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M020. 【哲学・本】存在と時間 その1

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【18回目】です。

 今回からハイデガーという有名なドイツの哲学者の著作『存在と時間』の読解に挑戦していきます。最初の記事である今回は、序論部分について書いています。序論は、ハイデガーの問題意識の共有と、どういう考え方で議論を進めようとしているかの告知、そして本論の内容全体に予め少しずつ触れるような構成になっています。

 本当は、前回に引き続き分類学の歴史を深堀りしていこうと思っていました。そこで生物学史系の本を数冊読んだところ、どうやら古代ギリシアの哲学者アリストテレスにまで遡るのが良さそうだ、と分かりました。
 アリストテレスの哲学について調べているうちに、古代ギリシア哲学全体の思想的な特徴を把握しておいた方が良さそうだぞ、となり、古代ギリシア関連の本を数冊読みました。
 するとどうやら古代ギリシアの思想は現代の一般的なものとはだいぶ異なるようだと気づき、その違いを理解するには、ハイデガーの哲学に触れるのが良いらしいのでした。

 ハイデガーの考えを深く知るには、さらにその手前の時代の哲学者たち(フッサール、ニーチェ、ヘーゲル、カント、デカルト…)の思想を知っておいた方が良さそうなのですが、なんとかここまでで踏みとどまって、とりあえずハイデガーについて詳しく調べていくことにしたのです。

 ハイデガーの著作『存在と時間』は、難解なことでも有名らしく、日本語の翻訳本や解説本がとてもたくさんあります。迷いましたが以下の本を選んで読みました。

① ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)
② 貫成人・著『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』(2007年 青灯社)
③ 池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)
④ 高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)
⑤ 竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

 ハイデガーという人は、僕が以前に読んだソシュールウィトゲンシュタインと並び、20世紀の思想を代表する哲学を行った人のようで、彼の主な関心は「存在論」でした。

マルクス主義、フロイティズム、現象学、そしてハイデガーの存在論哲学、これらは二〇世紀現代思想の四つの礎石(ここに、ソシュールの言語学とヴィトゲンシュタインの論理学を加えてもいい)だったといえる。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

まず一般的なレビュー

 『存在と時間』の翻訳本として、光文社から出ているものを選択しました。これは全8巻もあり、今回の記事で扱うのは、序論までしか含まれない第1巻です。他の翻訳本と比べて随分と長大なシリーズですが、訳者による解説部分が厚いという特徴があります。難解な著作を読むにあたっては、解説も丁寧な方が良さそうで、このシリーズを選択しました。
 実際、解説部分に助けられる場面は多く、これを選んでよかったと思っています。以下にはこの本からの引用も多くありますが、翻訳部分よりも解説部分から引用している箇所の方が多いと思います。
 ハイデガーの考えには、過去の西洋哲学の伝統に対する批判が含まれ、『存在と時間』以前の哲学について予備知識が求められます。また、実は『存在と時間』は未完の著作で、書ききれなかった部分に相当する議論は、『存在と時間』以降のハイデガーの講義などで展開されているとのことです。つまり内容を読解するにあたり、『存在と時間』以前・以後についても知識があることが望ましく、そのあたりを適度に補完してくれる解説だったと思います。

 実は選んだ本の中で最初に読んだのは翻訳本ではなく、貫成人 氏の本『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』でした。
(貫成人 氏は、「ミドリムシが動物か植物か考える」シリーズで、最初に記事にした『哲学マップ』の著者です)
 ハイデガーに挑もうと思ってすぐに、まずYouTubeに出されている解説動画をぼんやり眺めていたのですが、そこで絶賛されている本でした。

この本は非常にコンパクトでありながら、『存在と時間』以降のハイデガーの思想まで言及があり、とても分かりやすかったです。おそらく『存在と時間』の内容の大部分が削ぎ落とされているのですが、全体的な議論の流れを手軽に眺めることができ、最初に読む本としてはベストな本であったと思います。また、もともと僕がハイデガーに興味をもったのは、古代ギリシア哲学について書かれた本『ギリシア哲学30講』に度々ハイデガー由来の思想が出てきたからなのですが、ちょうどその部分への言及もあり、自分の需要にぴったりハマる本でした。

 その後、さらに読解の助けとなるものとして、出版年が比較的新しく、気軽にkindleで購入できた入門書2冊(『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』、『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』)を読みました。
 それぞれ読解に役立っているのですが、ハイデガーの哲学に出てくる「現象学」という考え方に馴染むためには他の解説も読んだ方が良さそうだと感じ、竹田青嗣 氏の『ハイデガー入門』も読み始めました。まだ読了していませんが、著者は現象学の入門書も書いた方で、期待通り、他の入門書よりも現象学についての解説が丁寧に感じます。

「問いを仕上げる」という目標

 『存在と時間』で提起される問題は、「【存在】とはどういうものか、みんなもっと真剣に考えた方が良いんじゃないの?」というものです。この問題意識に共感することが『存在と時間』を読み進める上での第一ハードルです。

「存在」(=「ある」)、という概念は非常に身近で、ほとんどの人が日常的に使用しています。しかし、「冷蔵庫にペットボトルがある」というように物体に言及する使い方もあれば、「サッカーの試合がある」のように出来事についても言えるし、「喜びがある」と言って感情や概念にも使用でき、実に多様な場面で登場しているようです。
(いまこの文章の中でも、「使い方」に対して「ある」と言った…)

 では、「何かがある」とは総じてどういうコトなのか? 考えてみると、結構難しそう。

 しかしここでまず問題視できるのは、存在について的確に説明できなくても、僕らの生活には差し当たり何も問題は無い、ということ。
(哲学というのはたいてい、差し当たり考えなくても良いようなことを率先して問題提起するものです。ミドリムシは動物なのか植物なのか、という問いも、そうなのかも。)

 『存在と時間』の冒頭は、古代ギリシアの哲学者プラトンの著作からの引用で始まり、そんな問題提起をします。

「というのも、あなたがたはそうした事柄を、すなわち、あなたがたが存在している●●●●●●>ということを口にされるときに、そもそも何を言おうとしておられるのかを、とっくの昔から知っておられるのは明らかなのですが、一方でわたしたちは、以前には知っていると思っていたのに、今ではまったく困惑しているのですから」。
 わたしたちは現在、「存在している●●●●●●」(ザイエント)という言葉で、そもそも何を言おうとしているのかという問いに、何らかの答えをもっているだろうか。いかなる答えも、もっていない。だからこそ存在の意味への問い●●●●●●●●●を、新たに設定する必要がある。
 それではわたしたちは現在、「存在●●」(ザイン)という言葉を理解できないことに、せめて<困惑して>でもいるだろうか。いや、まったく困惑すらしていない。だからこそ何よりも、この問いの意味についての了解を、ふたたび目覚めさせる必要があるのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 ハイデガーは、本文第一節が始まってすぐに、プラトンやアリストテレスは存在の意味への問いを「息つく暇もなく」研究した、と言う。引用文中の「われわれ」と今日の「私たち」はともに、存在の意味への問いに対する答えをもっていないが、しかし、西洋哲学の幕開けとなった古代ギリシャでは哲学者はそのことに「困惑」していた。この点が、「私たち」と決定的に異なっている。この意味で、古代ギリシャ人と私たちのあいだには断絶があるわけである。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

出だしの引用部からも分かるように、古代ギリシアでは「存在とはそもそもなんなのか?」という問いが困惑され、しっかり議論も交わされていたようです。
 一方現在の僕らが存在への問いを気にしなくなった背景には、それなりに哲学史的な事情もあったのだとハイデガーは考えたようです。

