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短編小説『天使の詩』

 夢のなかで天使に逢ってからというもの、私は少しだけ変わったような気がする。別に聖者になったわけではない。空から降ってくる雨の一粒一粒にあなたを見出せるようになったのだ。あなたの笑顔には一点の曇りもなく、目が合えばこう囁きかけてくる。
 いつも傍にいるよ。
 あなたが降ると、周りのひとたちは傘を差すか、家に籠もるかのどちらかを選ぶが、私は空に向かって語りかける。時に雨粒に宿るあなたの表情に憂いを見つけると、やり場のない気持ちでいっぱいになる。川沿いの散歩を終えて家路につくと、引き出しのなかから思い出のペンダントを見つけ、涙を落とす。大抵のものは処分したと思っていたのに、誕生日やクリスマスにもらったプレゼントだけは残してある。だからと言って強い未練から、 あなたが見えるようになったのではない。私は天使しか持っていない、天使の眼を譲り受けたのだと信じている。あなたはまだ降っているだろうか。窓から外を見やった私は目を丸くした。
 雪だ。
 あなたが白く美しく凝固されている。

 憶えているだろうか。私たちがまだ高校生だった頃、一本の傘を共にして歩く途中、急に雨が雪に変わった時のことを。珍しいね、と笑い合ってお互い空を見上げていた。傘の上にぼたぼたと落ちてきた大粒の雪。あのとき語り合ったのは雪の前世について。きっと優しいひとが誰かに寄り添うために生まれ変わったに違いない、そんなことを話していたような気がする。もちろん積雪量の多い地域ではそんな綺麗言など言っていられないかもしれない。仙台の空は気分屋だ。雪が見たいと願ってもそう簡単に見られるものではない。一方で密かに私は思っていた。あなたほど優しいひとなら、いつか雪に生まれ変わるのではないかって。しかし、私たちはある日を境に離れ離れになってしまった。

 あれから十二年のときが経った。 私は様々な職を転々とし、結局無職に陥った。人間関係を築くのが人一倍苦手だったからだ。憧れていた東京での一人暮らしも金欠により断念し、仙台の実家に戻った。周りの友人はどんどん結婚してゆき、私は売れ残ったお菓子のようにひとりぼっちになった。そんな私を両親はいつも心配し、時には五月蠅いくらいに干渉してきた。私はあまりひとに逢わない時間帯を見計らって、家の近くの川沿いや、公園などを散歩し、行く先々にノー トを持参しては詩を書いてきた。夢を温めてきたわけではない。ただ詩を書くことで自分なりの呼吸ができたし、自らの生を確認することができたので、創作は何よりの生き甲斐だった。技術なんてどうでもよかった。どこかのプロのように高尚な詩が書けるようになりたいとも思わなかったし、どちらかと言えば殴り書きに近いときも多かった。だから詩のノートはいつも鍵付きの引き出しのなかに封印していた。羞恥心が邪魔をして、誰にも 見せられないノートだが、私にとってはれっきとした生きた証である。

 いまは空から舞い降りてくるあなたの美しさを詩に書き留めようと必死になっている。 手が止まっても声は届くに違いないと思って、空に向かってあなたの名前を連呼する。私の顔は真っ白くなり、やがて呼吸が苦しくなる。それでも諦めずに呼び続けていると、頭上に降り積もった雪が段々溶けて水と化してゆく。やがて水は躰中に流れ、私と一体化する。あなたが傍にいる限り、孤独なんて存在しないのだと私は喜びに震える。 ベランダから部屋のなかに戻り、窓を閉めるとストーブの温かい空気が充満する。まだ寝る時間ではないが、私はさなぎのように布団にくるまる。枕元には一枚のポートレート。 結晶化されたあなたは窓の外でひらひらと舞っている。世界中の慈愛をすべて閉じ込めたかのような白い塊。いくぶん躰は冷えてきたけど心は温かい。開けっ放しだった部屋のドアを閉めようとするとリビングから光が漏れているのがわかった。
「あら、帰ってきてたのね。寒いからお部屋あったかくしてなさいね」
「うん、お母さんも」
 微かにテレビの音が聞こえてくる。耳を澄ますと女性アナウンサーが淡々とした口調で ニュースの内容を伝えている。私は何となく気になって廊下に出る。
「県内全域、大雪警報です。明日朝にかけ警戒を——」
 そこまで聞いた私は部屋に戻った。再びベッドに仰向けになる。あなたが、あなたがたくさん降ってくる。とてつもない喜びがこころの奥底から湧き上がってきて、私を支配する。いま外に出て大地の上で寝ようものなら間違いなく凍死してしまうだろう。でもそれはあなたと私の心中なのだと思う。もしも死後の世界で一緒になれる確証があるならば、当たり前のように実行するだろう。 あなたは雨であり、雪である。死者たちのなかから私に逢うために復活し、地上に舞い降りてきた救世主である。実際のところ夢で天使と逢うまでは私にはそれがわからなかっ た。イエス・キリストの亡骸を捜すマグダラのマリアのように。

