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アラフィフの紅白の思い出ベストテン

今日は大晦日❗

ここ10年程は、家庭の事など省みず(反省)、青春18切符を利用しての旅に明け暮れていまして、大晦日の朝に家にいたことはなく、酷い時は大晦日の夕方にやっと旅から帰ってくるということもしばしば(;´∀`)

今年は例のアレの第3波もあり、青春18切符旅はおろか、乗り鉄旅自体殆ど行けませんでした。

鉄分が不足している為、栄養失調気味になった時には、地元乗り鉄で何とか栄養を補う程度でしたね〜🚃(苦笑)

とか何とか、タイトルとかけ離れたことを書いてますが、ちゃんとした伏線なのですよ、これが。

それは、大晦日まで出歩いていたとしても、必ず「紅白歌合戦」が始まる時間までには帰って来ていたという、一種の自慢です(笑)

私にとって「紅白」とは、物心付いた時から無くてはならない年末の風物詩で、家族で見る団らんの象徴的番組です。

そんな「紅白」の思い出エピソードベストテンを、本年最後の記事として列挙してみたいと思います。

何時もの、好きな歌ベストテンと違い、エピソードでは動画があるとは限りませんので、なるべくYou Tubeで関連動画を検索してみたいと思いますが、文字のみになる箇所もあるかもしれません。ご容赦下さいませm(_ _)m

では、幼少期より「紅白」を振り返ってみたいと思います!


①「昭和52年/ちあきなおみ『夜へ急ぐ人』」

私の記憶では、家族で紅白を見たのは昭和52年、小学1年生の時の紅白が初めてです。
きっとその前も見ていたんでしょうけど記憶にはないので、私の紅白デビューは昭和52年にしたいと思います。

平成になってから紅白というのは、夜7時のニュースが終わった後に始まる、2部制の大型歌番組となり、敷居も低くなりましたが、私が見始めた頃は大晦日というのはレコード大賞が20:54まであり、紅白は21:00から始まるものでした。

紅白対決色も物凄く強くて、優勝も本当に価値があると思えるものでしたね〜。歌詞をわざと打倒白組、打倒紅組に変えて歌ってみたり。

今はオープニングから全歌手がステージにいますが、昭和時代は「紅白のテーマ」が演奏される中を、歌手が1人ずつ紹介されなごらステージに登場し、たまにレコ大と被ってる歌手は、「只今別番組からNHKホールへ移動中でございます」と、山川静夫アナが仮紹介するんです。

それが又、生の臨場感を高揚させてました!(• ▽ •;)

そういう話を書き始めると長くなるので、追々書くとしまして、この「夜へ急ぐ人/ちあきなおみ」です。

小1の私には、ちあきなおみが怖かった!

特にこの曲のサビ、「〽 お出で お出でよ 来る人アンタ 誰〜」の部分を、鬼気迫る形相で歌われるものですから、若干7歳の私には恐怖だったんです。

紅白で初めて聴いた訳ではなく、その前からこの曲を聴いては、サビが怖いと親に訴えてましたので、紅白でもこのサビに差し掛かったら、私はコタツの中に隠れてました(*ノェノ)キャー

父親はそんな私を面白がり、私がイタズラしたりすると、ちあきなおみが来るぞと半ば冗談で、私を諭してくれたものですΣ(・∀・;)

ちあきなおみさんの素晴らしさが分かるのは、大人になってからでした(笑)


②「昭和56年/北島三郎『風雪ながれ旅』」

この年は小学5年生にして、初めて最後まで寝落ちすることなく、紅白を最初から最後まで観ることが出来た年でした\(^o^)/

この年の紅白での、私が今でも覚えていて、なおかつ紅白を振り返る特番で必ず取り上げられるエピソードは、北島三郎さんの風雪ながれ旅で、歌唱に支障を来すほどの紙吹雪が舞った件です。

この年の紅白の大オリは、この北島三郎さんの風雪ながれ旅でして、そのシーンを覚えていることが、最後まで初めて観た証拠ではないかな、なんて(;´∀`)

またもう一つこの年の紅白で覚えているのが、何となく面白く無かったというイメージです(苦笑)

というのも、それまでの紅白では幼さ故に寝落ちしていたものの、途中で必ず入る、応援ゲストによる紅組と白組への応援合戦が無くなったからでした。
それまではタモリさんとか、ドリフとか、植木等さんとか、三波伸介さん、萩本欽一さんとかが、コメディタッチで応援を繰り広げていたんです。
それが面白かったのに、何でこの年はやらないんだ?と、小5の私は紅白に対して、若干苛立ちを覚えました(^o^;)


