見出し画像

M019. 【生物学・本】分類と分類学

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【17回目】です。

 僕はミドリムシの分類について考えるにあたって、分類学史も押さえておく必要があると感じています。そこで今回は、分類学の歴史についてコンパクトにまとめられた本を読みました。

相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

まず一般的なレビュー

 タイトルが『分類と分類学』だったので、一般的な意味の「分類」と、学問としての「分類学」の性格の違いを強調して説明してくれるものと期待していたのですが、そこはあまり説明が無かったように思います。
 主な内容は、現代に至る分類学の歴史の紹介であり、特に種概念の定義にまつわる議論が中心になっています。本文100ページほどの比較的コンパクトな本で、通読しやすかったです。

 読みづらかった点として、引用部分と著者の主張部分が区別しづらい構成になっていると感じました。以下の記事内でも、著者の主張かのように他の学者の主張を引いてしまうところがあるかもしれません……。

初期人類 ― 民俗分類学の知見

 分類学の歴史の、一番はじめはいつ頃でしょうか? 多様で無数の生物たちをいくつかの種類に分けて認識するだけであれば、人類は学問の発達以前からそれを行ってきたろうと思います。有史以前の人類の分類観を直接調べる方法は無いわけですが、【民俗分類学】による推測が有用であるようです。

 初期人類がどのような分類を行っていたのだろうか? それを推測するには現在でも各地で生活している無文字社会の人たちが生物をどのように分類しているのかを調べるという方法が用いられる。民俗分類学である。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

民俗分類学は、それぞれの民族が生物をどのように分類し、名前を付け、体系化しているのかを研究する。ツェルタル族(南メキシコのマヤ民族)、ハヌノ族(フィリピン)、カラム族(ニューギニア)、グアラニ族(アルゼンチン)、ナバホ族(北アメリカ)などについて研究が行われてきた。その結果、民俗分類学には次に示すような一般的な特徴が共通して見られるという(Bulmer & Tyler, 1968 ; Raven et al., 1971 ; Berlin, 1973 ; Berlin et al., 1973)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 本書では、無文字社会の人々の分類観に見られる一般原則が8項目紹介されていました。いくつか興味深いものを取り上げます。

2.これらの分類群はさらに少数の分類群にまとめられ、階層的な分類が行われる。多いものでは5階級になる。唯一の創始者(unique beginner)、生活型(life form)、属(generic)、種(specific)、変種(varietal)である。

3.民俗分類の5つの分類階級は階層的に配置される。それぞれの階級に割り当てられた分類群はお互いに排他的だ。ただし、創始者は例外で、成員は1つである。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

5.民俗分類では当たり前のことだが、唯一の創始者という分類群には普通名前が付けられていない。もっとも包括的な分類群である「植物」とか「動物」がこれにあたる。これらにはほとんどの場合、名前が付けられていない。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

ここ、重要そうですが理解が難しいです…。

 階層的な分類が、人類にとって自然に行われるのは、なんとなく分かります。生物に限らずいろいろな概念がそのようになっていると思います。

 「それぞれの階級に割り当てられた分類群はお互いに排他的」というのも、まあ分かります。群間の境界が曖昧すぎては、そもそも分類概念として使い物にならない気がします。それに、分類は排他的であるのが当たり前、という背景があってこそ、ミドリムシのような動物・植物のどちらとも言いづらい存在が問題になります。

 民俗分類学では、「植物」とか「動物」といった概念は、【唯一の創始者 unique beginner】という分類階層にあたるそうですが、これは無文字社会で「名前が付けられていない」階層なのだそうです。
 これって当たり前のことなんですかね?? 想像するに、人類の歴史上、最初期に捉えられる分類概念はおそらく「個物」でしょう(言語哲学で固有名が問題になるのも、ここと関連しそうです)。その後、いくつかの個物をひとまとめにして扱える分類概念が生まれ、さらにそれを包括する分類概念が生まれ……というように、次第に高次の分類概念が生まれていくとする。この場合、より高次の分類概念ほど、人類史上、後になってからでないと生まれてこない傾向はありそうですから、確かに、包括度の高い分類概念は無文字社会では珍しいのかもしれません。
 それにしても、「名前が付けられていない」ということは、無文字社会では普通、「動物」や「植物」の概念が無いということですよね??(名前無しに概念だけあるなんてこと無いですよね??) 本当でしょうか? 驚きです。
 それに、「動物」「植物」がもっとも包括的な分類階層ということは、「生物」なんていう更に包括的な概念は、無文字社会には全く存在しないのでしょうか? この辺りは掘り下げ甲斐がありそうなので、また追い追い関連の書籍や論文を読んでみたいと思います。

