミの声が鳴り響き、また、琵琶湖が望める高台にあることで風の通りも良く、時間を忘れて境内を散策しました。普段、あまり日本に執着がない私ですが、あぁ、日本人なんだなぁと実感しました。
何時間もかけてお寺の中で過ごし、歴史深い仏像に手を合わせ、そのとてつもない深い歴史の先に私が生きているという事実を振り返りました。特に滋賀県、京都府は歴史深い場所でもあるので、地元に戻って来て2ヶ月が経過した私にはとても新鮮に感じます。西教寺は、明智光秀一族の菩提寺だと言うことも訪れて初めて知りました。自然と手を合わせながら、歴史に疎い私は、早速当時の様子に心を馳せ、家に帰って調べたりしました。
そんな中、お寺と言う存在は、こんなにも人の心を和ませる場所なんだと、改めて感じ、自分の年齢がそれを味わえるようになっただけなのか、それとも今の環境がそうさせているのかは分かりませんが、少なくともお寺がとても安心出来る満たされる場所だと言うこと、そして様々な事象に嘆いたり批判したり悲観したりするよりも、そのような満たされた時間を求めて生きた方がよっぽど自分の健康につながると言うことを感じました。
お寺は仏教に基づいた建築物で、布教の場と言った宗教の場として捉えていましたが、元々寺院はそればかりではなく、その昔、地域における福祉や文化、教育の拠点の役割を担っていたのです。現代の社会とは生活とかけ離れていて、誰か親族が亡くなった時や年末年始のお参りだけの場所になってしまっています。小さなお寺では、子ども達が走り回って境内で遊んだ、そんな和やかな光景も想像しますが、生活に密着して目の当たりにすることはなくなりました。困ったことがあれば、お寺に行って相談する、という風習もなくなり、お寺に行っても僧侶の方の姿を見ることは滅多にありません。
江戸時代には寺子屋といった、子ども達の学びの場でもありました。
昔は、近所の人の心の拠り所だったお寺。日本人の心の中には、そこにほっとする何か魂の響みたいなものがあるのかもしれないなぁと思いました。
今は身近なものではなくなってしまっているので、この長引くコロナ禍を仏様達はどういう風に見ているのかな、、と思いながら、心を沈めて来ました。


最後に

ギスギスした世の中は、もうたくさんですね。
カルト的新興宗教や犯罪や虐待など、自分の心の歯車がどこかで狂ってしまったのでしょうか。悲しむ人が居ることは、とても悲しいことです。

こういった思いから私は、更年期が明けた時、出来るだけ多くの笑顔や希望を周りの人に伝えていけたら幸いだと改めて思い直しました。


日本をまだ諦めないし、自分のことも諦めません。





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みほ
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