「存在」という概念は従来三つの先入見があった。存在は「最も普遍的な概念」であるというのが一つ。つまり「存在」という概念はあらゆる存在物の分類の最高クラスに当たるという考えである(だけどほんとうは「存在」とは分類概念なんかではない、とハイデガーは言いたい)。二つ目は、「存在」という概念は「定義不可能である」という先入見。これはさっきの先入見からの帰結でもある。「存在」は最高の分類概念だから、これを他の(低いクラスの)存在物を寄せ集めて定義することは不可能、という見方だが、これもおかしい――。
 最後の先入見は、「存在」は自明の概念であるという考え方。誰でも「空は青くある」とか、「私は喜んでいる」というときの、あるやいるが何を意味しているかをぼんやりとは”知っている”。もしそれが何であるかをぜんぜん知らなければ、そういう言葉を使うこともできないわけだから。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

 ハイデガーは、古代のギリシア哲学で哲学の第一の問題として提起された存在への問いが、その後の中世哲学、近代哲学まで、そしてカントからヘーゲルにいたる哲学の伝統において、「暗がり」のうちに忘却されてきたことを指摘する。そしてこうした忘却のうちから、存在への問いを取り戻す必要があることを強調するのである。存在を問うことが方法論的に誤謬であるとまで考えられてきたことを踏まえて、存在への問いの「問題設定そのものを十分に展開する」必要があると主張するのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 『存在と時間』という著作が目指すのは、存在とは何なのかという問いにズバリ答えることよりも、まず、存在への問いが問われなくなってしまった事情を自覚したり、考えるにあたり整理しておくべき概念を提示したりして、存在の意味への問いを仕上げることにあるのです。

いま必要なのは、「問いの意味への理解を再び目覚めさせること」である。つまり、その問いが一体何を意味しており、なぜその問いを立てることが意味ある課題となるのかを、(プラトンら古代ギリシャ哲学以来)もう一度私たちは理解すべきだ、というのである。こうして、ハイデガーが<存在と時間>というプロジェクトで掲げる大目標が宣言される。「存在の意味への問いを仕上げること」がそれである。
 この大目標が、「存在の問いに答えること」でないことには注意が必要である。なによりハイデガーは、「存在の問い」を立てることの意味を見失ってしまった現代の人々には「存在の問い」を適切に立てることができないと考えている。いま必要なのは、いきなりその問いを立てて答えを探し求めることではなく、その問いを立てることの意味をもう一度理解すること、つまり、問いを仕上げることなのである。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

 この、まず問いを仕上げるところから始めよう、という議論の進め方には非常に共感できます。僕もやはり「ミドリムシは動物なのか植物なのか」考えるにあたり、そもそもこの問いはどういうものなのか整理すべきであると考えたのでした。
M015. ミドリムシは動物か?植物か?(2022年1月時点の考えまとめ)

 『存在と時間』からは、問いを哲学的に探究していく方法として役立つものが汲み取れるかもしれません。
 しかしこの著作には、どうしようもない大きな問題があります。それは、未完であるということです。

それぞれ三つの篇を含む二つの部でなるはずだったその構想は、第一部第二篇までしか実現されなかった。つまり、第一部第三篇と、その後の第二部の全体をハイデガーは書き継ぐことができなかったのである。私たちが現在読むことのできる『存在と時間』は、このおよそ三分の一で途切れた「未完の」著作として世に残った。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

 『存在と時間』は、ハイデガーが大学教授のポストに就くために必要に迫られて、急いで書いた論文であるために未完らしいのです。それならば、後から落ち着いて完全版を書いたらいいじゃないか、とも思われますが、ハイデガーはそれを断念しました。なぜ『存在と時間』を書き上げることができなかったのか、という疑問自体が、ハイデガー研究のひとつのテーマにもなっているようです。どうやらハイデガーもウィトゲンシュタインのように、前期・後期で考え方が変わったようなので、後期ハイデガーにとっては若気の至りの見切り発車で書き出した『存在と時間』の議論の方向性では、もはや存在の意味への問いを仕上げることはできないと思われたのかもしれません。『存在と時間』第七版の前書きには次のような記述もあります。

 第六版までには、[タイトル部分に]「前半部」という記載があったが、この第七版からはこの記載を削除した。最初の刊行からもはや二五年も経過していることを考えると、前半部を新たに書き直しでもしないかぎり、後半部を書き継ぐことはできなくなっている

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 それでも『存在と時間』は各分野に大きな影響力を発揮した著作とされ、未完でありながらも、哲学的な意義が多く汲み取れるものにはなっていたのでしょう。
 〆切に追われて急いで論文を書いたり、勢いで書き始めたはいいけど結論に至れなかったり。ハイデガーの存在が急に身近に思えてきますね。わかりみが深いです。

問いの構成と前学問的了解

 さて、問いを仕上げるにあたり、ハイデガーは「問うということ」がどういう要素で構成されているか考察しました。

 ハイデガーはそこで、問うという私たち自身のふるまいを分析する。それによれば、「Xとは何か」というかたちで問うことには少なくとも三つの事柄が関わっている。つまり、「問われているもの(Gefragtes)」「問い合わされるもの(Befragtes)」「問い確かめられるもの(Erfragtes)」の三つである。
―(中略)―
一、「Xとは何か」を問うているとき、この問いにおいて問われているのは「Xである」。例えば、「動物とは何か」と問うているとき、問われているのは「動物」(という概念)である。
二、次に、「Xとは何か」という問いは抽象的ではあるが、単に頭のなかで思いを巡らせれば答えられるようなものではなく、世界のなかの一定の具体的な対象に実際に関わること、つまり問い合わせることを必要とする。「動物とは何か」と問いながら、動物の本性を知ろうとする人は、無生物でも植物でもなく、動物として特定される存在者を観察したり、あるいは実験したりする。観察や実験という仕方で、そうした一群の存在者に――いわば「どういう存在なのですか?」と――問い合わせるのだ。
三、最後に、「Xとは何か」と問うことは、この問いに「Xとは~である」と答えること、つまり、この概念Xの意味を問い確かめることが含まれる。問い確かめられるのはXの意味であり、意味とは「Xとは何か」という問いに対する答えにほかならない。この問いに答えを与えることは、問うことを完了させることであり、探求を導くゴールである。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 私見では、「問われているもの」「問い合わされるもの」「問い確かめられるもの」の受動的要素に加えて、更に能動的に「問う者」を構成要素に入れてしまっても良いのでは、と思います(『存在と時間』では、後から「問う者」が加わってくるような展開なのですが、はじめからその枠を作ってみます)。これらを図示してみます。

図20-1. 問いの構成

具体的な事例を当てはめてみます。引用部とほとんど変わりませんが、「哺乳類とは何か」という問いでやってみます。

図20-2. 「哺乳類とは何か」の構成

 問う者は「哺乳類学者」としてみました(狭すぎますかね?動物学者で良かったかも)。問われているものは「哺乳類」です。
 問い合わされるものは、いろいろあり得るでしょうが、ラット、イヌ、ヒトを選んでみました。もちろん、マウスとか、ヒツジとか、チンパンジーとかでも良いと思います。とにかくある程度具体的に問い合わせることのできる(研究の対象とできる)何らかの哺乳類が挙がればよいでしょう。もう少し立ち入って、問いが、特に哺乳類の子どもの生み方への強い関心を伴うものであったなら、問い合わされるものにカモノハシなんかを選んでも良さそうですね。
 問い確かめられるものには、ラット、イヌ、ヒト等の生態、形態、遺伝子の特徴、あるいはそれらが他の動物とどう異なるかということを挙げました。
 哺乳類学者(問う者)が、研究対象とした哺乳類のサンプル(問い合わされるもの)について、諸々の研究を進めることでさまざまな知見(問い確かめられているもの)が得られ、それら知見から、哺乳類(問われているもの)とは何であるかが分かる(=探求のゴール)。これが、「哺乳類とは何か」問う、ということの構成です。

 ここで興味深いのは、問う者は、問われているもの・問い合わされるもの・問い確かめられるものについて、問い始める時点で前もっていくらか知っているはずだということです。哺乳類学者が哺乳類について全くの無知であったなら、そもそも「哺乳類とは何か」と問うことができない(少なくとも哺乳類という名称は知っているはずだ)し、適切な研究対象を選び取ることもできない(少なくともラット、イヌ、ヒトは哺乳類であると知っていたから、これらを研究対象に選んだはずだ)し、どんなアプローチで研究していけばよいか分からない(何を研究したらよいか見当がつくから、形態や遺伝子を詳細に研究した)。そしてそんな無知な者は、哺乳類学者では無いだろう。哺乳類について、問い始める時点ですでに何らかの了解をもっていて、問うことのできる者こそ、哺乳類学者であり、問う者であります。