16世紀 ― チェザルピーノの植物分類

 生物学史や分類学史の本では、有史以降の最初期のトピックとして、古代ギリシャのアリストテレスの業績が紹介されることが多い気がします。しかし本書では初期人類の分類観について触れた後は、いきなり16世紀の分類学の話に移ります。

採集した植物を乾燥標本にし、科学的な目的のために用いるようにしたのはルカ・ギニ(Luca Ghini, 1490~1556)にはじまる。そして、チェザルピーノ(Andrea Cesalpino, 1524~1603)などの弟子たちが植物標本館を造った。1559年にラツェンベルガー(Caspar Ratzenberger, 1533~1603)が植物標本館(herbarium)を創設した。これが植物標本館のはじまりとされる(Sachs, 1906)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 科学的な目的(とは…?)のために植物標本が作製され、整理されるのはこの頃からなのですね。本書では当時の植物学者チェザルピーノの植物分類の方法が紹介されていました。

 チェザルピーノは『植物の本16巻 De plantis libri XVI』を出版した(Cesalpino, 1583)。3本の柱がこの本を特徴づけている。第1は、多くの新しいきめ細かな観察。第2は、形態学的研究の対象として花と果実の器官に最大限の注意を払うこと。第3は、哲学は厳密にアリストテレスにしたがい、資料は経験から得たものに限る。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 僕はまだアリストテレスの哲学の特徴を良く分かっていませんが(関連書籍はたくさん買ってあるのですが…)、たしかに次のような考え方はアリストテレスっぽいのかもしれません。

彼が求めたのは個別性から普遍性を導き出すことである。彼の思考様式はまったくアリストテレス学派のもので帰納法だった。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 チェザルピーノは、
「私たちは植物の本質が存在する型の同一性と異質性を追い求めるのであって、偶発的な非本質的なものを求めているのではない。薬として有効だとか何かに役立つというような特徴は非本質的なものである」
という。彼は分類に用いる形質の正当性を吟味し、分類は植物の生活にとりもっとも重要な機能を支える器官に基づいて行わなければならないという。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 アリストテレスの考える【本質】については、『名指しと必然性』を読んだ時に少し触れました。

「論証的知識は、必然的な原理から由来する。なぜならば、知られるものは、別様にありうるものではないからである。」
すなわち、アリストテレスによるならば、科学の第一原理となるべきものは、それが扱う類に関して必然的に成り立つものでなくてはならない
――(中略)――
アリストテレスにとって、科学的知識を所有しているということは、知られている当のものが、なぜそうでなくてはならないのかを理解していることである。そのことは、知識のかかわっているものが何であるかを理解していることに存する。さらに、それは、そのものが、いかなる類に属しているかの理解と、その類が何であるか、言い換えれば、その類の本質の理解に存する。類にとっての本質とは、それを欠いてはその類に属するものが存在しなくなる性質であると言えよう。ものの本質は、認識者がもっている言語的枠組みなり理論的枠組みなりによって決まるものではなく、認識者とは独立のものである。

出典:飯田隆・著『言語哲学大全Ⅱ 意味と様相(上)』(1989年 勁草書房)

 たしか、アリストテレスの自然哲学の特徴に、目的論的な性格があったかと思います。つまり、植物の生活には何らかの目的があり、その目的のために植物が持つ、そうでなくてはならないような性質、それが植物の本質であるということでしょう。だからチェザルピーノは植物を分類するとき、「植物の生活にとりもっとも重要な機能を支える器官に基づいて行わなければならない」と考えたのでしょう。

 結局チェザルピーノはどういった器官を重視して植物を分類したかというと、まず第一に、生長に深く関わりある特性として木本か草本かの区別を重視したようです。さらに第二に、生殖に深く関わる器官である花と果実の構造に基づいて植物を分類したようです。

 さらにチェザルピーノは、はじめて生物の"種"概念の定義を明確に打ち出したといわれます。

チェザルピーノがはじめて種の概念を提出した。彼は、
「自然の法則にしたがえば似たものが似たものを生む。親と子は同種で似ている。この似たものの集まりが種」
だとした。
ここには種とは繁殖集団であることが示唆されている。このように、チェザルピーノは種を明確に定義している。したがって分類学の母といわれるのは当然である。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

