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わたしのこと

私は37歳。空き家になっていた実家に住んで10年経つ。
私の居住を拒む母親に姿見を振り回し「ここは私の家です。ジャマをするなら殺します」と脅して住み始めたが、仮暮らしの予定が随分経ってしまった。
20代後半は原宿のメインロードを歩けば芸能事務所の名刺を30枚は押し付けられたし、会社から家に帰る間に毎日10人くらいにナンパされていた。
会社では背後霊のようなストーカーも何人もいた。
危ない目にも幾度もあった。
なので容姿はまあ、キレイめと言ってもいいだろう。

29歳の時、人並みに30歳からの人生を考えた。
独り身でも、結婚しても、何が起こっても大丈夫なようにちゃんと稼ごう。私はSEになり、順調に経験を積み、年収700万の仕事を軽く紹介されるような身分になっていた。

そして、今は無職で毎日床に転がっている。
1年くらい、転がっている。

仕事はしてみた。
しかし、気持ち悪くなってしまい、PCを立ち上げれば頭痛と吐き気と熱…そして、何かがぽっかりと。ぽっかりと空いた何かのせいで、私は頭を動かすことが出来なかった。
病院へ行き、支援施設に行き、サポートを受け、仕事ができる状態ではないと判断された。しかし金がない。
追い詰められればなんでも出来るのではと思ったけれど、出来なかった。

動かない。体も。心も。
知人の紹介で請けた仕事を3つ連続ですぐに退職した。
今ググったら「会社をすぐ辞めるなんて人間のクズ」らしい。
残ったのは、栄養価の高いパンと、もう使わないだろう分厚い参考書たち。

まあ、思いつきで並べた私のことはこんな感じだ。
最近よく「今どう感じてるの?」と聞かれる。その度に「面倒くさいです」と答えている。
「ゆっくりしてほしい」とか「休んでほしい」とか言われる。嵐のような人生だったでしょう、と。
こんなクズに優しいお言葉だけど、非現実的な言葉でもあるなと思う。
1年休んでみたけど改善はしなかった。仕事をしてみても改善しなかった。
私がこんな風になってしまったのは、多分2年位前からだ。そして小学生の時も今みたいな時があった。
今日は、その2年前の話をまず書こうと思う。

2年と半年前、13年一緒に暮らしてきた飼い猫が死んだ。
その猫は、生後2日でうちにやってきた。
私は当時虐待されていた児童がよく考えるように、何かを育てる自信がなかった。でも1人でいることもできなかった。
私がいないと死んでしまうような存在だったら、ちゃんと育てるのではないか。それで、生まれてすぐの生き物を飼うことにした。

里親を募集している家に行くと、段ボールの中に6匹くらいの子猫がいた。そばで母猫が気が気でない様子でうろうろしている。
もう1人貰い手の女の子がいて、その子は体が白く足元が黒い猫を「靴下柄が可愛い」と言って選んでいた。母猫がシャーッと何度も彼女を威嚇していた。
私が段ボールの中に手を伸ばすと、1匹が私の腕を登ってきた。私はその子を貰うことにした。母猫は私には威嚇をしなかった。
1週間後、靴下柄の子猫は死んだと聞いた。
私は驚かなかった。私も子猫にミルクを飲ませることができず、病院を7件回ったが、子猫を見てくれる病院はほとんどなく死なせるところだったからだ。
母猫はそれが分かっていたのかな、すごいなと思った。
子猫には2時間置きにご飯をあげた。ずっとそばにいると、ご飯とおしっこの時に子猫が鳴き声を分けていることが分かった。

子猫は雌で、名前を雪にした。雪のように丸くて真っ白で小さかった。
私は若くて生きるのが大変で雪にも辛い思いをたくさんさせたと思う。飼い猫とは思えないほど、凛々しいナイトのような気高い猫に育ってしまった。
いつも後ろをついてきて、呼べばどこからでも来てくれた。

亡くなる3年前にリンパ腫と分かり、長い闘病の末に亡くなった。
最後は自力で物が食べれないまま何ヶ月も点滴で生きていた。
亡くなる日、平衡感覚が亡くなり水を求めても水が飲めず、排泄しに歩いては転がり、訳が分からず叫び、瞳孔を開いたまま何時間も痙攣していた。

闘病中私は主治医に何回も猫を殺してくださいと頼んだ。
猫は死ぬことを覚悟しているようだったし、辛い思いをせず安らかに眠らせてあげたかった。
夜間に痙攣で倒れ緊急病院に運ばれた際も「こんなに痩せて…かわいそうだよ。飼い主のエゴじゃないの?殺してあげなよ…」と医師に言われた。
じゃあ、今、殺してくださいと言えなかったのは、何故だったのだろう。
「まだ、もしかしたら回復するかもしれないんだ。回復しなくても安らかな最期を迎えさせてあげるためなんだよ」
主治医はそんなことを言っていた。