 一般に、「Xとは何か」というかたちをとる哲学的な――あるいは意味への――問いにおいて、私たちは、興味深いことに、問いに答えが与えられる前に、あるいは探究を開始する時点で、すでに答えを(曖昧なかたちではあるが)知っている。というのも、もし時間というものについてまったく無知なのであれば、「時間とは何か」という問いは生じえないし、この問いの意味を理解することもできないはずだからである。けれども、この問いにきちんと答えようとするとそれがいかに難しいかがはっきりしてくる。Xに、時間、存在、私、世界などを入れてみよう。どの場合でも、自明で当たり前のように思っていたことが大いなる謎に変貌する。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 存在についての問いでも同様です。はじめに確認したように、問いの答えを明確には知っていなくとも、僕らは日常的に困惑なく存在の概念を使いこなせているのですから、存在の意味についても常に既に何らかぼんやりとは知っているのです。そしてだからこそ、ぼんやりとしか知らないというところが、哲学の余地です。

この明示的な問題設定に固有の特徴は、問うことのうちに、ここで規定した問いの[三つの]構成的な性格のすべてについて、みずからあらかじめ見通しの良さがそなわっていることにある。
―(中略)―
 問うことは探し求めることであるから、探し求められるものの方からあらかじめ導かれている必要がある。だから存在の意味はある形で、すでにわたしたちの手にとどくところにあるものでなければならない。わたしたちはつねにすでに、ある存在了解のうちで動いていることを示唆しておいた。この存在了解のうちからこそ、存在の意味を明示的に問う問いが形成されるのであり、存在を概念的に把握しようとする傾向が生まれるのである。
 わたしたちは、「存在」とは何であるかを知ら●●ない。しかしわたしたちが「<存在>とは何である●●か」という問いを立てたときからすでに、この「ある」ということについては、何らかを了解しているのである。ただしわたしたちはこの「ある」が何を指し示しているのかについて、概念的に確定できているわけではない。わたしたちはどのような地平から、存在の意味を把握し、確定すべきであるかを、まだまったく知らないのである。わたしたちがこのような●●●●●●●●●●●平均的で漠然とした存在了解をもっている●●●●●●●●●●●●●●●●●●●にすぎないということが●●●●●●●●●●●、一つの事実ファクトゥムなのである●●●●●

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

「存在」の本質が何であるか、われわれはもちろんまだはっきりとは知らない。しかし、われわれは「存在とは何であるか」という問いを発するような存在である。そうである以上、われわれは、じつは「ある」ということがどういうことなのか、漠然とは知っているはずだ。だから、この問いを、たとえば哲人や賢人が並はずれた知力で見通す「真理」のようなものと考えてはいけない。ふつうの人間が「ある」(=存在)ということを知っているその仕方(=「平均的な漠然とした存在了解内容」)、それをふかく鋭いものに仕上げていく、そういう仕方で「存在とは何か」は探求されなくてはならない。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

 先の哺乳類の例は、いわば「哺乳類学」の構成とも言えそうです。例えば、生物学(の問い)は、生物学者が、生物について問い、研究対象となる生物を選び、身体構造や生理現象、遺伝子について詳細に研究することで成立しています。ここに「哺乳類学」の事例と同じこと、つまり、生物学者は生物学的研究活動に先立って、予め生物について何らか知っている状態から生物学を始めているはずだ、ということを指摘できます。ハイデガーはこういったことを「前学問的」と言います。生物学は、生物学以前(前生物学的)にぼんやりと了解されていた生物というものについて、深く鋭く研ぎ澄ましていくものであって、全くの無から生物概念を構築していくところにある活動ではないのです。

生物学が成立するためには、生命とは何かという概念を規定し、生命のあるものとないものを区別することで、みずからの学の領域を決定する必要がある。
 こうしたさまざまな学は、その対象とする領域について、「素朴で概略的な形」ではあっても、基本的な概念を決定しているはずである。「事象の領域そのものは、こうしてさまざまな存在分野の内部で確定されるものの、こうした存在分野について、それぞれの領域の根本的な構造を掘り下げる作業は、前学問的な経験と解釈をつうじて、すでにある意味で実行されている」のであり、生命とは何か、心とは何か、歴史とは何かなどについて「基礎概念」が作成されているはずである。ただしこうした基礎概念は、自然的な態度によって規定されているのであり、ハイデガーはこうした態度を「前学問的な経験と解釈」と呼んでいる。
 ハイデガーが指摘するように、通常の科学的な研究では、こうした「前学問的な」態度によって、「事象の領域をまず開拓し、境界を設定するという作業を、素朴で概略的な形で行っている」のであり、これによってその学問分野の「基礎概念」が決定され、「この領域をまず具体的に開示するための導きの糸の役割をはたす」のである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 存在について言えば、「存在論」が存在についての学と言ってよさそうです。だから、存在論を展開する前から、なんとなくぼんやり了解されていること(前存在論的な了解)があるはずで、ここから出発してこそ、存在論は可能になります。これは全くの無の状態から存在を定義づけていくような活動ではなく、前存在論的な了解(=「平均的な漠然とした存在了解内容」)を深く鋭く研ぎ澄ましていくことなのです。

存在論の構成と現存在

 問いや学の構成として確認してきた図式を、いよいよ存在論にあてはめてみます。ここでまずはハイデガーの仕事として有名な【存在論的差異】の考え方を導入します。

 はじめに、ハイデガーにとって重要な一つの区別を導入する。それは「存在論的差異」である。これは、「あるもの=存在者」と、それが「あること=存在」とが異なっていることを指す概念である。例えば、皆さんの前には今この本が「ある」が、「この本」という存在者と、「この本が存在している」という事実(存在)は、別のことである。
―(中略)―
先ほど「存在論的差異」という(ハイデガーに固有の)言葉を使ったが、その内容はそれほど複雑ではない。ようするに「あるもの」と「あること」は違う、という話である。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年 電子版 講談社)

 存在論の構成において存在論的差異を捉えると、存在と存在の区別は、存在は「問われているもの」(哺乳類の問いにおける「哺乳類」)であって、存在は「問い合わされるもの」(哺乳類の問いにおける「ラット、イヌ、ヒト…」)として区別できます。存在について問うならば、実際に存在しているモノ・コト(存在者)を対象として詳しく研究せよということです。あくまで「存在」をなにか実態あるものと思い込んで「存在」に問い合わせるのではなくて、「存在」に問い合わせることでもって、得られる知見から「存在」を明らかにしようというわけです。
 ここでまず重要なことは、存在者への問い合わせ方●●●●●●です。「それはどんな存在者なのか」という仕方で問い合わせることを主軸においてはいけません。哺乳類についての問いは、「ラットやイヌやヒトが、どんな哺乳類なのか」を知りたいのではなく(研究の過程で●●●知っておく必要はあるだろう)、「ラットやイヌやヒトは、いかなる意味、根拠、背景で哺乳類なのか、ひいては、哺乳類とは何なのか」を問い求めているのです。ハイデガーの関心は、存在とは何なのか、ということなのだから、存在者への問い合わせ方は、「存在者はいかなる根拠や背景で存在しているのか、ひいては、存在とは何なのか」というものである必要があります。そしてその答えが、「問い確かめられるもの」(存在の意味)に相当します。

 ペットボトルについて、その本質が何かを語っても(これはプラトンのやり方だ)、それが、どのような素材でできており、どうしてできあがり、どんな目的のために用いられるのかを語っても(これはアリストテレスの考えである)、あるいは、それがペットボトルといえる十分な証拠があると言いつのっても(これはデカルトの方法だ)、結局、ペットボトルという存在者の仕組みについて語り、それが存在していると言えるための条件を語っているだけであり、その存在者が存在しているとはどういう意味なのかを語ることにはならない。そして、ハイデガーが問題にしたのは、まさにこの、存在者の存在の意味なのである。