18世紀 ― リンネの人為分類

 次もいきなり時代が飛んで、18世紀の分類学者、リンネ(1707-78)の活躍が紹介されます。リンネは超有名な学者で、彼の行った分類作法の一部は現在でも生物学のルールとして採用され続けています。最も有名どころでは、学名の名づけ方でしょうか。

 リンネは主著『自然の体系』(初版 1735)等を通じて、学者にとって「実用的」な分類体系を提示しました。この体系は、雄蕊や雌蕊の本数を基準にして植物を分類したり、指や爪や歯の特徴に基づいて動物を分類したりするもので、検索表と呼ばれる性格の分類体系だったようです。目の前にいる生物が何という種類の、何と名付けられた生物なのか同定する際に、一つ一つの特徴をフローチャートをたどるように順番に見ていくと、特定の生物種に絞り込むことができるというものです。

 リンネは、自然物について研究するためには自然物を正確に識別する能力が必要なのだということを、『自然の体系』の中で次のように記しています。

9.人類にとり有用なものはすべてこれらの自然物に由来する。鉱工業、農業、園芸、畜産業、狩猟、漁業など。一言でいえば、建築業、商業、食料品、医薬品などすべて産業の基礎である。自然物により人類は健康状態を保つことができ、病気から守られ、病気から回復するので、自然物を選ぶことが大切となる。したがって、自然科学の必要性は自明である
10.賢明さの第一歩は物そのものを知ることである。これは対象物の真の実在を把握することにある。対象物は秩序立てて分類され適切な名称が付けられ、識別され知られることになる。したがって、分類と命名が私たちの科学の基礎となる。
11.私たち科学者のうちで、種内の変種や、属内の種、科内の属を分類できないにもかかわらずこの分野の科学者だと称するものは、他人だけでなく自分をも裏切ることになる。自然科学に基礎を置くものたちはこのことを胸に刻むべきである。
12.自然物を観察し、同定し、記載し、命名することが正確にできるならば、その人は自然科学者(博物学者)と呼ばれるにふさわしい。岩石学者であり、植物学者であり、動物学者である。
13.自然科学はそのような科学者により科学的に研究された自然物の分類と命名を対象とする。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 自然物を識別するために使いやすい検索表的分類体系を作り上げたリンネですが、他方で、それとは違ったタイプの分類体系を求める野望も持っていたようです。それは【自然体系】とか【自然分類】とか呼ばれるものです。自然分類とは何か、というと、これも複雑で一意的な説明は無いと思うのですが、自然の中にありのまま存在しているはずの、自然法則とでもいうような客体的な分類体系のことかと思います。チェザルピーノが追究した植物分類は、実態がそうなっているかはさておき、こちらの方面だったでしょう。「ものの本質は、認識者がもっている言語的枠組みなり理論的枠組みなりによって決まるものではなく、認識者とは独立のものである」のです。

 リンネは最初から人為的でない、よりよい自然な分類法を見つけ出すことに努めていたという。植物の体系で求められるのは1から10まですべて自然な方法であると述べている。
――(中略)――
 彼は断言している。世界中のすべての植物を知るまでは形質により植物を定義する明確な原理を見つけることはできないという。それは、すべてを知るまで神がどのような意図を持って種を創造したのかを理解できないと思っていたのだろう。さらに、
「自然体系は植物の本性を教えるが、人為体系は植物を見分けるだけである」
という。このように、リンネは自然体系と人為体系を明確に区別していた。そして彼が行っているのは人為体系だという。
そして、これまで長い間それを見つけ出そうと努力してきたが、まだ達成できないでいる。生きている限りこれからも続けるつもりでいるという。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 客体的な自然分類というものが本当に存在するのか分かりませんが、少なくともリンネはそれを信じて追い求めたようですね。特に彼は牧師の家庭に生まれた敬虔なキリスト教徒だったので、自然分類とはつまり"神"の意図であったようです。神はこんなにも多様な自然物を、何故、どんな意図をもって創造したのか。それを追い求めることが彼の自然分類追究だったのでしょう。
 以前読んだ本『生命への考察』では、「自然の相互関係とは血縁関係のことであり、自然分類法は系統学に外ならぬと言うことになる。」とされていました。これはつまり進化論を背景に、生物種間の血縁関係を反映した分類法こそが自然分類であるという主張ですね。リンネの活躍した当時はまだ進化論は流行っていないでしょうし、種の間に血縁関係があるとも想定されていなかったことでしょう。リンネの種概念には、キリスト教的世界観がはっきりと現れています。

