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M017. 【生物学・本】生命への考察

 「ミドリムシが動物か植物か考える」中で、読んだ本の内容やそこから学んだことについて書き留めるnoteの【15回目】です。

 なんとついに生物学の本を読みはじめました! 近頃は発行年の古いものから積読消化に臨んでいて、今回は昭和41年に植物学者が著した本です。

山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

なお、生物学分類学進化学博物学生物哲学など、生物を扱う学問は総じて【生物学】ジャンルとして今後note記事を書いていきます。

まず一般的なレビュー

 非常に幅広い話題に触れる生物学の本でした。著者は植物学者らしいので、植物の話が多いかと思いきや、人類史にかなりの文量が割かれています。人類の誕生からその後の進化、人間の生長、脳の働き、さらには「私」とは何かという哲学的な問いなど。これらと比べると文量は少ないですが、細胞生物学、分子生物学、生化学系の内容もあり、生命の起源への言及もあります。そしてもちろん分類学についても説明があり、巻末の附録ページには動物と植物の大まかな分類体系も収載されてました。
 この著者のことをどれくらい信用してよいか、ちょっと判断がつかないですが、1965年当時の生物学の状況を広く概観できる本になっているのではないかと思います。

当時の生物分類とミドリムシの位置

 まずこの本で目に付くのは、植物の範囲が現代の生物学よりも広いこと。カビやキノコといった菌類や、大腸菌や乳酸菌のようなバクテリアまでもが植物の内に含まれていたようです。

 植物のない世界を考えたとき、それは荒涼とした荒れ野であろうか。地表いたるところにそれぞれの植物が所を得て生息している。植物のないに等しいと思われる砂漠にも、顕花植物がみられるし、極北の雪原にも赤い雪と言われるもの、実は藻類が繁殖する。風雪にさいなまれる高山の岩石に地衣がはびこり、深海に紅藻が、そして悪臭をはなつ泥土にもバクテリアが棲み、温泉の熱湯にも硫黄バクテリアが生きている。バクテリアと言えばさらに動植物の体内にまで入りこんで自分の棲家としている。一たび生活の条件にめぐまれれば草原をつくり森林をつくり、海にあっては陸生の十倍もの繁茂をする。淡水、海水をとわずプランクトンとして浮遊し、水底の泥土、岩石にむらがる単細胞的のものも数知れない。
――(中略)――
このように次第に目立たぬものとなり地衣類や藻類や菌類(かび、きのこ)までも植物の中に包括され、さらには顕微鏡ではじめてみられる単細胞の藻類やバクテリアあるいは粘菌のようなものまで植物とされている。草木とは非常に違うがこれは生きものであり、しかも段階的に追って行くと草木につながっているがためであろう。
 顕花植物、シダ類、コケ類を高等植物と言って、それ以下の藻類や菌類(かび)を下等植物と言う。高等植物とは、体の構造が複雑であり進化の進んだものとの意味である。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

 藻類やバクテリアが、「段階的に追って行くと草木につながっている」というのは、もう少し具体的な説明が欲しいところですね。ともかく、そういったもの達は「下等」な植物であり、顕花植物(花をつけるような主に陸上の植物)やシダ・コケは体が複雑で進化の進んだ「高等」な植物であるとのこと。
 ここで「進化の進んだ」と言われるのは、生命の起源からたどった時に、より新しい時代に生まれたタイプの生物、という意味であると思います。そこに「下等」「高等」という言葉が充てられるのは、より新しい時代に生まれた、体制の複雑なタイプの生物ほど秀でているという価値観の表れかと思われます。ここについては、生物について考えるとき何を以て秀でていると考えるべきか、よく考えてみる必要があるように感じますが、今は一旦置いておきましょう。

 生物全体の分類体系については、以下引用のような考え方が説明されていました。

千差万別の生物も似た程度に従って整理して配列すると、種類による性質のちがいも逐次的であって、生物は全体として一つの連続した体系となっていることが分る。まず動物界についてみるのに、その一端は哺乳類を経て人類につながり、他端は海綿とかサンゴ虫などを経て原生動物に至るまで形、性質の変化を連続的にたどることができる。植物にしても顕花植物からシダ類、藻類、菌類と移り変って行ってバクテリアに及び、さらにはヴィールスに移って、ここをターミナルとして有機物、無機物の世界につながって行く。動物にしても植物にしても、かけはなれた型は中間型によって連絡される場合が多い。さらにこの動物界と植物界は、動物では原生動物、植物では変形菌、バクテリア、下等藻類などが入りみだれて共通の源泉になっている。つまり単細胞体の世界を介して動植界は連続したものとして把握される。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