③「昭和58年/タモリの総合司会&鈴木健二大爆発」

この年、少しずつ視聴率が低下しつつあった紅白のテコ入れに、なんと総合司会に恐らく初めてNHKのアナウンサー以外の芸能人を抜擢しました。
それがタモリさん!
「笑っていいとも」を模したオープニングの面白さは、メッチャ楽しかったです(*^^*)

更に白組の司会には、「クイズ面白ゼミナール」で人気を博し、「気くばりのすすめ」という著書がベストセラーになった鈴木健二アナウンサーが、長年白組の司会を務めた山川静夫アナウンサーから交代したのも印象的でした。

実は山川静夫アナウンサーは、この1年前の紅白で視聴率が70%を割った事に責任を感じ、この年の紅白の司会を辞退したという裏話があります。

70%を割ったからって、オバケ番組には違いないのに、その事に責任を感じるなんて、如何にその頃の紅白に権威があったかを示すエピソードですね。

その分、鈴木健二アナには、視聴率回復というプレッシャーが課せられた訳で、後の著書では「本音では紅白はやりたくなかった」、と記しておられます(実際はこの年から3年連続で司会)。

またこの年は私が広島へ引っ越し、中学校へと進学して、J-POPに本格的に目覚めた年でして、紅白にアルフィーや杏里、中森明菜が出たのは嬉しかったですね♫


④「昭和59年/都はるみ引退にまつわる事件色々」

この年の紅白は、とにかくエピソード満載で、私の忘れられない紅白の一つです。

まずタイトルにした都はるみ引退ですが、初めて紅白歌合戦を最後に引退するアーティストが、都はるみさんでした。
その事自体が事件的であったんですが、都はるみさんが「夫婦坂」を歌い終わった後、お客さんがアンコールを求めて拍手を止めず……。

まず起きた事件は「鈴木健二アナ事件」
この年の白組司会を務めた鈴木健二アナウンサーが、後に名言となる「私に1分間時間を下さい」というアドリブから、都はるみさんにもう一曲アンコールを歌ってくれと生交渉するのです。多分、アンコール用に台本では時間は確保していたんだと思いますが。
都はるみさんは涙で最早歌えないと断るのですが、時間が押していた為か、オーケストラが見切り発車で「好きになった人」を演奏し始めたんです。
都はるみさんは1番は泣いて歌えなかったんですが、気丈にも2番を歌い上げまして…。
私が初めて紅白で泣いた、歴史に残る事件でした。

2つ目の事件は「生方恵一アナ事件」
都はるみさんがアンコールを歌い上げた後、お客さんの拍手が鳴り止まない中、「もっともっと拍手を、ミソラ……都はるみさんにお送り(以下略」と、喋られたんです。
実はこの場面をリアルタイムで観ていても、私は特に何とも思わなかったんですが、年が明けてから何故か大事件へと変貌してしまいました。

昔は紅白のネタを、翌日の元日に放送されるお笑い番組で、芸人が面白可笑しく茶化すというのがよくありました。
翻って昭和60年の元日。
あらゆる生のお笑い番組で、「ミソラ……都はるみさん」が取り上げられるようになり、NHKにも波及し、遂に生方恵一アナは進退伺を提出する羽目に陥ります。

今では紅白での言い間違いとかは何の事件にもならず、加山雄三さんが少年隊「仮面舞踏会」「仮面ライダー」と紹介したのも、楽しいネタに昇華されてますが、この「ミソラ事件」が世間を揺るがす事態になったのは、この年の紅白が平均視聴率78.1%、都はるみさんの場面では84.4%という、日本国民の殆どが見ているタイミングでやらかした、NHKアナにあっては絶対に間違えてはいけない歌手名の間違いだったため、であります。
残念ながら既にお亡くなりになられた生方恵一アナですが、たった一つの言い間違いがその後のアナウンサー人生を揺るがすとは、いかに紅白が昭和時代には権威と格式があった番組かという、裏側エピソードではないかと思います。


⑤「昭和60年/2時間45分を初めてカセットテープに録音した」

この年の紅白も、思い出深い紅白です。
中学3年生になっていた私、古くから私のnoteをご覧いただいている方には、私にとって昭和60年というのは重い意味を持つ年というのはご理解いただけるかと…( ̄▽ ̄;)