4.新たな種はいない。似たものが似たものを生む。そして、それぞれの種のはじまりは単一の祖先(1個体または2個体)である。この単一の祖先は全知全能の神の創造と呼ばれる御業によるものであることは必然である。これはすべての生物個体が備えている機構、法則、原理、構造、そして感覚により確認されている。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

「すべての属は自然で、最初から今あるように創造されたものであり、したがって、気まぐれや誰かの考えでやすやすと分割したり、まとめたりしてはならない」
という。種の不変性と恒常性についてリンネ以上に明確に肯定している人を探すことは困難である。種はすべてそのはじまりに創造され、それ以来、不変でまた新たに付け加えられることはないという。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 しかし、種は神による創造の時点から不変であり、新種が後から生まれることはないという以上の考えは、植物の研究を通じて次第に揺らいでいったようです。

その一方で、記載したすべての種を定義する際に、時には難しいことがあったとも彼は記している。
――(中略)――
 驚くのはシャクトリマメ属 Scorpiurus に関する記述である。4種を記載した後で次のように述べている。
以前は1種だったものから4種に分かれたこと、そして環境の変化だけでは彼らの創造を説明するには不十分であることは疑う余地がない。どのようなものが交雑すると新たな安定した植物が出現するのだろうか?
――(中略)――
彼は1766年に彼自身の手による最後の『自然の体系(第12版)』を出版した。「種が新たに生まれることはない」という文を前書きから削除している。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 しかし新種分化の具体的メカニズムは、リンネには分からないままでした。そこに大きく迫るには、ダーウィン(1809-82)の活躍を待たねばなりません。

 ところでリンネの『自然の体系』は、なにも生物に限定された分類の本ということではなくて、鉱物も対象に含まれる、自然物の体系の本です。そこでリンネは、鉱物・植物・動物の区別について言及しています。

14.自然物は3界に分けられる。鉱物界と植物界と動物界である。
15.鉱物は成長する。植物は成長し、生きている。動物は成長し、生き、感覚を持つ。このように、これら3界の間には境界が決められている。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

僕の調査にとっての本丸はここですね。動物と植物の区別。リンネによれば、鉱物も含め自然物はすべて「成長」し、鉱物と異なって、植物と動物は共に「生き」、動物だけが「感覚」を持つ。「感覚」の有無が、植物と動物を区別する境界なのですね。では、具体的に「感覚」とはどんなもののことなのか? リンネの基準に照らすとミドリムシはどちらに分類されるのか?? とても気になりますが、今回読んだ本の範疇では良く分かりません。リンネの考え方についても、追い追い詳しく調べたいと思います。

19世紀 ― ダーウィンの自然選択説

 世間一般では、「ダーウィン」=「進化論」、という単純な結びつきが広まっている気もしますが、進化(種が変化していくこと)の発想自体はダーウィン以前から既にありました。ダーウィンの功績は自然選択(自然淘汰)の考え方で進化のメカニズムを上手く説明できそうだ、と提案したところです。

 ダーウィンは「ビーグル号」に乗り1831年12月27日にプリマス港を出て、1836年10月2日にファルマス港に戻った。「ビーグル号」による5年にわたる世界一周の航海である。帰国後、種が不変であるという考えに疑問を抱くようになり、1837年7月頃から『進化ノート』を描きはじめた。
――(中略)――
その後、1838年9月にマルサス(Thomas Robert Malthus)の『人口論』を読む(Malthus, 1798)。そこには、
「人口は幾何級数的に、食料は算術級数的に、すなわち、一方は乗数的に、一方は加算的に増加するのである。アメリカでは25年ごとに人口が倍増している」
と書かれていた。ダーウィンはこれにヒントを得て自然選択により種が進化するという仕組みを考え付いたという。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 ダーウィン以前にも種は不変ではなく変化すると唱えた人はいたが、その機構については説得力がなかった。
――(中略)――
 そして、ダーウィンの論理は、
1.個体変異が普遍的に存在し、個体変異は遺伝する。(ダーウィンにとって遺伝の仕組みは謎だったが)
2.生物は生存できるより多くの子孫を生む傾向にある。
3.個体間に生存競争が必然的に生ずる
4.生存競争の結果、有利な変異を持つ個体が生き残り、そうでない個体は取り除かれる。これが自然選択の原理である。
5.自然選択の効果により集団の組成が変化し、種が変化する環境に適応する
ということになる(Schweber, 1977 ; Gould, 2002)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 『種の起原』(初版 1859)にて世に知られたというダーウィンの言説は、学者たちにすぐさま全面的に受け入れられたというわけではなく、いくつかの難点が指摘されていたようです。本書はそのあたりの解説に紙幅が割かれています。