 ストーブの音で、あなたの声が遮断されている。せめて姿だけでも見ようとカーテンを全開にすると、凄まじい光景が広がっていた。あなたが家々や、車や、道路をすべて真っ白に染めている。私は彼らに羨望の眼差しを向ける。彼らがあなたに抱き締められ、あなたと思い出を共有しているなら、きっと甘美な想いをしているに違いない。 暫く窓の外を眺めていた私は天井へと視線を移す。ぼんやりと蛍光灯を眺めていると、 長く伸びた紐が大きく揺れ始めた。
「地震!」 母の声が聞こえてきた。
 私は咄嗟に布団を頭から被り、全身を震わせる。どれくらい揺れているかすらわからない。怖い。怖くて堪らない。こんなとき一緒にいて欲しいあなたは窓の外。震度三はあるだろうか。私は掌を合わせ神様に祈る。カラーボックス の上に乗せた小物類がガタガタと音を立てている。私は布団の隙間から枕元のポートレー トを見つめる。 怖いよ……助けて……あなたに私の声は届いているだろうか。収まらない振動のなか、何かがフラッシュバックした。そこまで激しい地震ではないのかもしれないのに、あの日の記憶が蘇る。神様は時々私たちに試練を与えるのだと言う。もし、それが本当のことだとしたら、神様は残酷な面を併せ持っているのだろう。

 赤子、若者、中年、老人、動物、植物など様々な命が奪われたあの日。 私は留守番を頼まれて愛犬のパンと一緒にソファで横になっていた。みしっと音が鳴った次の瞬間、まるで宇宙全体が悲鳴をあげているかのように、叫んでは揺れ、叫んでは揺れ、あらゆる崩壊が繰り広げられた。やがてブレーカーが落ちてあらゆる光が消え、家中が漆黒の闇に包まれた。忘れたいけれど、忘れられない恐ろしい記憶。そのなかに抜け落ちている部分がある。無意識に頭から消去しようとしているのか、それとも記憶喪失になっているのかはわからない。それらがあなたに関わる事柄であるということは何となく憶えている。

 ようやく揺れが収まった。ふとドアの方に気配を感じ、目をやると母が不安そうな顔で立っていた。
「大丈夫だった? 震度三だったみたいよ。大雪と地震がセットでくるなんて何だかちょっと怖いね」そう言って母は窓の方を見る。続けざまに「カーテン閉めないの?」と訊いてきたので私は「閉めない」と呟いた。
 どうして? が予想通りやってくる。私は何も答えられなかった。母に言ってもわからないだろうから、俯いたまま無言を貫いた。姿を大きくしたあなたを横目で見て、空は揺れなかったよね、と問い掛ける。
「ねえ、アカリ。あのひとのことまだ引きずってるでしょ」
 突然の言葉に私のなかでときが止まった。よく見ると母の顔は少し赤みを帯びている。寝る前にブランデーを飲む習慣がある母はもう既に酔っているのだろう。どおりでいつもなら言わないことを悠揚な調子で言ってくるわけだ。
「あのひとって?」
「あのひとって言ったらあのひとよ。ほら、枕元にある写真の」
「ごめん、ちょっとひとりになりたい」
「いいけどカーテンぐらい閉めなさいね。もう夜なんだし外から見たらおかしいでしょ」
 母は気怠そうな表情で部屋を後にした。 私はベッドから起き上がり、少しだけ窓を開ける。隙間から両手を差し出して、そっとあなたを受け止める。私はあなたが自分の体温によって溶けてゆくまで、じっと見守ることにした。溶けることは死ではない。ましてや別れでもない。忘却だけが死なのだ。シャーベット状になったあなたは私の手のなかで生を謳歌している。呼吸をしている。手が冷たくなってきたが、私は決してあなたを離さない。いよいよあなたは水となり、私の手の平から零れ落ちてゆく。絨毯に小さな水溜まりができあがるが、四つん這いになってあなたが浸透した場所をぺたぺたと触わる。流石に舐めるのは気が引けたのでやめたが、舌は私の意識を無視して確かに動こうとしていた。
 もう一度手の平にあなたを受け止めようとしたそのとき、小さな白い鳥が飛んできて窓 際に留まった。最初は雪の塊かと思い、目を凝らしてみたが確かにそれは鳥だった。窓際に留まったインコのようなその鳥は、何処となく夢に見た天使と似たような神々しい雰囲気を放っていた。
 私が「もしかしてあなたは」と言うと鳥は「モシカシテアナタハ」とオウム返しをしてきた。可笑しくなってきた私は母に聞こえないよう小声で囁く。「あの日、夢に出てきた天使でしょ」 「アノヒユメニデテキタテンシデショ」 「そうじゃなくって」 「ソウジャナクッテ」 「私も天使になって大空を自由に羽ばたきたい」 「ワタシモテンシニナッテオオゾラヲジユウニハバタキタイ」
 あはは、と笑ったものの、私は複雑な気分になった。これではまるであなたとふざけ合 っているみたいで。よく見ると鳥はとても純粋な目をしている。そこでふと思いついた。 この鳥に詩の朗読ができるだろうか、と。私はあなた以外の誰かに自分の詩を詠んでもらうことを待ち望んでいた。ましてや相手は鳥だ。羞恥心など全くもって感じない。私はテーブルの引き出しから一冊のノートを取り出し、ゆっくりと詩を詠み上げる。鳥は微動だにせずこちらを見つめていた。