出典:貫成人・著『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』(2007年 青灯社)
図20-3. 存在論の構成①

 問いの構成の内、まだ埋まっていない枠は「問う者」ですね。ところで、問い合わされるものは「存在者」でしたが、問う者だって、存在者に含まれるはずですよね。問う者が存在しないものなら、どうしてこの問いが存在するというのか。存在論における問う者は、存在について問うことのできる存在者、つまり、いまこうして存在論について考えているわたしたちです。哺乳類について問える者こそが、哺乳類学者であり問う者であったように、存在について問える者が存在論における問う者であり、これをハイデガーは【現存在】と呼びます。

わたしたち人間は、「問うということをみずからの存在の可能性の一つとしてそなえている存在者」なのである。そしてハイデガーは、「この存在者を呼ぶために現存在(ダーザイン)という術語を定めたい」と、現存在という概念を提起するのである。
 ただしこの現存在という語は、類として定義可能な「人間」とまったく同一の概念ではない。この存在の問いを「問うこと」を「存在様態」とする存在者が、現存在なのである。ということは、「わたしが存在するということはどういうことか」と問うことのできる者であれば、それは現存在だということになる。
―(中略)―
こうした問いを問うことができる存在者が現存在なのであり、客観的に定義することのできるホモ・サピエンスとしての人類や人間が、すなわち現存在であるのではないのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 ここで問う者を「人間」としないところがハイデガーのセンスの良いところという感じがします。人間としてしまうと、人間特有の諸々の感覚能力とか、進化的な背景とか、純粋に存在について考察していくにあたって余計なしがらみが入り込んでしまうでしょう。現存在についてこれから敷衍されていきますが、とにかくそれは、存在について問える存在者だという、そのことに集中するために、ここで新たな術語【現存在】が導入されるのです。
 それに、僕はミドリムシですが、いまこうして存在の問いについて考えることができているわけですから、やはり「人間」ではなくて、「現存在」としておかないと、おかしなことになりますよ。

 さて、問い合わされるものは「存在者」とされていますが、これももう少し具体化したいところです。哺乳類について問い合わされるものが、ラットやイヌやヒト(もっと学名とか血統とか、より具体化を徹底した方が良いのかも)であったように、存在について問い合わされる存在者についても、何らか範例的なサンプルを選び出したいところです。ここでハイデガーは、なんと問い合わされる存在者の範例に、現存在を指定します。

 ハイデガーはアリストテレスにおいては、この範例的な存在者が「神」であったことを指摘している。「存在のこの最高の意味において、本来的に存在するものは、<第一の、動かず、動かされえない、最も神的な存在>なのである」からである。ところが次の段落で明らかなように、ハイデガーはこれを「神」ではなく、わたしたち人間である現存在に求めるのである。
 この範例的な存在者を神とするか、人間とするかで、学問は神学と存在論に分岐する。カントにおいても、神が原型的な知性の持ち主であり、人間は派生的な知性しかもっていなかったことからも明らかなように、それまでの伝統的な西洋哲学は、ほぼ「神」を範例的な存在者とみなしてきたのであり、存在論は神学を背景にしていたのである。ハイデガーの『存在と時間』は、現存在を範例的な存在とみなすことで、この伝統に終止符をうつ。ハイデガーは、形而上学の重要な問題であるこの神学と存在論の二重性の問題が、アリストテレス以来、忘却されてしまったと次のように指摘している。「この問題は、アリストテレスが克服することも、そのようなこととして定式化することもなかったので、後世、完全に忘れ去られていったのである」。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

現存在は、存在者の中でも、存在についての問いを問うことのできる特別な存在者と言えるでしょう。そして、問う者は、必ず前学問的(ここでは前存在論的)な了解として、存在について何らか知っているはずです。存在について問うならば、存在について知っている存在者に問い合わせるのが手っ取り早いわけです。
 こうしてすべての枠が埋まった存在論の構成は次の通り。

図20-4. 存在論の構成②

 存在について問うことのできるわれわれ現存在は、存在について何らかの了解をもっているはずなので、その了解の仕方について自ら問い合わせることで、存在の意味も明らかになっていくのではないか、といった感じになりました。

私たちは現に、私たちがそれぞれ「私」として、それぞれの生を生きているということを知っている。だとすれば、私たちは、私たちがそれぞれ「私」として生きているとはどのようなことかについても、うっすらと、漠然とであれ理解しているはずである。そうでないのだとしたら、どうして「私たちがそれぞれ「私」を生きていることは間違いない」という確信を、私たちが得ることができるだろうか。私たちは、目のまえの机と自分の存在を混同したりしないし(「私は机である」)、他の人もまた自分と同じようにそれぞれの「私」を生きていることを知っている。ハイデガーは、ここに全ての答えが隠れていると考えている。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

現存在の実存・頽落・歴史性

 というわけで、これまでの議論は簡単にまとめてしまえば、まず現存在の在り方について詳しく分析していき、その過程の先で、存在の意味に至れる気がする、というのがハイデガーの考えだということです。現存在を現存在たらしめている本質的特徴はどんなものか、現存在はどのように存在を問題にしているのか、なぜ問題にするのか、等々がこれから分析されることでしょう。そして存在論は、前存在論的な了解から出発して展開されるべきですから、現存在分析も、現存在の、わたしたちの、日常的な在り方を詳しく分析することから始めていきます。

 現存在に接近する方法も、現存在を解釈する方法も、それによって現存在がおのずと、それ自身の側から、みずからを示してくれるようなものを選ばねばならない。しかもこうした接近方法も解釈方法も、現存在をそれがさしあたりたいてい●●●●●●●●●は存在しているそのありかたで示すべきである。すなわちその平均的な日常性●●●のもとで示すべきなのである。
 そして現存在がこうした日常性のありかたをしている状態において、しかもその偶然的で恣意的な構造ではなく、本質的な構造を、事実的な現存在のそれぞれの存在様式において、その存在を規定するものとして揺らぐことのない構造をとりだす必要がある。このようにしてとりだされた現存在の日常性の根本機構に注目することで、この[現存在という]存在者の存在を浮き彫りにする準備ができるのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 前述では現存在について、「存在を問うことができる」と特徴づけたのですが、他の存在者と比べて異彩を放つ現存在の本質は、自らの存在について問題にしている、まさにこの在り方にこそあり、このあり方が【実存】と呼ばれます。何なら現存在は、「存在について問題にせずにはいられない」ような、そんな存在者です。

 この現存在という存在者に固有な特徴は、みずからの存在とともにミット、そしてみずからが存在することをつうじてドゥルヒ、<存在>がこの存在者自身に開示されていることにある。存在了解はそれ自身が●●●●●●●●●●現存在の一つの存在規定●●●●●●●●●●●なのである●●●●●

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

「人間は自己を了解する存在である」――回りに欲望や関心を向けることでつねに世界を対象化する、という点では動物も同じだ。人間独自の特質は、これに加えて、いわば自分自身の存在(あり方)をも対象化する存在である、という点にある。人間は、自分自身のあり方に対して●●●●●●●●●●●●さまざまなレベルで欲望、関心、配慮を向け、そのようなものとして自分を了解している存在である。
 これは別の言い方ができるだろう。自己意識を持っている。自我を持っている。たえず自分の「存在」を”問題”にしている……等々。
―(中略)―
 こうして、ハイデガーは人間のこのような存在仕方の独自性を「実存」と呼ぶ。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