 グレイ(Asa Gray ; Gray, 1860)も『種の起原』の書評をしている。
――(中略)――
ダーウィンの論拠は正しく自然だといい、ダーウィンの説を支持している。
――(中略)――
 最後にグレイは、この説の最大の難点として4つ挙げた。
1.地質学的記録が不完全である。
2.漸次的変化の証拠を欠く。たとえば、人と類人猿との間には形態的にも生理学的にも大きな違いが認められる。どこに共通の祖先がいたのかまったくその証拠がない
3.種間雑種の不稔性。変種間の雑種には稔性があるが、異種間の雑種は不稔。
4.器官の生成と特殊化
 グレイはこのような難点が解決されるまではダーウィンの説は完成されたとはいえないと指摘した。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 なんといっても進化説は遠い過去に起きた出来事についての説明になりますから、決定的な証拠を提示するのが大変難しい言説です。過去に絶滅した生物種があり、現存の生物は生存競争の中を生き抜いてこられた種の末裔であるということは、化石の研究などから類推できそうです。それでも得られる情報はどうしても断片的です。このことは進化説の難点として現在でも変わりないでしょう。

 さらに、「種間の不稔性を説明できていない」ことも難点とされたといいます。当時ダーウィンの自然選択説をサポートする現象として、品種改良の事例が挙げられていたようです。品種改良とはつまり、ある野生の生物の中から人間にとって都合の良い特徴を持った個体たちを選び、交配させて子孫を作らせ続けることで、元の野生種とは全く特徴の異なった家畜や農作物の品種を作り上げる方法です。このように特定の性質を持った個体たちが生き延び続けることで、もとの種とは異なる種が誕生していく。そして同様のことがきっと自然界でも起きたのだろうと類推できるわけです。しかし多くの場合、改良された品種は、もとの野生種との間で交配し、子孫を残すことが出来る(=稔性)と考えられました。他方、自然に見られる生物種は、異なる種どうしで交配して子孫を残すことは、普通ありません(=不稔性)。キリスト教的世界観が背景にあると、これはまるで、神が種を創造したときに種間の交配を禁じて創ったかのようにも思えます。つまり、種の起原を説明するにあたり、不稔性について何か特別な説明が必要に思えるのです。しかしダーウィンの言説では、不稔性が出来上がるメカニズムの説明には不十分である、というのが批判の論旨となっていたようです。

 ダーウィンの『種の起原』は種分化についてほとんど語っていないとよく批判されてきた。ことに、種間雑種の不稔性と生存不能性の進化を説明していないといわれている(Gray, 1860 ; Huxley, 1893)。
 しかし、『種の起原』の「第8章種間雑種」をよく読むと、ダーウィンは種間雑種の不稔性と生存不能性の進化について、ほぼ現代的な理解の域に達していたことがわかる(Presgraves, 2010)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 ダーウィンは次のように述べている。
「神の計画も自然選択も種の境界を維持するためにこのように厄介で一見気まぐれな不稔性障害という規則を作ることはしなかった。種間の不稔性障害は適応的なものではなく、種分化に伴い獲得した違いに付随したものだ。種間雑種の不稔性と生存不能性は種分化を起して分化した2個体が合体した際に混乱が起きた結果である」(Darwin, 1859)

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 ダーウィンは、不稔性の成立については特別な説明は必要なく、自然選択によって、元は同一種だった複数種間の性質がかけ離れて行ったあるとき、偶然に交配可能性が失われるにすぎない、と考えたようですね。

 もう一つ、当時取りざたされた自然選択説の難点は、特殊な器官の新生について説明できない、ということです。確かに眼球と視神経のような、非常に複雑な器官が、自然選択の原理だけで一から作られてくるというのは、にわかに信じがたいものがあります。信じるにしても、ちょっとした変異個体が、微妙な確率の違いで生き残ることの繰り返しだけでは、高度な器官が出来上がるまでとてつもない時間を要しそうです。

 ダーウィンは正直に次のように述べている。
「これまでに経過した時間がとてつもなく長いことを認めることができない人はこの本(『種の起原』)をただちに閉じてしまうだろう」(Darwin, 1859)
と。そして彼の学説には無限とはいわないまでも長い時間が必要であることを認めている。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 一方当時の物理学では、地球は誕生してから現代まで、5億年ほどしか経過していないという説が出ていて、この期間の自然選択では現生の生物の多様性を説明できないと考えられたようです。