以上の分類観は、図示すると次のようになると思われます。

山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)における生物分類観

無生物(無機物・有機物)から次第に生物へ移り変わっていく連続的な配列があり、生物への入り口は単細胞生物の世界となっています。そこから「進化の進んだ」方向へ連なって行き、動物コースと植物コースの二極に枝分かれしていて、動物コースの最先端の存在は人類、植物コースの最先端の存在は顕花植物となっています。

 単細胞生物(≒微生物)たちは動物界・植物界の接するところで入り乱れる存在とされていたようですね。

 自然界には動物(Animal)、植物(Plant)がそれぞれの環境に適応して生棲している。しかも孤立してはいずに同種のものや異種のものが入りまじって生活している。微生物は従来動物か植物のいずれかに入れて分類されてきた。系統が問題にされるとき(分類学、系統学)は当然そうしなければならないが、これを実際に取扱うとなると、顕微鏡使用、培養法など共通のテクニックを必要とするなどのことがあって近年は微生物(Microorganism)なる第三群として扱う場合も多い。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

 微生物も研究上の取り扱い方における共通点から、動物・植物と肩を並べる第三群として扱われ始めていたそう。しかしあくまで系統重視の分類学においては、微生物も必ず動物か植物かのいずれかの系統の中に配置されるのが尤もであるとされたようです。

 こういった分類観の中、ミドリムシはどんな扱いを受けていたか。本書附録ページには動物界・植物界の大まかな分類体系が収載されていて、なんとミドリムシは両方に載っています。

山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)における
動物界・植物界と、ミドリムシの位置

 動物界はまず原生と後生に大別されていて、要は単細胞のものが原生、多細胞のものが後生ということになるかと思います。原生動物もいろいろ細分化されていて、動物界の系統におけるミドリムシの位置づけは、「植物性鞭毛虫類」です。
 一方、植物界は13門に大別され、緑色の藻類が分類される緑藻類という門があります。その中の「緑虫類」が、植物としてのミドリムシの位置づけです。

 以上が当時の生物学の標準見解であるとすれば、この当時ミドリムシは生物学(分類学)的に、動物でも植物でもある生物だったということになりますね。

分類学の成り立ちについて

 本書では分類学の成り立ちについても言及がありました。今後引き続き詳しく調べていきたいところですので、引いておきましょう。

 多種多様な生物を整理して、似たものをそれぞれのグループに集め、さらにグループ同志を整理して生物界全体を整然と把握しやすいように体系化して行くのが分類学である。そのためにはまず個々の生物を集め、特徴を記載し、お互の差異を明らかにして行く。
――(中略)――
 さていよいよその生物の特質をさぐり出すとなるといろいろな問題がでてくる。まずどのような性質を基準とすべきかと言うことだ。その際思い起されることは、このような学問としての厳密な操作をする前から、私たちは素朴な接し方で動物植物に対している。それは生活的なものであり、一つには実用的な立場から、一つは観照的な立場からである。
 実用的なことはすべての学問の始まりであって、分類学とて例外ではない。例外でないどころか、数多くの動植物の中から役に立つものを選び出すことこそ大切なことであった。しかもそれが精密さが要求されたとき、分類学の学としての出発がはじまった。
――(中略)――
 最初は実際的必要からはじまった分類学も知識が蓄積するに従って、次第に知識自体の魅力とそれを整理する必要から分類基準となる一般的なものをさがすようになる。このようにして分類学は人間の活動が地域的に拡がるにつれて、新材料を加えつつ、次第に包括的な体系をつくって行った。そのためには一つの種類だけでなく種類相互間の関係が追求されるようになる。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

 分類学も出発は実用的な目的を持ったものであったようですね。本文中にこの「実用」について詳しい言及は見つけられませんでした。想像するに、可食・非可食の区別とか、薬効の知識とか、生活用品の材料になりやすいかどうかとか、そういった、人間の生活に役に立つ知識の集成として、分類学は始まったのではないかと思います。
 そして後から、生物を包括的に整理する「一般的なもの」を基準とした分類が求められるようになってきたとのこと。ここにおいて分類基準は、人間と各生物の関わり方から、生物の種類相互間の関係へとシフトしていったようです。では種類相互間の関係とはどんなものかというと、本書では、血縁関係こそそれであると説明されます。