この「実存」とは、現存在が自己において「みずからの存在そのものにたいしてさまざまな態度をとることができ、またつねに何らかの態度をとっている」ことである。現存在は、存在について、また自己について問う存在者であるから、現存在は実存という存在様式のもとにあるのである。
―(中略)―
この存在者の本質は実存することにあり、それは「みずからの存在を、そのつどみずからの存在として、存在しなければならない」ということである。これらの特徴をそなえて存在する現存在が、「実存する」と呼ばれるのである。実存はこの自己との関係性を重要な特徴とするのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 実存と呼ばれる在り方が、他の存在者から現存在を分かつ本質的特徴のようですが、では、他の存在者にはどんなものがあるのでしょうか? 存在を問題にできる存在者が現存在だけならば、逆に他の存在者は、現存在のみから存在を問題にされる存在者ということになります。であれば、それらは現存在からどのように問題にされているか(問われているか、対象化されているか)、に依って特徴づけできそうです。ハイデガーの考察によれば、【道具存在】(=手許存在、手元存在)【事物存在】(=手前存在、眼前存在)という存在者カテゴリーがあるとされます。

 すでに指摘したようにハイデガーは現存在でない存在者を二種類に分類している。眼前存在する(フォアハウゼン)存在者と、手元存在する(ツハンデン)存在者である。手元存在とは、現存在が生活するために日常的に製作し、使用している道具の存在のあり方である。眼前存在とは、道具でない事物、たとえば樹木や野鳥のように、人間が製作した道具ではない自然の事物のありかたである(ただし道具も、その道具としての性格を失うと、眼前存在になる)。これにたいして現存在は実存するのであり、こうした眼前存在や手元存在とは明確に異なる存在様式のうちにあるのである

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 道具存在と事物存在の違いは、現存在がその存在者にその都度どのように関わるか(問題にするか、対象化するか)に依るのであり、存在者ごとに常に定まった分類ではありません。道具存在というと、ハサミとかキーボードとか、道具として製作された人工物のことのように思われやすいですが、自然物も、何かの目的のために役立つものとして使われているなら、そのとき●●●●それは道具存在です。ハサミも、何故二つの金属がすれ違うだけで紙が切れるのだろう?とか、切れ味が落ちてしまったのは何故だろう?といったように、目的に向けて使用されるのではなく、ハサミの仕組みなどに注目されることがあれば、そのとき●●●●それは事物存在です。

 また、道具は、通常考えられるように人工物とは限らない。農業事業者は、畑や水田、太陽光をもちい、漁業従事者は肥沃な海や、帆をふくらませる風を、それぞれ生産活動の道具としている。

出典:貫成人・著『ハイデガー すべてのものに贈られること:存在論』

 ここでハイデガー特有の指摘が入ります。現存在は実存という在り方が本質的特徴であるというのに、現存在自身は、自らのことを事物存在(眼前存在)として理解しようとする傾向があるというのです。ハイデガーの術語で【頽落】と呼ばれる事象です。

 しかし現存在は自己の存在について、実存という存在様式においてではなく、眼前存在という存在様式で理解しようとする傾向がある。
―(中略)―
このことは、現存在が自己についても、あたかも自然のうちに眼前存在する事物のように理解する傾向があり、実存する現存在であることを忘却してしまう傾向があることを意味している。現存在が自己の実存を忘却して、あたかも自然のうちの眼前存在のように思い込んでしまうことは、現存在の日常性のうちで顕著にみられる傾向であり、これをハイデガーは「頽落」という概念で呼ぶ。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 人間も動物の一種に過ぎないとか、化合物の集まりと電気信号で出来ているとか、そんな理系を徹底したような人間理解の仕方のことでしょうか? 頽落については、『存在と時間』本論の方で詳しく考察されるはずです(すでに長々書いてますが、この記事で扱うのは序論までです)。

 ほかにハイデガーが指摘する現存在の特徴として、【歴史性】があります。まず、わたしたち現存在に、過去の出来事はつきものです。

 わたしたちは今この瞬間に生きている。しかしわたしたちが今生きていることが可能であるということは、わたしたちはこれまでの人生の長い時間を経過してきたということである。この「今」の瞬間の存在のうちには、わたしたちの過去のあらゆる記憶とあらゆる経験が降り積もっている。わたしたちはそうした過去の経験の記憶によって、初めてわたしたちであるのである。そうした記憶が失われたならば、わたしたちのアイデンティティはまったく失われるだろう。自分が誰で、どのような人間であるかを想起できないならば、わたしたちは自己を喪失するだろう。その意味で人間はつねに時間的で歴史的な生き物である。
―(中略)―
わたしたちが話す言葉、わたしたちが読む書物、わたしたちが食べる食物、わたしたちが着る衣服、わたしたちが住む住宅、これらのすべては、過去の伝統によって可能となったものであり、過去の伝統が不可視な状態で存在しているものである。
―(中略)―
こうした過去なしでは、わたしたちはわたしたちであることができないのである。ハイデガーはそのことを「現存在はそれがすでに存在していたありかたで、それが<何>であったかによって、そのつど事実的に存在する。現存在は、明示的であるかどうかは別として、つねにみずからの過去を存在しているのである」と表現する。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

過去の出来事なしに自らの存在を了解することなど出来そうにありません。刻一刻、自分がどんな存在であるか一から把握しなおすような生き方はとてもできませんし(映画「メメント」の主人公はそれに近しい設定で、まさに自らの存在が揺らいでしまうような不安に陥る展開でした)、周囲の環境や自らの行動の背景には、必ず過去からの因果が関わっているように思えます。僕がnoteで記事を書いているのも、このプラットフォームの開発者たちの尽力とか、そもそもコンピュータというものができるまでの経緯とか、ハイデガーという哲学者がいたこととか、膨大な過去を背負って可能になっている現在です。現在どころか、未来のことだって、結局は過去の出来事があってこそのものです。

 というのは、わたしたちはこれからどのようなことをしようとか、明日は図書館に行こうとか、来週は旅行にでかけようとか計画するとしても、これらすべてのことは、伝統の蓄積のうちでしか可能にならないことだからである。図書館に赴く手段も、旅行計画も、過去において可能であったことに基づいてしか可能とならないのであり、わたしたちの計画は、こうした過去の伝統の継承のうちで初めて可能となる。その意味では過去は「後からついてくる●●●●●●●●」のではなく、わたしたちに「先立っている」のであり、わたしたちがこれから進む道を「あらかじめ示す」という意味で「先立っている」のである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 このように過去・現在・未来の話題が出てくると、『存在と時間』という題の意味も少し見えてくる感じがしますね。

存在の意味と時性ときせい

 はじめにも指摘した通り、存在概念はさまざまな場面で使われます。現存在分析からは、現存在・道具存在・事物存在といった、複数の存在のカテゴリーも生じてきました。ハイデガーは、何かある原理から演繹して存在を説明するのでは無く、実際の存在を分析、列挙して、それらの違いを見ていく方法で存在の意味に迫ろうとしており、この方法は系譜学と呼ばれています。

ここでハイデガーは、存在のさまざまなありかたを「演繹的でなく」、実際の存在様式の違いとして提示することを目指している。ハイデガーはすでに、存在のさまざまなありかたとして「あるものは現実的なものであることレアリテートとして存在し、眼前存在するものフォアハンデンハイトとして存在し、存立するものベシュタントとして、妥当するものゲルトゥングとして、現にそこに存在するものダーザインとして存在している。<それがあるエス・ギープト>ということにも存在が含まれているのである」と、さまざまな存在のありかたを列挙している。これらを、同じ存在の概念から演繹するのではなく、その存在様式の違いを存在論的に考察するのが、ここでの系譜学の役割である

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 ある意味、これは博物学にも共通する信念かもしれないですね。あまりに多様な自然物について、原理を決めて説明しようとするのではなく、まず広く収集・記載して、自然物同士の違いを考察していくという。しかしやはりすべてが「存在」と言われるならば、すべてに共通する存在本質があり、そこから演繹的に存在一般について考察する道もあるのではないか、とも思われそうです。しかしウィトゲンシュタインのように多様に使われる概念を共通本質によらずに捉える、家族的類似の考え方を適用することもでき、実際、古代ギリシアのアリストテレスはそのような方向性を提示していたそうです。