ま、まあその件についてはここでは書きませんが、紅白にまつわる思い出は、森昌子さんが紅組の司会をされて、なおかつ紅組のトリを務め、「愛傷歌」の1番を、号泣して歌えなかったこと、です。
号泣して歌えなくなるというのは、上記の都はるみさんの例がありますが、それは紅白で引退という背景があるためで、何故森昌子さんがこんなに号泣したのか、当時は分からなかったんですが、翌年10月に森進一さんと結婚したことで、やっと意味が分かりました。
森昌子さんは、森進一さんとこの紅白の時点で既に交際しており、翌年に結婚を決意していたとのこと。そのため、周囲に公言はしていなかったものの、紅白に出られるのはこの年が最後と決意して、司会と紅組のトリを引き受けたとのことです。前年、紅白で初めて泣いてしまった私は、この森昌子さんのステージでも当然泣きました(苦笑)

あとタイトルに書きました、初めて2時間45分すべてを録音した件ですが、この頃買ってもらったラジカセが、テレビの音も聴ける!という機能を備えていたお陰です。
それまでテレビの歌を録音するには、テレビのスピーカーにラジカセをくっ付けて、家族には今から録音するから黙ってて!と頼んでいたのですが、それでも母親が台所仕事する音が入ったり、突然電話が鳴ったりと、苦労の連続でしたので、テレビの音が聴けるラジカセは画期的でした♪
紅白を最初から最後までカセットテープに録音するという私の試みは、以後昭和61年、昭和62年まで続けましたが、昭和63年に買い替えたラジカセがFMの電波は90MHzまでしか対応してなかったため、3年間で終わりました(苦笑)
ちなみにちなみにこの年の紅白を録音したカセットは、何度も何度も聴いてしまったためかテープが延びてしまい、今では聴けません…(´・ω・`)


⑥「平成2年/植木等に尽きる!」

平成と言う時代に入り、紅白も視聴率は長期低落傾向に入ってしまいましたが、私の紅白好きは変わらず、大晦日は必ず家族揃って紅白を観ていました。
ただ平成に入ってから放送時間が延び、21:00スタートではなく、19時代スタートの2部制になりまして、流石の紅白好きな私も、全部通してみるのはキツイとなって来まして…( ̄▽ ̄;)
その日の出演順から、途中で風呂に入る時間(要はあまり知らない歌手とかの時間)を設定するようになりました(苦笑)

さてこの平成2年の紅白は、これまた後に語り継がれる伝説を沢山生んだ回であります。長渕剛さんが長年の交渉が実って海外からの中継と言うスタイルで初出場するものの、3曲も歌った挙句、NHKのスタッフに暴言を吐いたり、聞いたこともない名前の外国人歌手が出てきたり、私自身も困惑するような時があり、ましてや両親には「???」。
外国人歌手の出演はやはり不評のようで、翌年の平成3年でいったん打ち切られます。
また長渕剛さんのような中継スタイルも、この時代ではまだ受け入れられず暴言騒ぎもあって不評を買い、出演歌手は翌年以降、しばらく必ずNHKホールで歌う、ということになりました。

そんな実験的紅白だったともいえる平成2年ですが、昔からコメディアンとして存在を存じ上げていたものの、歌手としての実力はどうなんだろう?と思っていた植木等さんが、スーダラ節をメインとしたメドレーを引っ提げて登場され、なんとこの年の紅白の歌手別視聴率1位を奪ったのであります(∩´∀`)∩
いや~、今でも鮮明に思い出せる名場面ですね💕
YouTubeにもよくアップされるんですが、何故かいつの間にか削除され、削除に気付いた方が再アップするという攻防戦がここ数年繰り広げられています。
今回見つけた動画も、いつまで残り続けるやら?


⑦「平成4年/チェッカーズ解散」

この年の紅白も思い出深いです。
いよいよ広島で過ごす月日もカウントダウンに入り、翌年4月からは富山で社会人になることが決まっていたためです。

そんなタイミングでのチェッカーズの解散。
これまた私の過去記事で、吹奏楽を始めたキッカケは中学の恩師からの「チェッカーズみたいにサックスを吹いてくれ」というネタを散々書いているところですが(苦笑)、チェッカーズの活動期間が、ちょうど私が広島で学生時代を過ごした時期と丸被り(1983~1992)のため、本当に解散が惜しかったです。
社宅の裏山から折れた枝を2本拾ってきてドラムの真似事をし始め、高校時代に運命的に本当にドラムを叩くようになれたのも、クロベエのドラムを叩く姿に憧れて、でしたし。
私の人生に欠かせないグループが、チェッカーズでした。

またこの年、私のカラオケでの師匠(?)の嘉門達夫さんも、白組歌手として堂々と出場しています( ´∀`)bグッ!

