M004. 【哲学・本】ウィトゲンシュタイン関連4冊
※修正履歴※2020年11月12日:とある気づきがあって、「後期・『哲学探究』と、言語ゲーム」の後半部分を修正しました。要旨は変わりません。
「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本について書き留めるnoteの【3回目】です。
今回は哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889 - 1951)に関する、以下4冊の本。
① 古田徹也・著『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(2019年 KADOKAWA)。Kindle版の方で読みました。
② 橋爪大三郎・著『はじめての言語ゲーム』(2009年 講談社)。2013年に発行されたKindle版の方で読みました。
③ 永井均・著『ウィトゲンシュタイン入門』(1995年 筑摩書房)。2005年に発行されたKindle版の方で読みました。
④ ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン・著、黒崎宏・訳・解説『『哲学的探求』読解』(1997年 産業図書)。
ウィトゲンシュタインの思想については、哲学マップの記事でも少しだけ触れました。彼の哲学と「家族的類似性」のアイデアについて、より詳しく理解したいと思い、この度これら4冊の本を選びました。
難解なところも多く、僕には全てを理解することはできませんでした(そのため本記事ではイマイチな解釈のままで彼の哲学を紹介してしまうかもしれません…)。しかし「日常言語的には動物/植物とは何か?」という問いについて考える上で、重要な着想を得る事が出来ました。
にわか知識でざっくりとウィトゲンシュタインの哲学についてまとめると、彼の考え方は、言語の使われ方に限界や誤解があることを暴き、それを以て哲学的な問題を解決しようとするものです。
彼については天才的(変人的?)でドラマチックなエピソードが多く残されていて、ファンも多いらしく、彼を題材にした映画なんかもあるそうです。なぜか、いらすとやさんにも似顔絵の素材があります。
彼の考え方は、前期と呼ばれる時期と、後期と呼ばれる時期とで少し異なり、前期の代表作が『論理哲学論考』(略して『論考』)、後期の代表作が『哲学探究』(略して『探究』)です。家族的類似性の考え方は、『探究』の方で出てきます。
まず一般的なレビュー
ウィトゲンシュタインに関する本はとてもたくさんあって、どれを読んだらよいのやら…。とりあえず、『論考』の解説から読もうという事で、『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考 シリーズ世界の思想』から読み始めました。『論考』は非常に難解な著作だそうですが、この本は丁寧に整理して解説してくれます。『論考』の解釈の仕方はこれまでに色々出てきているそうですから、出版年の新しい解説本という点からも、この本は僕以外の初学者にもかなりオススメです。
次に、後期のウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方について知りたくなって、『はじめての言語ゲーム』を読み始めました。いかにも読みやすそうなタイトルじゃないですか。実際、文体はかなり平易で分かりやすいです。ウィトゲンシュタインのエピソードや、彼が生きた時代の社会情勢についても多く触れてくれているのが特徴です。しかし平易すぎて逆に物足りないというか、これで本当に理解したと言えるのだろうか?という気になってしまって、次に『ウィトゲンシュタイン入門』を読み始めました。
後から知ったことですが、『ウィトゲンシュタイン入門』は、タイトルこそ「入門」ですが、初学者にとって非常に読みにくい本だそうです。確かに、僕もはじめはさっぱり理解できなくて、今回noteにまとめるために改めて読んだら、じわじわ理解できるようにもなってきたという感じです。2、3冊目に読む本としてオススメしたい本ですね。ウィトゲンシュタインの哲学について、前期、中期、後期に分けて解説してくれています。
ここまでの3冊の本を読んでも、「家族的類似性」について多く文量を割いてくれる本がなかったので、それでは『探究』の邦訳本を読んでみようという事で手に取ったのが『『哲学的探求』読解』です。『探究』の邦訳本はいくつか存在していて、今月また新しい本が出るみたいです。何かのAmazonレビューで、数冊の邦訳を並べて比較してくれているものがあって、その中で黒崎さんの邦訳が一番読みやすかったため、この邦訳・解説本を選びました。この本は出版年が古く、もしかすると現在最前線のウィトゲンシュタイン研究者からすると物足りないところがあるかもしれません。