 グラスゴー大学のトムソン教授が地球の年齢について物理学的な理論に基づいて議論している(Thomson, 1862)。地球は元々灼熱の状態だった。次第に表面から熱を奪われ、やがて地殻が形成され現在の姿になった。それはちょうど空中にぶら下がっている熱せられた鉄の球が冷えていくのと似ている。ほぼ5億年が経過したという。また、地球にははじまりがあり、地質学がいうような永遠の存在物ではないという。この5億年という時間はダーウィン説には余りに短すぎる。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

現在は、地球は誕生から40億年経過しているといわれます。

 その後、地球の年代については放射性同位元素に基づく測定法が開発され、現在では生物の起原は地球に岩石が形成された時の40億年前まで遡るといわれている(Bell et al., 2015 ; Tashiro et al., 2017)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

しかしだからといって、じゃあ40億年もあれば足りそうですね、となるでしょうか…?

 ダーウィン自身、地球が永い時間を経ていることを前提として自然選択説を展開しつつも、「極端に完成度が高くて複雑な器官」について、その発生起原は自然選択では説明しきれないだろうと考えていたようです。

 ダーウィンがはっきり指摘しているように、眼の起原を自然選択で説明することはできない。自然選択ができることは少なくとも何か機能を持つ器官などの進化を促進することに限られる。したがって、ダーウィンが考えた原型的な眼の起原は非常に稀に起こる純粋に確率的な出来事で、自然選択によるものではない。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 他に、現代の視点から見たときの、ダーウィンの言説の欠点として、遺伝についての学説の未熟さが挙げられることもあるようです。

 フィッシャー(Ronald Fisher)はダーウィンが遺伝に関して混合説(融合説)を受け入れたことが致命的だったと述べている(Fisher, 1930)。それは当時のすべての人たちが議論の余地のない見解と認めていた。
――(中略)――
 ジェンキン(1867)は批判する。自然選択によりすでにある器官を改良することができても、まったく新しい器官を出現させることはできない。「枝変わり」といわれるような稀にしか起きない異常な変異は少数の個体に限られるという。遺伝の仕組みが親の形質が混合して中間の形質が子に伝えられていくとしたら、その特性は世代を経るごとに半分になるので、数世代もたてば消えてしまう。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 当時は遺伝子の概念も今ほど理解されておらず、遺伝の仕組みは「混合説」と呼ばれる考え方が主流だったようです。つまり、父と母の性質が何らかの機序で混ざり合い、融合して、子に引き継がれるという考え方です。現在の理解(≒粒子説)では、人間であれば通常は遺伝情報を2セット持っていて、その一方を子に受け渡すということになっています。子は両親から1セットずつの遺伝情報を受け取って2セット分を揃えるのであって、両親の性質同士を融合するということはありません。(細かく立ち入ると、組み換えとか諸々の作用で、融合っぽいことも起きてはいるのですが…)
 混合説の立場だと、単純に両親の性質が混合して子の性質になると思われるので、あるとき生存に適した性質を備えた変異個体が現れても、通常の個体と交配したらその性質は2倍希釈されて子に伝わり、世代を繰り返すごとにどんどん希釈が進んで、その性質はやがて消え去ってしまいます。混合説では、生存に適した変異個体の出現率がかなり高くないと、自然選択説をサポートできないでしょう。
 現代の理解であれば、変異の入った遺伝情報のセットは、その変異を温存したまま世代を経て継承され得ますし、混合説よりは自然選択説の妥当性を支持できそうです。

20世紀 ― 種概念の乱立と分類の実用性

 いくつかの難点を指摘されつつも、自然選択による進化説が有力な仮説として広まると、分類学の考え方にも影響が出てきます。

 進化説が認められるようになってくると、種の概念が変わる。まず、種は不変なものでなく変化するものとなる。個体変異が遍在するということは、この世にはまったく同じ個体というものはいないということだ。そして、すべての生物個体は祖先を遡ると1つになり、類縁関係があることになる。生命が誕生し、その後、向上進化、分岐進化、安定進化、絶滅を繰り返し、現在に至るのである。このような生物を対象にするのが生物分類学である。ドブジャンスキー(Dobzhansky, 1973)は、
「生物学では何事も進化の光を当てなければ理解することができない」
といったが、そのことは分類学にもあてはまる。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 種が不変であると思われていた時は、生物種たちはまったくデジタルで、種間の境界は明確に引くことができるものだったのだと思います。ある個体を標本として、その個体と同じ形質を持つ個体たちの集団がひとつの種だったでしょう。
 しかしいまや、同一種と思われた個体群にもさまざまな変異があって、自然選択の原理がリアルタイムで働き続けており、じわじわと新種分化が進行することが分ってくると、果たして生物学者が【種】として区切ってきたものは何なのか分からなくなってきます。それは本当に実態のある不連続な個体集団なのか、はたまた連続的に流転する一過性の現象なのか?