最期の日、病院は休みだった。
私は、10時間以上続く彼女の痙攣に終止符を打つために、注射器に水を入れて口に含ませた。
彼女は水を飲み込めず、30秒ほどで窒息死した。今もその最後の呼吸を、死んでいく目を、覚えている。

3年前から私は決めていたことがあった。
彼女は私のことをすごく心配してくれて、いつも守ってくれようとしていた。逝く時は安心してもらいたい。大丈夫だから安心してと言えるようになりたい。
だから泣かなかった。仕事だって偉くなった。社会人として認められるような立派な人間になった。だから、大丈夫だよ。ゆっくり休んで。
いつもの癖で、彼女の肩に顔を埋めた時に、私はいつもこんな小さな肩に頼って、助けられていたことに気づいた。ごめんねと思った。


それから数ヶ月後、私は彼氏を探していた。
前に進まなくちゃならない。そして、誰かに側にいて欲しかった。
会う人会う人、私のことをちょっと嫌だなと思っているのが伝わってきた。
「あなたなら寂しいって言えば誰でも転がり込ませてくれるでしょう。俺じゃなくてもさ」
「じゃあ転がりこませてよ」
ミュージックバーでウィスキーを氷に転がせながら言ってみる。私好みの人だった。彼は半年前に母親を亡くして以来眠れないのだそうだ。
彼は私の頭をポンポンと叩き、強い女性が好きなのだと話した。私は強い女性じゃないからダメらしい。

その次に会った人は話も弾み、何回か会って妊娠した。
当時私は35歳で、子供を産むならこれが最後のチャンスだと思った。周りには出会った日に酔った勢いでセックスして妊娠し産んだ人も何人かいた。
妊娠が分かり彼の家に行った。不安で抱きしめて欲しい気持ちだった。
彼は会いたくないし話も聞きたくない、混乱してるから、しばらく1人にして欲しいと言って家から出てこなかった。

つわりは辛かった。常に37度以上の発熱と怠さ、臭いも辛く常に吐きそうだった。ハムとチーズとパンだけなんとか食べれた。
お盆の時期で、彼は実家に帰ったり友達と遊んだり、冷静に考えるためにも普通に過ごしていると報告してきた。悲しかった。
「妊娠の話はしないでって言ってるじゃん。俺が次誰かとそういうことになった時、どうしてそんなに詳しいのって聞かれたら何て答えればいいわけ?」私がつわりの辛さを話そうとすると、そんな風に止められた。
堕ろせるギリギリになって、彼は会いにきた。

私は彼に産みたいと話した。
「認知もしなくていいし、お金も求めない。要求があれば全面的に飲むし、不安があれば法的文書を作成しよう。私はずっと家族がいなかったし、彼氏すらできない。この機会を逃したら家族が一生できないかもしれない。だから産みたい」
そんな話をした。
彼は絶対に産まないでくれと言った。
「何をされても子供がどこかで生きていて俺の家族(予定)を壊す可能性があったら、俺は殺したいほどそいつと君を憎むし、そんな不幸な人生を送りたくない。君は俺を不幸にしたいわけ?」

不幸か。
産まれてくるだけで誰かを不幸にして憎まれる子供はかわいそうだろうか。
6歳の時、自分のように不幸な子供が産まれる可能性が1%でもあるなら、私は絶対子供を産まない。と、校庭で「25歳で結婚する!」「子供は26歳がいい!」と騒いでいる同級生を見ながら考えたことを思い出していた。
不幸は、嫌だよな。
普通だったら、嫌なことから目を背けて逃げちゃうのに、彼は嫌なことを言いにきて偉い、よな…?

大人なんだからお互いに責任がある、ということで割り勘で中絶手術をした。手術後、つわりがスッと消えた。
つわりがあまりにも酷くて、私は子供に仮の名前をつけていた。子供の出産予定日は4月6日で、私が4月4日、彼が4月8日でちょうど真ん中。
春生まれだから、ハル。ごめんね。不安だよね。大丈夫だよ。気持ち悪くなる度に、そう声をかけていた。
「私は、毎年誕生日近くになると泣くのかな」
「俺は君に泣いてほしいわけじゃない!なんで分かんないんだよ。産んだって幸せになるとは限らない。思ったようにはならない。俺の周りだって、産むなんておかしいって言ってたよ」
彼は必死で真摯に訴えた。でも何かがズレている。

最初は思ったより悲しくなかった。
たった数ヶ月だ、悲しいはずもない。
それでも、何かがぽっかりと空いてしまった。それまで積み上げてきたものを、積むことができなくて、現状維持すら出来なくなっていった。

何故だろう。
私は今も転がったまま分からないでいる。


クズなのは分かっている。
それでも、何か進めないかとnoteを書き始めようと思った。
きっかけは後輩たちとBBQに行った時、結婚や出産の話で持ちきりで、中には出会って1ヶ月未満で妊娠して結婚する子もいた。
私は帰りの電車で1人になった時に、わんわんと泣いてしまったのだ。
幸せになりたいと思って、でもなり方が分からなくて、子供みたいに泣いてしまったのだ。


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