 あなたは雨傘を忘れたひとびとに寄り添い
 しずけさと共に躰を濡らす
 いつかあなたは雪となり
 すべての慈愛を閉じ込めて
 天からメロディを奏で続ける
 いにしえの天使のように
 終焉のときまで、いつまでも

 鳥は見事に一字一句間違わずにオウム返しをした。私は驚愕したと同時に歓喜に包まれ拍手した。すると鳥は小さな羽を広げ、使命を果たしたかのように白い空へと飛び立っていった。卓越した画家がいたならば、さっきまでの状況をどのような絵画として描くのだろう。私はまたいつでも鳥が入ってこれるよう窓を開けたままにしておいた。さっきよりもあなたは強い風にさらされて強く吹きつけられている。あなたが時々窓の隙間から部屋のなかに入ってくる度に私は微笑を浮かべる。たとえ部屋がすべて白で覆われたとしても私はそれで幸せなのだ。
 それにしても大雪といい、地震といい、鳥といい、不思議な夜だ。まるですべてがあな たの悪戯のようで、胸が高鳴っては止まらない。次は何が起こるのだろう。好奇心が高まってきた私は遠くの空に視線を泳がせる。星は見えるだろうか。雪雲の晴れ間に目を凝らすが、視界があなたで埋め尽くされて何も見えない。 不意に玄関のドアが閉まる音が聞こえた。同時に駆け寄ってゆく足音。耳を澄ますと父 の声が聞こえてくる。
「ただいま」
「おかえりなさい。雪ひどかったでしょ。地震もあったし」
「もう散々だね。アカリは?」
「部屋にいるよ」
「おい、アカリー。入るよ」
 どたどたと廊下を歩いてくる音と同時に父の声が近づいてくる。
「ちょっと待って」
 私は急いで窓とカーテンを閉めてあなたを隠し、ポートレートを奥にしまい込んだ。父は雪で白髪を更に増やしたような間抜けな出で立ちで、半開きのドアから顔を覗かせた。手にはバスタオルを持っている。
「おかえり。お父さんどうしたの?」
「アカリの詩は読んだことがないけどいつも一生懸命に書いてるってお母さんから聞いてね、参考になるかと思って宮沢賢治の詩集を会社のひとからもらってきたんだよ。やっぱり賢治の詩はいいよ。悲しみをテーマにして書かれたものが多いから感情に訴えかけてくる。ほら、読んでみて」
 そう言って父は『春と修羅』と書かれてある詩集を手渡してきた。この寒さのなか持ち帰ってきたわりには本から温もりが伝わってくる。
「私はリルケしか読まないのに」
「まあ、そう言わずに。たまには日本人の詩も読んだほうがいいよ」
「わかった。ありがとう」
 父はバスタオルを頭にぐしゃぐしゃと擦りつけながら部屋を去っていった。