 マイヤー(1904-2005)やダーウィンは次のように言います。

「種とは何か?」という問題に分類学者たちはこれまでずっと悩まされ続けてきた。分類技術が洗練されるにつれ、さらに進化理論の出現により、益々混乱が大きくなってきた。その原因は分類学者たちが掲げる種の概念が異なることにある。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 ダーウィンが様々な種の概念を比較し博物学者たちが課題とどのように取り組んでいるか手短に書き記している。
種について語るとき博物学者の心には実に様々な異なる考えがあることを知ると笑えてくる。あるものは類似性がすべてで、由来は無視だという。類似性は何の意味もないし、創造が君臨する考えだというものもいる。あるものは由来が鍵だという。意見の違いはすべて定義できないものを定義しようとすることからくると思う

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 民俗分類学の知見を踏まえると、生物を種として捉える感覚は、人間にとってかなり根底的なものだと思います。種概念の用法には、不変かどうかとか、どこを境界にするかとか、そんな明確な決まりは無いはずです。人間の言語は厳格な規則に従っていなくても通用するということは、言語にまつわる哲学を通して学んできました。定義される以前から通用している概念は、人によって使い方が様々にぶれていますから、改めて明確に定義しようとすると、どうしても異論が出てきてしまうでしょう。
 そうは言っても、健全に学問を発展させていくには、学者間の概念の齟齬はなるべく取り除いておかないと不便です。そんなわけで、生物種概念の定義が提案され出すわけですが、これがなかなかの乱立具合のようです。

 分類学でもっとも基本になるのが種である。その種の定義の数が少なくとも22も出されているという(Mayden, 1997)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 本書によれば、”生物学的”種の概念の誕生は、ポールトンによるそうです。

 ポールトンは
種とは祖先を共有する交配集団であり、形態的類似はその結果である」
と結論している。生物学的種の概念の誕生である(Poulton, 1908, 1938)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 ここに至っては雄蕊の本数がどうとか、歯の形状がどうとかいう形態的な特徴は種の定義に入りこむ余地はありません。種の定義にとって重視されるのは、進化の系統です。

分類の基礎が進化的であることはすでに議論の余地のないところだ。これは、分類は分類されるグループの系統発生に関し解明されたことすべてと整合性がなければならないということだ。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

進化の系統とは、代々交配して子孫を残してきた、連綿と続く祖先ー子孫関係の系列です。「祖先を共有する」とは、ある個体どうしが同じ系統に由来するということでしょう。形態的特徴は、あくまで祖先を共有していたかどうかを推測するためのヒントとして使われることになります。

問題となる2人が似ているから双子だというわけではなく、まったくその逆で、双子だからその2人は似ているのである。まさに同じように、個体が似ているから同じ分類群に属するのではなく、同じ分類群に属しているから個体が似ているのである。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 しかしただ「祖先を共有する」ことだけを種の定義としてしまっては、例えば生物は皆一つの共通祖先から進化して多様化してきたと考えられているのですから、生物みな兄弟、生物はすべて同一種ということになってしまいかねません。これは明らかに種概念として広すぎます。ここで、今後も引き続き交配して次世代を生み出し、系統を未来へつないでいける個体群をグルーピングする、「交配可能性」も重要になります。

 交配可能性で括られた個体群が一つの種とみなされるなら、逆に交配できない個体群同士は異種と言うこともできそうです。

 ドブジャンスキー(Dobzhansky, 1937b)による定義は、
「進化過程の中で、かつて実際に交配していたか、交配可能な集団が2つ以上の集団に分かれ生理学的に交配不能な段階に達したもの

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

ダーウィンは不稔性を「種分化に伴い獲得した違いに付随したもの」と言い、種が分化した副次的な結果として交配が上手くいかなくなるのだと考えていましたが、逆転して、不稔になった段階を以て種分化が十分に成されたと考える向きもあり得るわけですね。