内容はというと、なかなかに読みづらいです。『探究』という著作はあまり体系的にまとめられた書き方はされておらず、色々な話題に触れる文章がダラダラと続く感じです。一通り読み終わると、なるほど言語ゲームという発想について語るからには、こういう書き方になるしかないかもな、とも思えてきますが、読みづらいものは読みづらいです。架空の対話者との会話形式で記述されるところが多かったり、反語表現が多かったりするので、文中でどこからどこまでがウィトゲンシュタインの主張なのか分かりづらかったりします。文量も多く、読破するのに体力が要ります。しかし、僕の持つ疑問に対して有用な知見が多く、「家族的類似性」についても思ってたより多く言及されていたので、僕としては満足でした。最新の邦訳本も、折を見て読んでみようと思います。
前期・『論理哲学論考』と、語りえないこと
さて、『論考』の哲学史的位置づけと、その内容は概ね次の通り。
様々な問い。「なぜ世界は存在するのか?」「神は存在するか?」などなど…。これらは全て、言語によって問われ、言語によって考えられ、言語によって答えられてきました。ウィトゲンシュタインは『論考』において、言語が世界について何か有意味なことを語るには、どういう条件が必要なのか考察します。そして言語によって表すことのできる事柄(=語りえること)には限界があることを示し、伝統的な哲学的問答は言語の限界の外にあること(=語りえないこと)であると言います。
『論考』においては、「●●は、△△である。」というような形式の、「世界の構造を写し取って論理的に物事を表現する記号の配列(=命題)」こそが言語であるとみなされているようです(例えば、「ミドリムシは微生物である」とか、「ここに顕微鏡がある」とか)。このことは、まず世界というものが、何某かの構造を持って存在していて、言語はそれを写し取る表現方法なのだ、ということのように聞こえます。しかし、ウィトゲンシュタインの発想の順序は逆らしく、まず言語とはそういうものであって、この論理的な言語が有意味に何事かを語るには、世界はある一定の構造を持っていなければならないはずだ、と考えます。まず言語の在り方を認めてから、その前提へと考えを進めていくのです。すると言語の限界が見えてきます。言語が有意味であるためには、ある前提が成立していなければならないはずだが、その前提については、言語で語り尽くすことができない、と言うのです。
例えば、「あなたの視野」という世界を考えます。今この文を読んで下さっているあなたは、正常な視力を持っているから、あなたの視野に僕が書いた文が映り込んで、この文を読めているのだと思います。あなたの視野が在るからには、あなたの眼球も存在するはずですよね。これは視野が在るための前提というやつです。ところであなたの視野に、正にあなたの眼球が直に映ることは、あり得るでしょうか? 視野の中に、視野を成り立たせる前提の存在は映りえない。視野が在るということが、眼球の存在を前提としているが、眼球は決して視野の中に映ることはない。見えないことについては、無視せざるをえない…。
本の中では、もう一つ、言語の限界を示す例えとして、ルイス・キャロルの寓話「亀がアキレスに語ったこと」の要旨が紹介されていました。
この、"前提への組み込み"は、この後、R、S、T…と永遠に続いてしまうことでしょう。視野と眼球の例えでは、「前提の存在に言及できない」という意味で、言語の限界を表現したつもりですが、こちらでは、「前提に言及できたとしても、前提の前提が問題になって、きりがない」という意味で、言語の限界を表現しています。言語(命題)が成り立つための前提となっている論理法則については、論理的な言語表現では語り尽くすことは不可能なのです。
しかし、もし論理法則にとらわれないような(=論理法則の外側にある)言語表現があれば、論理法則について語り尽くすこともできるかもしれません。例えば「ミドリムシは微生物である」は論理的な言語ですが、「であるミドリムシ微生物は」は論理法則にとらわれない言語表現です。しかし、人はこの論理法則にとらわれない言語表現を、意味ある命題として理解することはできないでしょう。
人々は論理的な言語によって物事を考え、論理的な言語によって物事を説明するので、論理的な言語の限界を超えた、論理の外側(前提)については理解することも想像することも出来ないのです。そして、伝統的な哲学の問答は往々にして、理解することも想像することもできないはずの、論理的な言語の外側に言及してしまっている。語りえないはずのことを、語りえると勘違いして、無意味な問答を繰り広げてしまっている、というわけです。
我々があれこれ考えたり、お話したりと、論理的な言語を使用しているからには、「私が存在している」ことや「世界が存在している」ことは、視野に映らない眼球のように、言語で語り尽くせない前提になっています。そのため「私」や「世界」の存在について問答することは、意味ある言語表現にはなり得ない、という具合……だと思います。
