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えーちゃん、じーの

窓の柵から6歳の女の子が身を乗り出して、外を見ている。さっきから長いこと、ずいぶん熱心に。お姉ちゃん何してるの。2歳の弟は気になって仕方ない。後ろ姿はずっと動かないけど、ホッペタだけ動いてる。

「えーちゃん!」(お姉ちゃん)
呼びかけても振り向いてくれない。
痺れを切らした弟が窓枠の間に潜り込んで見上げたえーちゃんの手には、巨峰の房。
あ、お供えのブドウだ!

「えーちゃん、じーの。」(お姉ちゃん、ずるいの。)犯行現場を目撃した弟がお母さんに言いつけた時、既に遅し。いただき物の大粒の葡萄はひと房まるごと、えーちゃんのお腹に消えていた。

母からこの話を聞いた時、「えーちゃん」と呼ばれた母にとっても、「じーの」と言いつけた弟(私の叔父)にとっても、とっくに昔話になっていたけれど、以来、私は巨峰を食べるたび、思い出してしまう。

食べものとは、面白いものだ。独り占めしたくなるほど「好きな」ものもあれば「誰かと食べたい」ものもある。

27歳の夏の終わり、八幡様のお祭りの帰りにおじいちゃんに逢いに行った。その時80歳を超えていたおじいちゃんの部屋は2階にあって、こもっていた夏の終わりの熱気は扇風機を回したぐらいでは動かなかった。(当時、貴重品だったエアコンは1階の応接間にしかついていなかった。)

「よく来たね」と言って押し入れから出してくれた梨はところどころ黒くなっていたけれど、そのことを言えなかった。おじいちゃんが果物ナイフで大事そうに剥いてくれたその梨を、2人で食べた。あの夏の2階の部屋で、いっしょに食べた。

しばらくぶりに逢ったおじいちゃんが何故、涼しいエアコンのある部屋に降りて来ないのか、何故、自分の部屋に果物ナイフとお皿があるのか、そのことを聞けなかった。押入れの中でぬるくなっていたその梨は「誰かと食べたい」味がした。

この頃、美味しい(と思う)ものほど、誰かと食べたくなるのは、どうしてだろう。年のせいだろうか。

今日、見事な巨峰をいただいた。
ツヤツヤと太った実を見ながら、考えている。「誰かと食べたら美味しいだろうな」


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