 アリストテレスは、存在の統一という謎について、この統一は「類比(アナロギア)」によるという見方を示していた。このことを発見したことで、アリストテレスは存在の問題を「新しい土台」の上に置いたのだと、ハイデガーは評価している。ウィトゲンシュタインの指摘を待たずとも、さまざまな語られ方をされるがやはり一語で表される存在について、その背後に共通の本質的・一義的意味のような何かを想定せずに考察する道は、すでに古代に敷かれていた。存在の意味への問いは、共通の内容を見つけ出すことではなく、類比による統一を問うことだ、というのがハイデガー存在論の原点である。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 早寝早起き、適度な運動、血色のよい頬、からだ。これらはどれも健康的と言われる。あるものは健康を保つがゆえに(早寝早起き)、健康をもたらすがゆえに(適度な運動)、健康のしるしとなるがゆえに(血色のよい頬)、健康を受け容れるために(からだ)、それぞれ健康的と言われる。これらが健康の名の下に取りまとめられる仕方は、(アリやチョウが昆虫という名の下で取り集められる場合のように)類によって統一された領域を形成するのとは明らかに異なっている。先に挙げた健康的なものはてんでバラバラに見える。
―(中略)―
 存在概念の事情もこれに似ている。さまざまなものが、存在していると言われる。私たちも、周囲の事物も、歴史的過去も存在すると言われる。だが、同じ意味で、ではない。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 すべての存在に共通する本質的特徴を見い出せないとしても、わたしたちが「何かがある」と考えるときに、どんなところに注目しているのか考察することはできるかもしれません。先の引用では、「早寝早起き」「適度な運動」「血色のよい頬」「からだ」といったバラバラの概念群が、健康的という、着眼点、ないし文脈(ハイデガーの場合、「地平」と言われたりする)で把握される類比関係・血縁関係にあることが示唆されていました。
 ハイデガーが問い確かめようとする「存在の意味」も、このようなものであろうと想定されており、時間がそれに相当すると予想されているのです。

この「意味」という概念の明確な定義は、『存在と時間』のかなり後ろの方で与えられている。それによれば、「「意味」とは、そこから [aus der her] 何かがそれがそうある何かとしてその可能性において把握可能となるような、第一義的な企投の<そこから [Woraufhin] >を指す」。引用中の単語 Woraufhin については、日本語に翻訳することが難しいものの、ここでハイデガーが「意味」という語で指そうとしているのは、私たちが何ものかについて理解するとき、私たちが何に照らしてそれを理解しているのか、という着眼点ないし参照軸のことである。それゆえ右の Woraufhin は、<それに照らして>とも訳すことができる。
―(中略)―
 そして、これはハイデガーが『存在と時間』で結局まともに議論できなかったことだが、そのような「あること一般」についての理解を支えているその「意味」は「時間」である、とハイデガーは考えている。

出典:高井ゆと里・著『極限の思想 ハイデガー 世界内存在を生きる』(2022年電子版 講談社)

現存在は存在しながら、<存在>ということを理解しているというありかたで存在している●●●●●●のである。こうした連関を堅持しながら、現存在が<存在>というものを暗黙のうちに理解し、解釈するための手掛かりとなるのは、時間●●であることを示す必要がある。この時間こそが、すべての存在了解とすべての存在解釈の地平なのであり、そのことに光をあて、正しく把握しなければならない。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

「一切の存在理解一般を可能にする地平として時間を解釈する」とは、存在の本質的意味を探しだす、ということではない。存在は多様に語られるが、存在は時間との関係でさまざまに理解可能であり、そのように理解可能になる仕方を明らかにする、と言いたいのである。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 いよいよ『存在と時間』のタイトル回収という展開ですが、この存在と時間の関係性についての議論は、書かれずじまいの本論後半部分で詳しく論じられる予定だったものだそうです。残念、、、

 またハイデガーは、存在の意味としての「時間」は、普通に把握されているような時間概念とは異なるものになると考えていて、時性ときせいという術語を与える予定でした。

 このように、本書の課題である存在一般の意味の解明は、時間の分析に依拠して行われるのであり、ハイデガーはそのことを「存在は時間から把握されるべきであ」ると明言する。それだけでなく、存在について一般に確認できる「さまざまな様態や派生態もまた、それぞれの変様と派生のありかたについて」、時間という観点から分析することができるとされている。この観点からの分析は本書では展開されていないが、「存在そのものが<時間的な>性格をそなえたものである」というのは、本書を貫くハイデガーの鋭い洞察である。
―(中略)―
 ハイデガーはそのために、伝統的な時間性の概念と対比して、新たな時間概念を提起する。それがとき性」(テンポラリテート)という概念である。この「とき性」についての詳細な考察は、第一部第三篇「時間と存在」で展開されることになっていたのであり、第二篇までしか含まない本書では、予告されているだけである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

伝統の解体とロゴス解釈

 存在の意味への問いが古代ギリシア以降に問われなくなってしまったことと、時性という新しい概念を提唱しなければならないことには、関連がありそうです。存在と時間について、哲学の伝統ではこれまでどのように考えられてきたのか、あるいは何故考えられてこなかったのか、ということも、ハイデガーの考察対象です(しかしここも書かれずじまいの本論後半で詳論予定だった)。
 それに、われわれ現存在は過去の影響を多大に受ける存在なのですから、画期的な概念の提出のためには、歴史に立ち入ることも必要になりましょう。

 わたしたちの課題は、存在への問いに答えるために、その問いに固有の歴史を見通しの良いものとすることにあるのだから、このようにこわばった伝統を解きほぐし、こうした伝統がときとともに生みだしてきた隠蔽を解体する必要がある。わたしたちはこの課題を、存在への問いを導きの糸としながら●●●●●●●●●●●●●●●●、古代の存在論を伝承してきた事態を解体する●●●●営みとして遂行するのである。そしてこの解体作業において、存在についての最初の(そしてその後に主導的なものとなった)規定が獲得された根源的な経験へと立ち戻ろうとするのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

本書での解体作業においては、「とき性」という問題構成の観点から、古代の存在論の土台を解釈するという課題に立ち向かうということである。それによって、存在者の存在についての古代の哲学者の解釈は、「世界」またはもっとも広義の「自然」を導きの糸とするものであったこと、そして存在を実際には「時間」に基づいて了解していたことが明らかになるだろう。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 こうしてようやく、当初の僕の目的、古代ギリシアの哲学を理解するためにまずハイデガーの哲学に触れておいた方が良さそうだった理由にたどり着きました。つまりハイデガーの存在論には、古代ギリシアの存在論考察が含まれているのですね。
 何故古代ギリシアにまで遡ることになるのかというと、特にアリストテレスの時間論にあった欠陥が、現在の哲学にまで引き継がれてしまったことをハイデガーが重視するからです。

 これまでの部分でハイデガーは、カントの時間論が「とき性」を考察する上では唯一の先例になっていることを指摘しながらも、そこにデカルトの哲学をひき継いだ重要な欠陥があることを指摘してきた。さらにデカルトの哲学は中世の存在論をひき継ぎ、中世の存在論は古代ギリシアの存在論、とくにアリストテレスの時間論をひき継いだものだったことを指摘してきた。結局のところ、カントの時間論も存在論も、アリストテレスまでの古代のギリシア哲学の遺産をうけ継いでいることが再確認されるのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 結局、伝統の解体も書かれなかった本論後半で議論される予定だったもので、既刊の『存在と時間』では詳しい議論を読むことはできません。しかし、古代の存在論においても存在の捉え方に時間が関わっていたことは示唆されており、興味深いです。

 古代の存在論で存在が臨在パルーシア存在ウーシアの二つの概念で理解されていたということは、古代においてすでに、「存在」という概念に、二つの観点があったことを示している。第一の観点は、存在者が臨在すること、すなわち「目の前に現前している」こと、すなわち存在者の現前性に注目する。そして第二の観点は、存在者がウーシア、すなわち「自然の事物」としての性格をそなえていること、すなわち存在者の眼前存在性に注目するのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 古代ギリシアにおいて存在は"現前"、つまり、「現に今、目の前にありありと現れること」として捉えられていたのです。さらに、目的や役立つ機能とは無関係な存在である自然の事物(事物存在、眼前存在)としての観点も、道具存在よりも現存在よりも、存在というものを特徴づけるものだったと分かります。