 分類とは生物界の種類間の異同をはっきりさせて、それを整理して行き、相互の関係を合理的にみつけて体系をつくることである。この際できた体系によって人為分類と自然分類の違いができてくる。自然分類とは出来上がった体系が種類の自然の血縁関係を追ったものであり、人為分類とは血縁関係には関係なく、ともかく一応明快な整理がつけばよい。リンネの分類法は雄ずいの数などを基準にした分類法でともかく分類整理はされているが、さりとて相互の血縁関係などはその場合示されていないので人為分類の例として挙げられるのが通例であるが、由来リンネ当時は大部分が顕花植物であって隠花植物は片隅におかれた一つまみのものであった。顕花植物内であれば血縁関係を反映さす自然分類法と言っても、大体が似ている狭い範囲内のことでもあり、さほど深い興味を起さなかったのであろう。ところが十九世紀になって、熱帯アジア、南北アメリカ、アフリカなどから資料が集まり、他方隠花植物についての知識が下等なものに至るまで大巾に豊富になる。動植物とも文字通り多種多様となる。しかもその後半には進化論もでて、生物相互の系統関係が意識にのぼってくるに従い事情は違ってきて、動植物界を広く且つ深く見通して、共通の祖先から現在のものが生まれ出てきた道筋を探り、現在種を互いの血縁関係の中に位置づけたい気持になる。自然の相互関係とは血縁関係のことであり、自然分類法は系統学に外ならぬと言うことになる。そして分類学の学的使命は動植物の系統を正すことであるとされ、いわゆる種類の鑑別と言う実際面は鑑別学として軽んじられるに至った。
――(中略)――
今世紀初期のメンデル学派の遺伝学者ベートソンは、進化論は遺伝学に貢献するより、分類学に貢献したと言う程であった。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

 進化の系統関係に基づいた分類を目指すにあたり、実際には生物のどういった特徴を以て系統を推定したかと言うと、それは生物ごとにケースバイケースで重視される諸々の特徴だったようです。

 生物の分類と言うことは人為的に基準を立てて、それに従って分けて行くことではない。上述のように自然における生物界の成立の順序に従って、生物の相互関係をわからせることである。
 そのためにはまず体制 Organization(外形、構造)を構造上の簡単→複雑の順にながめると同時に、とくに動物ではそれぞれ個体発生を調べることによってその種の体制の成立のしかたが比べられるので、相互の関係が明らかにされる。このとき相同(機能や出来上がった様子が互いに違っていても発生学的に同質の器官など)、相似(機能や外形が似ていても発生学的に異質の器官など)の問題が出てきて、相同のもの同志を重視する。外部の影響をうけにくい性質を選ぶ。このため植物では花の構造が重視されるし、隠花植物では生殖法が重視される
 体制が極めて簡単なものは(たとえばバクテリア)体制では区別しにくいので生理的性質が分類の基準として取上げられる。細かな分類は生物のグループが違うに従って基準として取上げる性質が違ってくる。分類する基準として価値があるか否かは研究者の経験にたより、また分類された結果によって判定する。
 分類の際疑問になることは取上げるのはいつも部分的の性質であって全体ではない。部分の判定が全体としての個体の判定に使いうるかと言うことに対しては(その部分だけが問題になりうるのであって、それ以外の他の多くの部分はそれと無関係なのではないか)部分は全体あっての部分であって、部分を通して全体を判定する以外に全体を判定する方法がないというのがその答えである。部分にも部分だけで終わってしまう部分と、全体の本質につながる部分がある。分類する際に扱う部分はその全体の本質につながるような部分である。経験と検討によって、そのような重大な部分を末梢的な部分と識別できるのがすぐれた研究者である。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

 この説明だけ見ると、生物群ごとに随分と行き当たりばったりに注目する特徴が選ばれているような印象も受けます。しかし著者によればそれぞれが「全体の本質につながるような部分」が厳選されたもので、この厳選が研究者の腕の見せ所であるようですね。

生物分類の単位――種問題への言及

 生物を分類する際、というか、生物を扱うときほぼ全般、【種】という概念に触れざるを得ません。
「この生物とあの生物は、同じ種なのか?」
「これと似たような生物は何種くらいいるのですか?」
生物と対峙するときの素朴な感覚にも見られる【種】の概念ですが、これの定義を巡ってはいろいろと議論があることが知られています。