これは嬉しかったですね~♬


⑧「平成6年&7年/古舘伊知郎vs上沼恵美子」

遂に民放出身のアナウンサーが紅白の司会を務める時代が来ました。
小5の時からのプロレスファンの私は、もちろん古舘伊知郎さんを尊敬しておりまして、中学校の体育祭で放送委員を務めることになった際には、古舘さんのプロレス実況を真似して、リレーの実況をしたものです(笑)

その相手が、今やM-1の審査員の女帝、上沼恵美子さんということで、平成6年と7年は、司会者の舌戦が楽しかったですね~(* ´艸`)
曲紹介する際の古舘節は冴え渡っていて、流石!と思ったものです。

曲の面では、この2年で一番感動したのは平成7年の酒井法子さんの「碧いうさぎ」です。
手話で一生懸命歌う姿に感動したので、後に薬物使用で逮捕された時はショックでした。


⑨「平成13年/ドリフ大復活」

この年の夏に行われた「思い出のメロディー」ドリフターズが出演し、往年の「8時だよ!!全員集合!」を彷彿させるステージを展開したことから、紅白にも…となり、遂に昔の白組応援団とかではなく、正式な歌手としてドリフが出場を果たしたのでした(≧∇≦)
ドリフ世代の私は、勿論狂喜乱舞(笑)
歌自体もですが、早口言葉のコーナーなんかは、後ろで参加している歌手の方も喜んで参加していたように思います♪

しかしつい最近のような気がするのに、既にいかりや長介さんに志村けんさんまで、天国へ旅立ってしまったというのは、信じられないです。

このドリフの陰に隠れてしまい、あまり取り上げられなかったのが、吉本の芸人が揃ってRe:Japanというグループを作り、「明日があるさ」を歌ったことです(^_^;)
ダウンタウンを筆頭に、結構なよしもと芸人が参加していたんですが、歌詞を覚えてなくてカンペを見ながら歌っているのが丸分かり!(*ノωノ)(笑)
ま、忙しい皆さんですから仕方ないですが、もう少し正面に向って歌ってほしかったな~( ̄▽ ̄;)


⑩「平成30年/サザンとユーミン」

これこそほんの数年前の紅白ですが、平成と言う元号最後の年の紅白で、大トリの嵐の後に、スペシャル枠・究極の大トリとしてサザンオールスターズが登場しました!
それも中継とかではなく、NHKホールへの登場とあって、超盛り上がったのが、数日前のことのように感じます。
(やはり検閲が厳しいのか、YouTubeには2年前の紅白のサザンの動画は見付かりませんでした(´;ω;`))
最初は希望の轍で始まり、感動したところに勝手にシンドバット
まるでサザンのコンサート会場かのように盛り上がり、ユーミンも乱入して桑田さんと掛け合うなど、とにかく凄かった!

また総合司会も前年からウッチャンが担当し、それまでの総合司会のイメージを覆しての獅子奮迅の大活躍で、とにかく面白かったのを覚えています♪


余談「蛍の光とエンディング」

紅白のエンディングといえば「蛍の光」が定番ですが、私は「蛍の光」を聞いてからのキャノン砲の流れが何故か大好きで、それを見たらこの1年の出来事が走馬灯のように思い出されるんです(n*´ω`*n)
更に書きますと、紅白の放送からパッと切り替わって、お寺の鐘の音がゴーンと鳴り響く夜の静けさが映し出される「ゆく年くる年」も好きですね~♪

そういえば民放の「ゆく年くる年」が、全局横断で放送されていたのはいつまででしょうか?
今は各局鎬を削って特番をやっていますが、昔のようなスタイルも好きですね。
ちなみに全局横断で放送していた民放の「ゆく年くる年」では、日本テレビが一番視聴率が高かったそうです。
何故か?
昔のテレビはチャンネルを回す方式だったので、NHKの1チャンネルから3つ回すだけですぐ観れるからだそうです(笑)


気付いたら長々と書いてしまいましたが、知らない歌手が増えたとはいえ、今年も紅白を観て令和2年を締めたいと思っております。


皆さま、いつも弊記事を目に留めて頂き、ありがとうございました!

来年もよろしくお願いいたしますm(__)m

どうぞ良いお年をお迎えください(^_^)/~~~

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