見出し画像

20230902(在りし日の相棒について)

 人というのは不思議なもので、ただ同じモノを長いこと所有しているだけでそこに目には見えない愛着が生まれ、まるで生き物を飼っているように扱い出すということがある。

 私にもこれまで様々な相棒がいた。


 最初に相棒と認識したのはおそらく実家で飼っていた犬であった。
 私は一人っ子だった。そのため、彼女は唯一の兄妹のような存在であり、実際言葉こそ通じないものの、振る舞いだけでそこに意思疎通が生じていたことは間違いない。残念ながら4年前に亡くなってしまったが、彼女は今もなお私の心の中に生き続けて私を励まし続けてくれている。

 次に相棒とまで感じていたのは私が大学一年の頃から4年半の間を共に過ごした原付、ホンダのジョルノである。
 大学一年の夏休みに免許を取得した私は帰省から戻るなりすぐにバイクショップへ駆けつけた。教習を受けていた頃から暇さえあれば原付を調べていたため、お目当ての車種は決まっていた。それがジョルノである。
 

HONDA「GIORNO」※公式サイトより引用

 私が乗っていたのはこれの黒で、最後は側面に白い傷が擦り切れんばかりに付いていたり、右の「GIORNO」の「I」の字が取れて「GORNO」というオリジナルロゴになっていた。
 それくらい私はこの子を乗り回していた。冬に無茶をして運転してはコケまくったり、雨の日のカーブで転倒して近くにいた人に何度も助けられたものの痛みより恥ずかしさが勝ってすぐに立ち去ってしまったり、スピード違反や一時不停止、二段階右折忘れで警察のお世話になったのも今となってはいい人生経験になった。
 とにかくこれに乗ってはバイトや習い事、サークル、授業、彼女の家など、本当にどこにでも出かけていた。この子の上で日付をまたいだこともしょっちゅうあった。まさに相棒である。
 昨年の3月に引っ越すギリギリまで手放すか迷っていたが、やむを得ず引き取ってもらった。今もどこかで活躍していることを願う。ややもすれば買い戻しかねない。

 今、パッと身の回りを見て5年以上使っているものはいくつか見当たるが、これらに対して相棒であるとは思えない。つまり相棒となる条件はどれだけその相手と苦楽を共にし、思い出を紡いできたかにあると思う。
 そういう意味では、自らの身体もある種の相棒である。細胞レベルで言えば生まれた時とはまるで違う個体だが、認識としては同一と考えるとよくも20数年も私についてきてくれたなぁと感心する。私も学生時代には周りの同級生たちと比べあいながら、自分にないものばかり求めて嘆いて自らを蔑んでいたりもした。
 でもある時から私は自分のことを認めるようになった。自分はなんだかんだでここまで努力を重ね、様々な苦境を乗り越えてはまた壁に当たってきた。その過程や思いを誰よりも正確に見知っているのは自分自身であった。そんな自分の健気な姿を見て愛さずにはいられなくなったのだ。少々気持ち悪いかも知れないが、ようやくそこから私は少しづつ生きやすくなったようになったと今になって思う。

 人は一人では生きていけない。これからも支えてくれる相棒に感謝を忘れずに生きていく。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?