 生物を扱うときには、”種“が基本になる。種は生物の種類を扱うときの単位とも言うべきものだ。ところが種を厳密に定義するとなるとなかなかきっぱりとしたことが言えない。それは一つには種類の違いと言うものが連続的であること、また生物群が違うに従って種なる単位の巾が違って扱われることなどにもよろう。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

 単純な例を挙げれば、例えば形や生育の特徴がほとんど同じで花の色だけが違う複数の植物があったときに、それらを花の色ごとに別々の種と考えるかどうか。先に触れたように、分類では血縁関係が重視されるのだから、交配の可/不可を以て種の区別をすればよいという意見もあります。しかし微生物なんかは、交配しない生物も多数いる。ひとりでに分裂して増えていき、あるとき突然変異が積み重なって、少しだけ特徴の違う生物が現れたりして多様になっていくわけですが、どこまでが同種でどこからが異種なのか?

 種とは他の個体群から区別できる個体群であって、お互の形質(キャラクター)の間が一応断絶されていて、交配が不可能な場合も多い。つまり形質、生殖ともに不連続的に隔離している個体群と言えよう。
 さて問題は不連続と言い隔離と言うがその度合が判定に難しい。つまりどの程度違ったら種とするかと言うことであるが、これに一般性を求めることはできない。生物群によっても違うし、また同じ生物群でも一般則は立てられず、判定する人の熟達した経験によって、ケース・バイ・ケースで決めて行くほかはないのが実情である。これは生物の性質が多面的であり、一つの性質についての判定と他の性質についての区別とが一致せず入り乱れてくるなども一つの理由であるし、また生物には変異性があって、たとえ一つの種と言っても、種内でもかなりの巾で性質が違っていて、その巾が大きいときにはそれをいくつかに分るべきか否かと言ったようなこと、他種あるいは変種との境界のぼやけていること(連続的に違っていて)などにもよる。研究者の見解によって決められて行くので、頼りなくも思われようが、実際には経験の豊かさと多面的な検討によって客観性のある判定がされて行く。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

 思うに生物の種を、「生物の種類を扱うときの単位」と表現するのは言い得て妙で、分類学という専門分野においては、グラムとか、メートルとか、そういう測量の単位と類似に考えて良い気がします。どのくらいの重さを1 gとするか、というのは、何か自然の摂理に基づいたものと言うよりは、測量の利便性を考えた取り決めによるものだったでしょう。生物の種も、分類における利便性を考慮して取り決めて行けば良く、ただし生物群ごとに便利な単位の幅が多様なので、生物全てに一貫した単位を打ち立てるのは難しいようです。

 種問題に言及する文献は多いはずで、今後もいくつか読むことになるので、この話題はまたそのときにも考えてみることにします。

生命の「基本」と「本質」の峻別

 哲学的な議論にも触れている本書ですが、生命の本質についての論考で、少し興味深い箇所があったので引いておきます。

 普通生命を論じるときに、生命の基本的なものを求めようとして、バクテリアとかアメーバーとか、あるときにはヴィールスのような始原的な初歩的な生物の特質をもって、無生物との違いとみなし、しかも高等な生物体を造っている細胞もその性質をもっているところから、これを生物の基本的なものと考える。ここまでは正しいが、そこで議論が飛躍して「基本」即「本質」と錯覚してしまう。基本的なものはあくまで基本であって、基本以外のものではない。高度に構成された結果生まれ出るものは基本的なものとは性質が違うからである。
 下等な生物にあっては、この無生物の違いそのもの、この基本的なものそのものがそのままその生命体の本質である。ところが高度になるに従ってその生命体を構成する基本的なものと、その生命体が独自の性質として顕示せるもの、つまりその生命体の本質とが違ってくる。この点を見損なうと高度の生命体の本質を把握する際に、ただいたずらに生物学の無力さをかこつということになる。基本的要素の性質だけからは、構成物の特性――それは基本的要素にはない――を理解することができぬということでもあろう。
 プリミチブなものは出発点ではあっても、それが発展して行くものの性質を内蔵もしないし予告もしない。受精卵の中に未来の成体はどこにもかくれてはいない。受精卵が発展して行く過程で次の段階を徐々に新しく生み出していくように、高等な生命体は下等な生命体から生まれ出はしたものの、生れ出たからには別の本質をもつに至る。それぞれの発展の段階にそれぞれの特性の生物体が現われ、独自の生命現象が起こる。それがその段階での生命の本質である。従って生命全体としてはすこぶる多面的なことになる。基本的要素的なものだけがいつの場合にも不変の本質だと誤認していたのでは生命観は細ってしまう。豊じゅんな容姿に直面して、その本質は中の骸骨だと主張し、せいぜい肉塊が本質だと言い張るに似ていよう。