 ところでハイデガーは古代ギリシアの存在論について考察するとき、古代のギリシア語の意味を、常套の翻訳とは異なった意味で解釈します。その例の一つが、”ロゴス”の解釈です。ロゴスは、「理性」など様々な翻訳語があてられる言葉で、ギリシア哲学において重要なキーワードとなる単語です。古代ギリシアは哲学の起源と目されますが、哲学誕生以前と以後を分かつ標語として「ミュトス(神話)からロゴスへ」と言われたりします。また、アリストテレスが人間の定義について、「言葉をもつ生物」と語った時も、"ロゴス"(活用されて、ロゴン)が含まれていました。

アリストテレスが人間の定義として、動物とは違って人間は「言葉をもつ生物」(ゾーオン・ロゴン・エコン)と語ったのは有名だ。ただしこの定義は、人間は道具を使う動物であるとか、アリストテレスのもう一つの人間の定義であるポリスのうちで生きる動物であるという定義とはいくらか異なるところがある。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 ロゴスの概念は多義的に使われていますが、ハイデガーが考える「文字通りの翻訳」によれば、その本来の意味は「語り」であるそうです。

ロゴスの概念はプラトンとアリストテレスでは多義的に使われていて、さまざまな意味が一つの根本的な意味から積極的に導きだされるのではなく、たがいに競い合うように定められている。
―(中略)―
ロゴスという語はその後、さまざまな意味の歴史的な変化を経験しており、しかも後世の哲学はこの語にさまざまな恣意的な解釈を加えてきた。
―(中略)―
 ロゴスという語は「翻訳され」、すなわち解釈され直して、理性、判断、概念、定義、根拠、関係などの意味で理解されてきた。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 古代ギリシャというすでに失われた、現代の私たちとはまったく異なる感性で哲学者が存在の問いへと駆り立てられたそのはるか遠くの時空の言語。これをすんなりと自分たちに馴染みの言語に同化してしまう<翻訳>にハイデガーは抵抗している。代わりにハイデガーは、ロゴスを「語り(Rede)」と翻訳し、こちらのほうが「文字通りの翻訳」だと言う。なるほど、ロゴスの動詞形レゲインは広く「語ること」を意味する。
―(中略)―
だが、「語り」という訳語でハイデガーが再考を促しているのは、私たちが何かについて語るあり方は、命令、願望、質問のような多様な言語行為を含んでいる、ということだ。これらの言語行為の場合、例えば命令であれば、「私は、彼が本を読むように命令する」といった、文の構造に忠実な表現はどこか冗長であり、「読め!」のような表現で十分であることが多い。あるいは、無言のジェスチャーによって命令が果たされることもある。ハイデガーは、ロゴスのはたらきを、一般に何かを「見えるようにさせる(sehen lassen)」はたらきと広く捉えて考察の的にした。

出典:池田喬・著『ハイデガー『存在と時間』を解き明かす』(2021年電子版 NHK出版)

 ロゴスは「語り」と翻訳され、さらにそもそも「語るということ」が古代ギリシアの人々にとって本来どのような行為であったのか、ということまで解釈が進められ、プラトンやアリストテレスの記述から、それが「見えるようにさせる」ことであったと分かるのです。

 しかし古代のギリシアの哲学者たちは、この語る(レゲイン)というごく日常的な語を説明しようとすると、あまりふつうではない言葉を使うことが多かった。プラトンはデールーンという言葉を使い、アリストテレスはアポファイネスタイという言葉を使ったのである。これら二つの言葉に共通するのは、ロゴスという言葉のほんらいの意味である「語り」としての特徴よりも、あるものを「あらわにする」という意味をそなえているということである。
 プラトンが語った「デールーン」という語は、「語りのうちで<問題になっていること>を明らかに示すことを意味する語」である。アリストテレスの語ったアポファイネスタイという語は、「語られているその事柄自体のほうから(アポ)、語られていることが<見えるようにする(ファイネスタイ)>」言葉である。
 どちらも、語ることのうちで、語られていることが「見えるようにする」という意味をそなえている。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 語るという行為は、声を発するとか、思いを出力するとか、いろいろな側面で捉えられますが、その本来の意味は、そこでいま語られるものを、語られる人に見えるようにする、「現に今、目の前にありありと現れる」ようにすることなのです。ここに、「現に今」という時間が関わってきています。
 「机の上にリンゴがある」と語られた人は、現に今、目の前の机の上にリンゴがある様子が現れているかのように、その状況を思い浮かべることができます。
 では「私は生きている」と語るとすればどうでしょう。「私」はハイデガーによれば実存する現存在でしたが、このロゴスを通して「現に今、目の前にありありと現された」場合には、それは自然の事物のひとつでしかないもの、事物存在(眼前存在)のように感じられるのです。

 その場合には語ることとしてのロゴスは、「目の前にあるもの(フォアハンデネス)」を、その純粋な眼前存在性において端的に知覚すること」と同じ意味をもつことになる。このことは存在者を、自然の中に存在するものとして「純粋に<現前化>」するものとしての構造をそなえているものとみなすことである。
 ハイデガーのここでの説明はあまりに言葉たらずであるが、このような文脈において語ることとしてのロゴスと、現在という時間が結びつけられるのである。すなわちある存在者を自然の中に存在する事物(ウーシア)のようなものとみなすことが、現前という現在●●の時間性(パルーシア)と、結びつくことになるのである。眼前存在とは、それを見る者の目の前に、今、この瞬間において現前しているもののことである。すべての存在者を、それがどのような存在性格をそなえているかを問わずに、目の前にある事物として、現前するものとして把握する。これが古代の存在論の重要な特徴なのである。
―(中略)―
 このように、古代の存在論においてすでに、現存在についても時間についても、重要な先入観が存在していたのであり、これが古代の存在論の根本的な欠陥をもたらすことになったのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 "ロゴス"を駆使して議論された古代の存在論では、現存在のような実存の在り方も気づかれにくく、存在はすべて眼前存在のように把握され、さらにそこに現前を通じて時間概念が関わっていることも無頓着にされたままであった。このような欠陥が、その後の哲学の伝統のなかで指摘されないまま受け継がれてしまったといいます。はるか古代の人たちに対して、現代の立場から、先入観による欠陥を指摘するなんて、随分と大胆な主張ですね。

現象学

 序論からの学びの最後に、【現象学】について触れておきます。まだ僕はいまいち現象学について初歩的なところも見通し切れていない感があるのですが、ハイデガーによると存在論の探求は、とりもなおさず現象学だそうです。

ここでハイデガーは重要な指摘を行う。「存在論は、現象学としてしか可能でない」というのである。伝統的な存在論は、形而上学の一分野として考察されてきたが、ハイデガーは現象学こそが、存在論の課題を担う学であることを、ここに宣言するのである。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 現象学というのは哲学の方法の一つのようで、ハイデガーの師であったフッサールが提示したものらしいです。

 「現象学」という表現は、まず何よりも方法の概念●●●●●を意味するものである。これは哲学の研究の対象が事象としてどのようなものであるかを性格づけるものではなく、哲学の研究がどのように●●●●●行われるかを性格づけるものである。
―(中略)―
 「現象学」という名称は、ある基本的な原理を示すものであり、この原理を「事象そのものへ!」と表現することができるだろう――すべての種類の宙に浮いた構成に頼るのでもなく、偶然にみつけたものに頼るのでもなく、また実証されているようにみえるだけの概念をうけ継ぐのでもなく、数世代にもわたって「問題」として広まっている疑似問題に頼るのでもなく。

出典:ハイデガー・著、中山元・訳『存在と時間 1』(2015年 光文社)

 無根拠な思い込みを受け入れたり、無批判に伝統的な考えを引き継いだりするのではなく、自分に確かに感じられていることから始め、そこからさまざまな人にとっても当てはまるような内容を吟味し、それを本質とみなして取り出す。といったようなことらしいです。
 現象学の考え方で分かりやすいのが実在についての主観-客観問題への取り組み方です。