ところでこの、「言語には限界があって、外側は想像もつかない」とか、「伝統的な哲学の問答は言語の限界の外にある」とかいう『論考』の内容は、"語りえること"なのでしょうか? 言語の外側については想像することも出来ず、沈黙しなければならないはずなのに、『論考』自体が随分と言語の内と外について語ってしまっています。これについては、ウィトゲンシュタイン自身も承知の上だったようです。
『論考』は、言語に限界があること示し、読者に気づかせるキッカケであって、気づかせるまでの過程は、やはり語りえないことを語ってしまっているもの(=投げ捨てなければならない梯子)ということだったようです。
後期・『哲学探究』と、言語ゲーム
『探究』で言及されるテーマは多岐にわたり、全てを理解することも、全てを紹介することも大変難しいです。この記事では中心テーマである「言語ゲーム」の話と、ミドリムシの分類について考える上で最も関係がありそうな、「家族的類似性」の話を取り上げます。まず『探究』は、次のような著作とのこと。
さて『論考』においては、「世界について何事かを語る命題」こそが言語であるとされていました。ウィトゲンシュタインの目的が、伝統的な哲学的問答が「語りえないもの」であると確認する事だったとすれば、言語に対してこの理解で十分だったでしょう。
しかし、日常的に人々が使用する言語というものは、世界について何事か語る命題の形式だけではありません。挨拶だとか、「◇◇してほしい」という願望や命令だとか、とても多様な使われ方をします。後期のウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という見方は、言語が使用される全ての場面に及びます。そしてやはり、言語の使われ方を考察することで、誤解や錯覚を暴きます。では、ざっくりと言語ゲームという見方について、説明することにチャレンジしてみようと思います。
ある人Aさんが、知らない国の知らないゲームに参加しているとしましょう。Aさんにとってこのゲームは未知のゲームで、事前にゲームのルールは聞かされていません。それどころか、Aさんは知らぬ間に、気が付いたら、このゲームをプレイさせられていたのです。ルール違反をすると他のプレイヤーから怒鳴られます。他のプレイヤーは異国人なので何を言っているか分かりませんが、どうやら怒られたり、間違いを指摘されたりしたように思われます。しかしプレイしている内に、Aさんは次第にルールを理解できてきたようで、ルール違反でないゲームプレイが出来るようになってきました。ただし未だに、正確なルールは未知のまま。それでもほとんど不都合なく、Aさんは他のプレイヤーと一緒になって、プレイを続行しています。そして実は、このゲームのプレイヤー達は皆、Aさんと同じ境遇でゲームをプレイし始めた人たちだったのです。誰も正確なルールを知らないまま、ゲームをプレイしている。超えてはいけなさそうな線が引かれていたり、勝敗を決める得点があったり、チームが3つに分かれていたり……決まったルールがあるようにしか見えないプレイヤーの動きとゲーム進行です。でも本当は誰も真のルールを知らないのです。もしかしたら、真のルールなんて無いのかもしれません。チームの数が2つでもなく、4つでもなく、3つでなければいけない根拠を誰も分かっていません。当然ながら、Aさんと、他のあるプレイヤーでは、異なったルールの解釈をしている可能性もあります。Aさんが絶対に超えてはいけない線だと思っている線を、他のプレイヤーは、超えてしまうと得点が下がるからなるべく超えない方が良い線、と思っているかもしれません。それでもこのプレイヤーとAさんの行動はある程度一致しているので、問題なくゲームが進行します。
こんな風に見えるのが、人々の言語の使われ方、という事のようです。
人々は何故、多様に言語を使えているのか? と考えるにあたり、人々はどのようにして、言語を習得したのか? と考えることが有効です。
人々は色々な語句を使用して日々暮らしていますが、全ての語句について、例えば辞書で調べて、その意味を暗記している人は居ないでしょう。人はこれまで経験してきた言語の使われ方(ルールらしきもの)から、自然と自分の言語の使い方も形成していき、「●●」という語をこの場面で使うのは違和感があるとか、「△△」という語が自分の感情を表すのにぴったりだとか、そういった、明確な根拠には依らない、感覚で言語を使っていくことが多いように思えます。大抵の場合、「違和感」や「ぴったり」の具合は近しい人々の共同体ではほとんど一致しているので(そもそも、その共同体で暮らす経験により、これらの感覚は養われてきた)、この共同体においては、言語の使用が何らかのルール(言語をどんな状況でどう使うべきなのか)に従っているかのような状態ができあがります。”従っているかのような”というのが重要だと思います。言語についての明確なルールは、『論考』でいうところの「語りえないもの」で、明確なルールが言語使用の前提として有るとしか思えないし、そうとでも思わないと言語を使う事もできないけれど、明確なルールが有るとか無いとかは語り尽くせないものであって、共同体における言語の使用に、その存在が示されるのみです。