 まだ生理的には交配関係を築くことができる個体同士でも、地理的な理由などにより通常接触することのない場合には、これらももう異種と判断してしまってよいとする種の定義もあるようです。

「種とは実際に交配しているか、それともその能力を持った自然集団のグループで、そのような他のグループからは生殖的に隔離されている」(Mayr, 1942)

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 ところで、種概念の提案者に動物学者が多かったせいか分かりませんが、有名な種概念は大抵「交配」に注目するので、有性生殖を行わない生物には適用できません。ミドリムシを含む多くの微生物で、有性生殖は見つかってませんので、ここまで挙げてきた種概念は、生物普遍的に適用できるものではないのです。より幅広い定義としては次のようなものがあります。

 シムプソンはマイヤーの種の定義は遺伝学的な種の定義だとして、もっと幅広い種の定義が必要だとして、新たに進化的種の定義を提出した。それは、
1つの進化的種は1つの系列(祖先―子孫関係でつながる集団)で、それ自身を単位とした進化的な役割と独自の傾向を持ち、他の系列から独立して進化する
という。進化的種は単独の役割を持った1つの分離した系列と定義される。しかし、系列の連鎖を過去へとたどって行くと、どこまで行ってもこの定義を適用できるところが見つからない。切れ目が見つからないからである。
――(中略)――
分類の目的のために系列をいくつかの断片に区切る必要があることは確かで、これは任意に行われることになる。その際の基準は、現生種に認められる形態的な違いと同じくらいの違いが認められるということである(Simpson, 1942)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 この分類定義は、進化の系統との整合性を図りつつ、形態的な特徴の違いも重く見て、「進化的な役割」や「独自の傾向」といった、研究者に高い考察センスを要求する基準も伴った、総合的な種の定義のしかたですね。

 他方、系統発生の推定結果に厳格に基づき、定められた規則に従って分類定義を決めていこうという、系統分類学(分岐分類学)という分類学も提唱されているようです。

 生物分類の方法を総点検し、最近の急進的な提案を批判する論評が出た(Benton, 2000)。それによると、系統発生に基づく命名法の提案は分岐的系統発生をそのまま分類に翻訳するというものであり、分類群の名称を分岐群の観点から定義しようというものである。この方法は生物学者にいくつかの根本的な変更をもたらす。分類群の名称は当面適当と思われる特定の分岐図に厳格に基づかなければならない
――(中略)――
系統発生的命名法の見解は声高に主張する理論家たちの間で強い支持を受け、分岐群の名称と定義は厳格な原理に基づいた規約の規制を受ける。その原理の概要は PhyloCode に示されている(Cantino & de Queiroz, 2010)。その結果、大混乱を引き起こし収拾がつかなくなる。実際には、系統発生的命名法は悲惨なもので、混乱と不安定さをもたらすだけで放棄すべきである。系統発生は実在するものであり、一方、分類は実用的なものである。この両者の違いをまったく誤解しているからである。新しい提案によると、分類を系統発生と同一と見なすので、系統発生命名法の提唱者たちは最終的に分類そのものを投げ出すことになるだろう。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

 なんだかあまり評判よくないですね、系統分類学。本書では系統分類学の内実についてあまり解説がありませんので(いずれ関連書籍を読むことになるでしょう…)、いまいち批判の論旨がつかみづらいですが、とにかく実用性に欠けることが致命的とされているようでした。このように本書終盤では、生物分類には実用性が重要である旨が強調されています。

 生物分類には2つの機能がある。実用的(普遍的な参照体系)であり、しかも一般的(比較進化生物学では階層構造が重要)であることである。分類が安定していることが不可欠である。分類は情報を蓄積し、有効に活用できるものでなければならない(Benton, 2000)。

出典:相見滿・著『分類と分類学:種は進化する』(2019年 東海大学出版部)

おわりに

 今回は分類学の本ということで、自分の探究にとって有用な情報が多かったです。本当は僕の興味の中心は「動物」や「植物」といった、かなり包括的で高次の分類概念ですが、種概念の議論も、生物分類の単位に関するものですから、是非押さえておきたいところでした。
 本書はページ数も少な目で、コンパクトな内容でしたが、これを取っ掛かりに他の文献も読んでいきたいと思っています。特に民俗分類学にはこれまで注目しておらず、今後調べていくのが楽しみです。

 最後まで読んで頂いた方、ありがとうございます!コメントや、役立ちそうなおすすめの文献・情報の紹介、大歓迎です!YouTube、Twitterもチェック頂けると嬉しいです。それではまた~。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?