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"怪物(2023)"と邦画の食わず嫌いというおはなし

邦画は観ない、というか見る習慣がない。
Letterboxdを見返したが、劇場で見たアニメと特撮以外の邦画が一つもない。邦画を見ることに抵抗やハードルを感じていたのかもしれない。アニメと特撮は"娯楽"というカテゴリーとして観てきたが、"劇場に足を運んで邦画を見る"という習慣がなかったからだ。そのせいもあってか日本人監督も知らないし、俳優女優の知識もなく、そもそも芸能界に興味がないこと、俳優ありきの映画が多いのも毛嫌いしている。知人たちと配信で「話題の"ドライブ・マイ・カー(2021)"見ようぜー、イェエエエイ!!」をやった日には全員のムードダダ下りで、30分ぐらいで諦めた(いつか見ます)。つまるところ、映画館に足を運んで低予算のラブコメや、家族モノや、泥臭い愛劇をみたいと思う時期が私にはなかったのだ、これまでは。これは弁当を作って行く程に気合いを入れて劇場に足を運んだ、是枝裕和監督/坂元裕二脚本、"怪物 (2023)"のレビューです。

手弁当のサンドイッチ。左から🧀🥒 🐟🥬🧅 🥑🥚 🥓🥬🍅

例によって前情報ゼロ、是枝作品も坂元作品もまったく存じ上げていない。"万引き家族(2018)""花束みたいな恋をした(2021)"も見よう見ようと機会がなかったので、これがよいきっかけになった。

*ネタバレを含みます。


"怪物 (2023)"は最初から最後まで落ち着いたトーンで貫いた静かな映画だった。映画は3(4?)パートに別れており、時系列順のストーリーを各登場人物の目線から描いている叙述トリックの如く、幾多のパースペクティブがパズルのピースのように重なり、全体図、ビックピクチャーが現れる。純愛だ

キャラクターはごく自然な人間として描かれており、俳優もそれを見事に演じている。教師保利役の永山瑛太に関してはもっとも振れ幅の大きいキャラクターとして描かれいるので、荒が目立つというか、幾らかキャラクターのブレを感じた(あまり興奮しないで欲しい、情緒不安定な現代の若者として描いているならそれまでだ)。気になってしょうがないのが依里演じる子役の柊木陽太だ。画面に最初に登場した瞬間の感想は、

「え、なんでエロい?」

だった。依里の容姿、純粋さと、大人びた言動、かつ子供故の無邪気さを兼ね備えたは完璧に眩しいくらい妖艶なキャラクターとして君臨していた。

また世界観のディテールがこと細かに描かれている。安藤サクラ演じる湊の母の「息子が結婚するまで頑張る」。ドッキリ番組と登場する芸人。星川家のインターホン、通学路の標語看板。メガネ生徒の癖。黒川想矢演じるの隣に座る女子生徒の読む本と、その後の行動。保利の語る"男らしさ"。病気の金魚と金魚を捨てようとする保利…などサブリミナル的に情報が散りばめられている。また、保利高畑充希演じる彼女から「緊張してる時こそリラックス」と渡されたアメを面談の途中で唐突に舐め出したり、女子生徒から影響されて死ぬほど不味そうなソフト麺を食べるシーンも特筆すべきだろう(「うわ、まっずそう」とおもわず声が出た)。またシーン一つ一つがニュアンスを含んだ抽象的なシーンが多い(例えば、が突然車から飛び降りるシーン。私は"父親に近づきたいが為にわざと複雑骨折を試みたのでは?"と解釈したが、後のシーンを見れば恐らくそうではないだろう。)

音楽はつい最近死去した坂本龍一が担当しており、エンドロールでは追悼のメッセージが添えられていた。今作の音楽は取り立ててよくはなかった。静かなメロディがポジティブなシーンのみに流れるのだが、映画全体がほぼ環境音なので余計に音楽が流れるシーンが気になる。音楽のトーンをもっと抑える、あるいはクライマックスで諏訪の環境音だけを流せばまた印象は違っただろう。

結局怪物とはなんだったのか。怪物とは理解できないものへの総称、虚像である。登場人物たちは互いを怪物だと蔑み合いながら対立するが、究極的にはこの映画はそれらの虚像のレッテルとはなんら関係のない依里お互いに理解し合う"純愛"にたどり着く。つまり怪物となる"ファクター"そのものは根本的にはただの飾りであり、"怪物"は全て虚像だ(中村獅童演じる依里の父のように深堀りのないキャラクターは"怪物"のようなニュアンスはなくコミカルなまでに"単なるクズ"として描かれる)。ビル火災は生徒たちが保利と彼女を目撃し「保利がバーの女を持ち帰った」と流した噂が親や教師に知れ渡り、実際は単なる放火だろう。田中裕子演じる校長が自分の孫を轢き殺した罪を旦那に被せたのも単なる噂で、学校の虐めそのものを隠蔽しようとしたこと(或いは年老いた彼女の個人的な何か)について「私も嘘をついてた」と湊に告白したのだろう。「みんなが手に入る幸せが本当の幸せ」などとマジョリティー側に立ち、根本的には湊のことを理解していないが、ヘッタクソなセッションが2人の心を通わせた。ホルンの音は大きい。

また、エロティックに描かれていた依里クィアであること、クィア、或いはクィアのようなものに目覚めたことが描かれる。父は依里を怪物扱いしていたが(依里を虐めていた生徒たちも"クィアだから"虐めていたのかも曖昧だ)、視聴者からすれば"依里がクィアだった""湊がクィアに目覚めた"というファクターの登場は、物語の全体図を変えるようなどんでん返しにはなっておらず、湊と依里の間には常に何らかの緊張感があり、それが次第に大きくなって様をしっかり描いていた。全てが懐疑的な湊の母の歪んだ視線と比べ、湊と依里の視線には大人の邪推がなくなり、純粋に世界を見据える。少年時代を思い出すようでこの時間が好きだ。廃列車の秘密基地で2人きりでゲームをし、哲学を語り合う。一度はお互いを拒絶するものの、困難(ビッククランチ)を2人で乗り越える。そこに大人は一切登場しない。純愛だ。


邦画がみんなこんな映画なら見るのに。是枝作品も坂元作品もこれからも見ていくことにする。そうすればこの作品もまた違って見えるだろう。新海誠、 細田守作品や近年のドラえもん映画に関わってるせいか、エンドロールで川村元気の名前を見て正直げんなりしてしまうも(今作の若干のエンタメ臭とそもそもこのストーリーを叙述トリック風に企画した発生元はここ?)、邦画に対する偏見という怪物を拭いとる絶好の機会を得た。私の邦画の世界は開かれた。

さあ始まるザマスよ!
いくでがんす!
以下略。


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