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親孝行と言う名の呪縛〜もう時代遅れなのかも

親孝行と言う名の下に苦しんでいる人がどれだけ多く居ることか。。。
ふとその一人がこの私だと、先ほど突然に気付いたのだ。
いや、心の底の方ではとっくに気付いてた。
親が生きているうちは、この呪縛に縛られ続ける、と。
かと言って、親には長生きしてもらいたいとは思っている。
けれど、後期高齢者になったばかりのひとり親である母親に対しては、育ちの中からずっと確執と葛藤があって、そのために私はかなり生きづらさを感じて生きて来た。人生の要所要所で母の存在が大きく影響する。

これは決して悪口ではない事実なのだが、私の母親は利己的な人だ。
それでいてとても繊細で優しい面も持ち合わせている。
愛情深く育てられたかのように思うけれど、実は私が受け止めるにはあまりにも過酷な娘としての人生だ。
母は、私への想いよりも自分への守りの強い人だ。それでも私は、後期高齢者になった一人暮らしをしている母の近くへ、遠く横浜から大阪の地元へ引っ越して来た。少しでも一人の心細さを解消して欲しかったからだ。

けれど、1年半、二人の関係は良くもなったり悪くもなったり、お互いに様子を伺いながら過ごしている。その中で、いよいよ限界が来てしまった。
気付けば私は母を傷付ける。そして母もそれに輪をかけて傷付けて来る。

親孝行をしたい、その気持ち自体が、私の身の程にあってなかったのだと気付いた時、これはもしかしたら、時代の流れの中での変化にもつながるのかもしれないと思った。

親孝行という言葉自体、もしかしたらもう死語なのではないか。
誰しも親のことは大切に思ったりもする。純粋に親孝行な人は存在する。
私はそのような人たちを見て、正直羨ましいと思うし、憧れる。
私も親に対してそのような優しい気持ちや振る舞いがしたい。
でも実際はそうではない。近くに引っ越して来ても親孝行なんて少しも出来ていないばかりか、厄介や心配ばかりかけている。
ここに引っ越してくるのは、少し時期尚早だったのかもしれない。

親を喜ばせたいばかりに、親の笑顔が見たいばかりに尽くそうとしても、
思うような反応は得られないことの方が多い。だから私は、親と約束する時は、よほど準備をして心を整える。等身大の自分では立ち向かうことが出来ない。精一杯、いい娘の役を演じるのだ。


私は親孝行と言う言葉が先走りして、苦しんで来た。
今は、親と同居する人も減った。私も同居を避けている。
そしてまた、私の息子達も立派に自立していった。
私は、自分の親への呪縛から、息子達には自立出来るように育てた。
決して私が足手まといにならないようにと。
今、二人の息子達が自立し、ひとりになって、母と過ごすことが多くなって、心のバランスが崩れている。
そんな時、これからの時代は、親と子の関係も変わって行くのだろうな、と、保育士の立場から見ても、0歳児、1歳児などの乳児の頃から保育園で過ごす時間が増えて、夫婦共働きが当たり前になって、両親は必要最低限の子育てをして、そんな風に育った子どもの未来は、どうなって行くのだろうと考えた時、より自立へ向かうのか、親離れが遅れるのか、、、。

どんな時代が来るのか分からない。どれが正解かも分からない。
親子で過ごす時間は、ほんの20年ほど。それなのに親孝行なんて、子供にとって呪縛でしかないのではないか。

だとしたら、日本は、
福祉にかかる人の人件費を増やして、地位を上げて、福祉にかかる当事者の負担の費用を減らして、他人に世話になるのが当たり前になる構造が必要なのか。
介護福祉施設にも老人のためのカウンセラーも必要だろうとか、社会の変化に伴って最も変化するべきところはどこなのか、とぼんやりと考えていた。


私の老後はどうなるのだろう。
全く長生きしたいとか、長生きに夢なんて持てない今の社会構造の中、
漠然とした不安の中で、日に日に衰えていく体力と向き合っている。

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