出典:山根銀五郎・著『生命への考察』(1965年 明玄書房)

 例えば、高等とされる動物・植物から見渡して、カビ、酵母、バクテリア、ウイルス、有機高分子、無機物と見ていくと、どうも生物と無生物の境は、細胞から成っているかどうかというところにありそうだ、と考えられたとする。そんなに的外れな思考でも無さそうですよね。
 この「細胞から成る」というのは、著者によれば、生命の【基本】に当たるわけですね。これはあくまで基本であって、生命の【本質】ではない。
 例えば研究に幅広く使用されるHeLa細胞というのがあります。

HeLa細胞(ヒーラさいぼう)は、ヒト由来の最初の細胞株。不死化した細胞株として世界各地で培養され、in vitroでの細胞を用いる試験や研究に幅広く用いられている。1951年に子宮頸癌で亡くなった30代アフリカ系アメリカ人女性ヘンリエッタ・ラックスの腫瘍病変から分離され、株化された。細胞の採取は本人に無断であったが、その没後に原患者氏名(Henrietta Leanne Lacks)から命名された。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
「HeLa細胞」のページ
https://ja.wikipedia.org/wiki/HeLa%E7%B4%B0%E8%83%9E
(2022年1月23日閲覧)

 多細胞生物というのは複数の細胞が秩序だって活動することで成り立っていますから、各々の細胞の増殖や死が巧妙に制御されています。突然その制御から外れて、無暗に増殖しまくり、死のうともしない細胞の集団が、いわゆる腫瘍となって、癌の原因になったりします。さてHeLa細胞は、ヘンリエッタさんの体内でそんな風に腫瘍化した細胞に由来するものだそうで、適切に植え継げば永遠に増殖していき、現に今では世界中の研究所で"実験生物"扱いです。ここで、「細胞から成る」ことが生命の本質と考えると、ヘンリエッタさんは1951年に亡くなったとされるのに、今も世界中で生かされているというパラドキシカルな考えが浮かんできます。
 著者によれば、「細胞から成る」ことは、あくまで生命が成立する基本的な条件であって、それさえ維持されていればそれを以て生命が存続しているというような、生命の本質では無いと考えられるわけですね。それぞれの生物に合わせた多様な生命の本質があって、人間には人間の、何を以て生きているとするか、という本質が、基本条件とは別にあるはずだというのが、著者の言いたいことかと思います。

 そう考えると、人間というのは、何というか、各細胞、各内臓、各組織が秩序だって構成された個体であって、誕生からずっと生長しながらも維持され続けているその「構成」こそが、人間の生命の本質なのかな、という気がします。一方、単細胞生物のミドリムシに目を向けると、ミドリムシの個体は1個の細胞なわけですが、増殖するときにはこれが二つに分裂します。一応、分裂した二つの細胞に親と子のような区別は無いということになっています(僕はここは覆しうると思っているのですが…)。では、分裂前の個体は、分裂によって消え、新しい2個体に存在を取って代わられ、”死んでしまった”のでしょうか? ミドリムシとは、増殖するたびに死ぬ生物なのか? つまり、人間において生命の本質と思われる「個体の構成」が、ミドリムシの生命の本質としては、そのまま適用しがたい気がしてくるのです。こんな風に、著者の考える「生命の本質」というのは、各生物ごとに多様であって、基本的な共通項から導かれるようなものでは無いということなのでしょう。

おわりに

 具体的にミドリムシを分類している文献を扱ったのは今回が初めてでしたね。今回は、「ミドリムシは動物でも植物でもある」の考え方でした。今後、いろいろな文献を見ていく中で、いろいろなミドリムシの分類のされ方に出会うでしょうから、それらをまとめて一覧にするnote記事も用意しようと思ってます。図鑑のように、単に分類のされ方だけを読み取りたい文献を読んだ時には、個別の記事は作らずに、一覧記事に内容を足していこうと思います。

 最後まで読んで頂いた方、ありがとうございます!コメントや、役立ちそうなおすすめの文献・情報の紹介、大歓迎です!YouTube、Twitterもチェック頂けると嬉しいです。それではまた~。


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