 近代哲学における最大の中心問題は「認識問題」、つまりいわゆる「主観-客観」問題である。人間の認識能力は、果たして「客観」現実を正しく捉えうる原理をもっているのか、というのがその問題点だった。デカルトは人間の認識能力はこの原理を検証できないが、人間の認識能力を作った神は人間を欺いているはずがないから、人間は自分の認識能力を信用していいのだ、と主張した。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

 「われ思う、故に、われ在り」で有名なデカルトは、自分は現実を正しく●●●●●●認識できているか検証できないと考え、それでも自分がいまこうして考えているという事実だけは確かなことだと想定しました。こうして、自分にとっては確かにこうだと感じられている主観的事実と、そのこととぴったり一致しているか分からない本当の現実●●●●●としての客観的事実の対立が生じます。デカルトの場合は、神による保証という公理を導入することで、主観と客観は一致しうるとしたようですね。
(と言いつつ、しっかりデカルトについて調べてみたこと無いのです。間違ってるところがあるかも。)

 カントの場合は、本当の現実●●●●●としての客観的事実は在ると思うけども、人間の認識能力に限界があるせいで、それを認知はできないとしたようです。認知できる者があるとしたら、それが神だろうと。

 カントの考えはこうだ。たとえば一つのリンゴをさまざまな生き物が経験すると考える。すると、このリンゴの「存在なんであるか」は、それぞれの”身体性”(「感性や悟性の形式」=認識能力・感受能力・欲望の形式)に応じて違ったものになるはずだ。
 人間にとっては、それ●●は「みずみずしい果物」である。猫にとってはリンゴは食べ物ではないから、ただ丸くてじゃれると転がるような「存在なにか」でしかない。トンボには、丸い形だけは認知できるかもしれないが、そもそも「何ものでもない」ような存在かもしれない。アメーバにとってそれは、”丸いもの”ですらなく、もっと他の「存在なにものか」だろう。
 カントはこの図式から、アメーバ→トンボ→猫→人間と、高等な●●●生き物になるにしたがって認識もまた次第に高度になる●●●●●と考えた。つまりどんな認識も制限されたものだが、高度になるにしたがって、その制限が小さくなっていくと考えた。すると二つのことが出てくる。
 一つは、人間はその「感性・悟性・理性」の形式が認識能力の限界になっており、世界の「客観」それ自体は原理的に認識不可能であること。もう一つは世界の「客観」を正しく認識できるものがあるとすれば、それは「神の認識」(これは制限されていない)だけだということである。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

 「神は死んだ」と書いたりするニーチェの場合は、ここから神の想定を取り払います。

 これに対して、ここから「神の存在」という項目を取り払えば、そのままニーチェの考え方になる。違いは一点だが、その帰結するところは極めて重大である。
―(中略)―
では「客観世界」はどうなるか。ニーチェに言わせればそれは、どんな生き物によっても原理的に「経験されない●●●●●●世界」なのだから、ただ理念的に想定できるだけの「世界」、実在性をもたない「世界」だとしか言えない。だから「客観世界」なるものは実在しない●●●●●。したがってまた「客観とは何か」ということ、客観の「存在ありかた」について問うことは無意味である。あえて言えば、人はただそれを、「カオス」という形で理解するしかない――。
 カントでは、人間はその認識能力が「完全なもの」でないために●●●、「客観世界」を認識できない。これに対してニーチェによれば、「認識能力の限界」とか「完全な認識能力」などという概念がそもそも「背理」である。むしろさまざまな生き物のさまざまな「認識仕方」があるだけだ。「客観世界」というものは存在しない。もともと認識の対象とはならない「カオス」としての世界がある。そしてさまざまな生き物が、その「力への意志」(身体・欲望・関心・配慮と考えればいい)に応じて(相関して)、そこから「世界」の「存在ありかた」を受け取っているだけである……。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

完全な認識と、それによってのみ正しく見取られる本当の現実なんていうものは、何者にも経験できないのだから、実在しているとは言えないだろうということですね。強いて言えば「カオス」な世界だけがあり、さまざまな生物がそれぞれの関心の持ち方に応じて、実在世界を各々に受け取っているのだと。

 では、ここまでを踏まえて現象学はどういう考え方をするかというと、まず本当の現実●●●●●としての客観世界の実在について問うことは、いったんやめておきます。そのため主観と客観が一致するかどうか、という問題は、差し当たりまだ発生しない。その上で、人々が、何かを本当に実在していると確信できるのは、どんな条件がそろっているときだろうか、と考えます。もしかしたらその条件は、人によって微妙に異なっているかもしれません。しかし、何とかして皆に共通して、この条件がそろったときはみんな実在を確信するよね、という本質的な条件が取り出せるかもしれないのです。強いて言えば、そのような、みんなにとって共通に確かな実在だと思われる世界の在り方が、客観世界であろうと考えられます。

 現象学の方法の核心は、「確信成立の条件を取り出す」という点にある。
―(中略)―
  フッサールもまた、「客観」認識をもとめる実在論は「背理」であると明言する(『イデーン』あとがき)。そして彼は、したがって「真理」の認識ということは背理だが、「ある判断や認識を<真>として確信させる”意識表象の条件”」は取り出せる、と考えたのである。フッサールではこの確信の条件は、たとえば「実在物」の場合は、反復可能性とか内在知覚といったかたちで取り出される。この思考はつまり、あるものの「存在ありかた」を根本的に根拠づけているものは何か、という問いを徹底することなのである。ニーチェとフッサールに共通するのは、事物の「存在ありかた」をぎりぎりのところで根拠づけているのは、その事物の客観的な「存在性」ではなく、むしろ人間の「存在性」である、という直観にほかならない。
―(中略)―
「存在」を客観的なものと前提する従来の「存在」概念を根本的に編み換えるという点では、両者の直観は共通している。事物が「存在」するとは一体どういうことか。それは根源的には、「存在者」が、個々の「生」にとって、つまり「いまここ」にあるこの実存の意識にとって有意味な存在として現われ出る、ということなのである。
 さて、ハイデガーの実存論の思考が、ニーチェの実存論的視線とフッサールの現象学的視線をその土台にしていたことは疑うことができない。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

 このような背景を踏まえると、ハイデガーの存在論が、「問う者」である現存在の分析から始まるのも理解できます。存在一般を根拠づけるのは、存在について問う、関わる、対象化する、研究する、その現存在の在り方の中に見出せるはずだという予想があったのですね。

 フッサールが言うのはこういうことだ。事物(物的なもの)の「存在ありかた」と、心的なもの(意識、心)の「存在ありかた」はとうてい同じ仕方では記述できない。
―(中略)―
「事物の存在」は、ふつう客観的な存在●●●●●●と見なされており、だから「それは何であるか」と問われうる。しかし、「心的な存在」は「事物の存在」と決定的な違いがある。つまり、「心的な存在」とはむしろ、たえず「それは何であるか」と問う存在●●●●である、ということだ。
 言い換えれば、事物の存在はそれ自身つねに「対象化される存在」であるのに対して、心的存在はつねに「対象化する存在」である。このつねに「対象化する存在」という点が心的存在の「本質」と考えられなくてはならない。
 この、フッサール流の「存在論的差異」は誰にも理解できるだろう。事物が「何であるか(=存在)」は、それが人間からどのように対象化されているか●●●●●●●●●についての記述の体系として答えられる。しかし、心的な存在の「何であるか」は、それ自身が、まわりの世界や諸事物をどのように対象化するか●●●●●●ということの記述の系としてしか捉えられないのである。

出典:竹田青嗣・著『ハイデガー入門』(2022年電子版 講談社)

 そして現存在による存在物の対象化の仕方を分析した結果として、事物存在や道具存在といったカテゴリーも生じてくるというわけですね。現存在の在り方については、本論でより詳しく考察されます。

おわりに

 この記事書くのに随分長い時間をかけてしまったのですが、これまだ序論なのですよね。未完になってしまう気持ちもわかるなー。

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