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子どもが求める親の姿〜それは大人になるまでも

両親共働きが普通になって、幼児になるのを待たずに保育園に預けられる子どもが増えた。0歳、1歳児のうちから保育園探しが視野に入れられる時代。しかし、そんな時代に於いても理想のお母さんの持つイメージは変わらないのかもしれない。それは子ども自身が本能的に抱く、温かい存在
けれど、現実的には母親にも色々なタイプがあって、日々の生活の親子のやりとりの中から、子どもは自分の親を受け入れていく。

私は二人の息子の子育てを終えたアラフィフのシンママだけど、特に子ども達には、愛されている安心感を感じて欲しかった。
母親は、育てられたように子どもを育てるところはあるが、私はある一面に於いてそうではなかった。反面教師と言う言葉があるように、自分が求めて得られなかったものを子育てで補いたかった。

私の求めて得られなかったものは何か・・・。
それは一言で言うと温もりかもしれない。

両手を広げて待つ親の元に駆け寄る子ども。満面の笑みを浮かべて、その胸に飛び込むことが出来るのは、そこに信頼感と安心があるからだろう。
残念ながら私には、母親に対してその記憶がない。或いは、記憶のどこかから消えてしまっているだけかもしれないけれど、少なくとも私の記憶の中に、幼い頃、そして思春期を経て大人になるまで、母親に大きく包まれた記憶がない。亡き父の大きな背中や胸で安心した記憶で、全て消されているだけだとしたら母は気の毒だが、大人になった今でも、気持ちの上でもその胸に飛び込んでいけない何かがあって、私たち親子は、近づき過ぎるといつもぎくしゃくとする。

その理由をずっと考えていた。

母はいつでも私に気持ちが向いていたのかもしれない。けれど、それは私主体ではないと感じた。あくまでも母の淋しさを埋めるために思えてしまうのは、私は親不孝なのだろうか。
母の愛情は私には過干渉と受け取られ、母の心配は私に管理と受け取られる。私はいつも目には見えない何者かに支配されていた。そんな風に娘に思われる母はとても気の毒だ。

私は母を慕っている。ずっと慕っていた。
けれど、ある一定の反抗心と意地悪な気持ちが、私を素直から遠ざける。
歳を取ったシングルの母は、私の先輩だ。
けれど、心の底から分かり合えることはない。

これはいったい何なんだ・・・と、まだ私はその現実が咀嚼出来ていないけれど、どうやら私が母にとって理想的な娘ではなく、心配ばかりかけ続けていて母を疲弊させているだけの存在だという罪悪感が、自分自身の自信を失わせる理由になっているのは確かだ。

ネガティブな内容になっているが、過去の数々の求めて得られなかった母親像が、今の私を陥れている。何故、そんな温もりを求めて止まないのだろう。。。それは何者かが作り上げた幻想に過ぎない。

母親も不器用に生きる人間だ。自分の身を支えるのにも一生懸命だ。一人で生きて行くとはそういうことだ。その支えになり得るほど、私はまだ成熟していない、と言うことなのだろうか。
この満たされない気持ちから卒業する時がとうとう来たのだろうか。
いつの間にか求めなくなってしまった母親の温もりは、私を意地悪な娘へと変えてしまうのだろうか。そんなつもりでこの地に移り住んだのではない。

少なくとも私は、私自身が自分を嫌いにならないように、母の残りの人生に寄り添う選択をしなければならない。

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