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無くしてもいない自分を取り戻す春


「あなたと働くのは楽しい」と言ってくれた人へ。もしも私が働くのをやめたら、あなたにとっての私はどんな存在になりますか。

「あなたの顔が好きだ」と褒めてくれた人へ。数十年後も私の外見を愛してくれますか。

「夢があるあなたと居たい」と語った人へ。大きな夢も特にない今の私はどうですか。

「あなたの書く文が好きだ」と言ってくれた人へ。もしも私が書くのをやめたら離れていきますか。

「君には才能がある」と褒めてくれた人へ。それが才能として価値を持ち続けるのはいつまでですか。

「あなたの声は素敵だ」と愛してくれる人へ。この声が枯れても同じでしょうか。

「あなたのことを知りたい」と言った人へ。あなたが私のことを知り尽くしてしまう日が来なければいいのに。私が飽きのこない人間だったらよかったのに。


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 誰かの何かに見合う自分、なんらかの目的を達成するために必要な自分、その場にいるのにちょうど良い存在としての自分、そういう自分を生きすぎて、私のための自分でいるのが不得意だ。何となくのルーティン、シャンプーは同じものをずっと詰め替えて使い、仕事のワイシャツが無くなりそうなタイミングで洗濯をし、ご飯を多めに炊いて冷凍し、着心地の良いパーカーとパンプスを愛し、スーパーで同じ野菜や牛乳を買う。ゴミはまとめて指定日に出し、仕事は手を抜かずにやり遂げ、困っている人には声をかけ、先輩にも後輩にも真面目ちゃんにもお調子者にもボケにもツッコミにもなる。たぶん、生きるってのは頑張るってこと、生きるってのは責任をとるってこと、生きるってのは自分の足で立つこと、そういう進み方をしてきた。それで良いはずだった。

 でも、ほんとうに?

 どんなに歩いても走っても突き進んでも、私じゃ叶えられないことがありすぎる。だって、ニコニコするのが上手で人からちゃんと愛されている人がすぐ隣にいる。私が選ばれない明確な理由がきっとそこにあって、それが人の「魅力」と呼ばれるものなのだと気がついている。

「良いお嫁さんになれそう」いつかの誰かの言葉は私の誇りであり自分の大嫌いな部分。時間をかけてちょうど良い存在になる努力ができる。頑張れば、相手の思うように動くことができる。手頃で、器用で、賢い。打算的だ。でもそれって、私の「良いところ」なの?


 自分のための自分であるってどういうことなのだろう。「無駄な買い物」「絶対必要ではないけれどあると楽しいだろうなと思う物を手に入れる」「衝動的な遊び」のような、余白をたのしむ力が無い。私は私の余白を知らない。知りたい。自分のことを恥ずかしがらずにもっと知りたい。だって私のための私でしょ?

 実家にあった小学生のときにもらった色紙には、「いつも百点ですごいね」「作文が上手だね」「頭がよくていいなあ」という言葉がたくさん並んでいたけれど、その中でひときわキラキラしていたのは「来年はもっと仲良くしたいなあ」だった。小学生の時、私は既に知っていた。寄せ書きや手紙には、「足がはやいね」「頭が良いね」「声が大きいね」と書くよりも「いつも優しくしてくれてありがとう」「保健委員の仕事いつも頑張っててすごいね」「また一緒に一輪車しようね」と書く方が友達が喜んでくれるってこと。馬鹿みたい。そういうところも打算的で薄っぺらい。でも本心で書いていた。昔も今も、いつも打算を知った上での本心だから偽善に思えるのかもしれない。よく分かんない。


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 こんなふうにうじうじと考えることもたくさんあるけれど。上手くいくことばかりの毎日ではないけれど。自分の物足りなさやうまく立ち回れない不器用さに辟易してばかりだけど。そんな日々でもまあまあ楽しく生きられる、そういう自分はけっこう好きだ。

 新年度になった。ご自愛しようご自愛しようと唱え続けても忘れてしまう毎日だから、せめて節目くらいは大事にしてあげよう。今日はシャンパンピンクのアイシャドウを塗って、電車に揺られながら桐野夏生を読んで、お店でコーヒー豆を挽いてもらった。私にとってじゅうぶん過ぎるご自愛。帰り道、春のぬるく冷たい夜を歩くと少しだけ自分が戻ってくる、2021年4月1日。




ゆっくりしていってね