まず明確なルールがあって、それに従う言語の使用という事ではなく、逆に、まず言語の使用があって、そこに明確なルールが存在しているかのように示されるというのが、ウィトゲンシュタインの哲学のポイントのようです。ここは、やはり『論考』と共通した考え方があるように思えます。
「"美しい"とは何か?」といった、言葉の使用の明確なルールについて問いただそうとする伝統的哲学的問いも、まるで「美しい」という言葉の使用方法に明確なルールが有るかのように見えるから問いたくなるけれど、それについては語りえないことです。言語に対する「◆◆とは何か?」という、言語ゲームのルールについての問いは、いわゆるメタな発想であって、本来は言語の外側に出ないと問いただせない内容です。しかし『論考』で確認したように、我々はどうしても言語の外から物事を理解する事が出来ないので、語りえないのです。そこを無理して、「◆◆とは何か?」という形式の、◆◆の中に「美しい」を入れてしまうと、チグハグな事が起こります。本来は「○○は美しい」とか、「▽▽は美しくない」とか、まるでルールが有るかのように現に使用されている、この形式が「美しい」という言葉の全てなのです。バレーボールをしているところにサッカーボールが放り込まれても、トスやレシーブされるだけで、サッカーボール本来の使われ方が現れることはありません。サッカーボールの本質は、サッカーの中でパスやドリブルされることです。「"美しい"とは何か?」という文を作ってしまった時点で、「美しい」に対する錯覚が始まっているのです。
日常言語的な「動物」という言葉についても、「猫は動物である」とか、「チューリップは動物でない」とか、こういった使われ方が、「動物」の全てという事でしょう。「動物とは何か?」などと、明確なルールについて問いはじめた時点で、日常的な「動物」という言葉の本質についての錯覚が始まる危険があります。
ところで、明確なルールについて言及できないとなると、言葉の使用方法(例えば「動物」という言葉をどんなときに使用するか)の細かい部分は、個々人がそれぞれの人生の中でどんな経験を積んできたかに依存して変化し得るでしょう。ある人がミドリムシのことを、「動物である」と即答するかどうかは、ここにかかっています。このような言語使用に許容されるブレのようなものが、「家族的類似性」として現れるのかもしれません。
家族的類似性と、ぼやけた境界
『探究』の中の、言葉の意味についての考察において、「家族的類似性」という考え方が登場します。
ある言葉が指し示すものについて、全てに共通するものが無くてよい、というのが重要ですね。このことをベン図を使って作図してみました。
またいずれ記事にしたいところですが、実は生物の分類学の歴史を見てみると、★を探そうとする探求の意志を感じます。分類学の話は専門的な用語の話ですが、日常的な言葉においては、ウィトゲンシュタインの言うように、全てに共通な性質★を持たないもの達も、共通の言葉で指示され得るということですね。
ところでベン図に示したような、複数の集団を加え合わせた集団を、論理和と呼んだりします。なるほど家族的類似とは、全てに共通な部分を持たなくても良い論理和のことか、というと、ウィトゲンシュタイン的には、そうでもないようです。
つまり日常的な言葉――それも、気が付いたら自然と使うようになっていたような、いつその言葉を覚えたのか記憶にないような言葉――については、ハッキリした境界線で区切られずに、ぼんやりとした範囲で、ものを指し示すことがあるというわけですね。
ところで境界の話はソシュールの時にも出てきましたね。ソシュールの言語学では、言葉は、世界を何らかの基準で切り分けた結果の部分とのことでした。「切り分ける」という表現が使われると、言葉の示す範囲はハッキリした境界線で囲われているような感じがしてしまいますが、そうでは無いということですね。
シャープな境界と、ぼやけた境界について、『探究』の中ではもう少し深掘りされています。
動物/植物とは何か?、という疑問では、専門用語についての問い方がシャープな境界線の問いであって、日常言語についての問い方はぼやけた境界線の問いなのでしょう。そして、シャープな境界線を要するときは、なにか目的があるはずとのこと…
では、「ミドリムシは動物か?植物か?」という問いが発せられるとき、質問者の目的は何なのか…?
もしかすると、この質問に正しく回答するには、質問の目的を探る方法が、まず必要なのかもしれないですね。
おわりに
ウィトゲンシュタインの哲学、難解なところも多かったですが、参考になるものでした。家族的類似性や、ぼやけた境界、「現にこうなっているからには、こんな前提があるはずだ」とか、「あるはずの前提について表現しきれない」とか、興味深いアイデアをたくさんもらった気がします。
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