 私は渡された『春と修羅』をぱらぱらと捲る。長丁場になりそうだったので、一度、本を閉じようとしたとき、あるページで手が止まった。タイトルは『無声慟哭』だった。文字を追ってみると、この詩は誰かとの死別をあらわしているような気がした。感情移入しそうになった私は頭を左右に強く振り、本から目を逸らす。父はどうしてこんな悲しみに満ちた詩集を私に読ませたかったのだろう。夢で天使と逢う前、私は暗闇を宿したような目をしていたという。その後あなたが生きていることがわかってから、悲しみという名の水は濾過された泥水のようにずいぶんと飲みやすくなった。むしろいつも飲んでいたいような不思議な味だった。しかし、いくらあなたが傍で降っていても、この『無声慟哭』は読めない。 その理由を父はわかっているのか。それとも忘れているのだろうか。父に悪意はないとわかっていても、勘ぐってしまうのは私が神経質になっているせいなのか。
 ふと目についた机上の水晶クラスター。軽く握り締めてみると、身も心も浄化されていくようで心地よかった。
 詩が書けないとき、心が苦しくなったとき、いつもこうしている。あなたにするように、私は時々水晶にも話しかける。彼はヒマラヤで育ち、人間の手に渡った純粋な魂なので、適当な扱いをしていてはすぐに見透かされる。その点、人間やペットと同じなのである。台所からコップや皿を洗う音が聞こえてくる。あいにく今日は手伝えそうにない。かちゃかちゃとした音に混じって両親の会話が聞こえてきた。意識して小声で話しているようだが、静寂な部屋ではすべて筒抜けだった。
 ——アカリ、元気ないね。
 ——うん。でもとっておきの詩集を渡したから大丈夫だと思うよ。
 ——大丈夫ってなにが。
 ——あれを読めばもっといい詩が書けるようになって元気も出るって。  
 ——そんなもんかしら。あたしには分からない。あの子ほとんど部屋に引き籠もってば かりでどうなっちゃうのかしら。もういい年だというのに働きもしないで。
 ——もっと理解してやれよ、お前も。
 ——そうしてるつもりよ。お父さんも明日雪掻きあるんだし早く寝たら。
 ——そうだな。
 会話はそこで途切れた。私はいたたまれない気持ちになって、もう一度水晶クラスター を握り締めた。さっきよりも強く、救いを求めるかのように。 私は人間が雨や雪に生まれ変わることを信じている。輪廻転生についてそこまで詳しくは知らないのだが、前世も来世も信じている。そこで熟考する。この水晶の前世は何だったのだろうか、と。
 静けさが身に染みてこころが痛い。鳥が再び来訪しないかと待っていると、頭のなかは白い紙となり、新たなる詩が書かれてゆく。私はいつもこうやって呼吸をしてゆく。思い起こせば自作の詩をひとに読んでもらったのは、あなただけだった。当時はよく言っていたものだ。
「私の本当のこころは詩によってでしか表せない」と。
 あなたは私の詩を好き好んでくれた。いまでも私は空に向かって詩の朗読をする。誰もいない夜の公園や、ベランダの片隅で、息をするように朗々と。知人に詩のことを話すと、「趣味ばかりに走るのもいいけど、仕事とか結婚とかもしっかり考えたほうがいいと思う」と一蹴された。わかっている。人生には決められたレールが敷かれていることなど厭ほどわかっている。けれど、少なくとも私にとって、 避けられない悲しみや憂いを乗り越えてゆくには、詩が必要不可欠だった。詩人は「なる」ものじゃない、「ならざるを得ない」ものだということを、私は知っている。

 父からもらった宮沢賢治の詩集に目を向けると、再び『無声慟哭』の意味が気になり出した。言葉だけを見て取ると、声を出さずに慟哭するなんて絶対に有り得ないと思った。 いままで悲しい出来事に遭遇した時、私はいつも声をあげて泣いてきた。それが普通の感覚ではないだろうか。わからない。宮沢賢治の詩情がわからない。 私はインターネットで調べてみようと、パソコンの電源を入れた。さっそく『無声慟哭』 と検索すると、様々なサイトがヒットする。要約すると、この詩は宮沢賢治が妹トシを失ったときに生まれたものだという。賢治とトシは法華経の信仰によって固く結ばれていたらしい。そんなかけがえのない信仰の道づれが、賢治をひとり残して死んでいってしまったようだ。しかし、兄である賢治は修行足らずの修羅の身であったがために、妹トシを強いこころで見送ることができなかった。修羅とは、詩集の題名にもなった言葉だが、仏教で言う六道のひとつ、煩悩の世界をいう。 いわば賢治の境涯が中途半端だったので、トシの死を厳粛に受け止めることができなくて 嘆いたようだ。しかし煩悩にまみれた賢治を、死につつあるトシは優しく受け止めてくれる。それは、トシの方が一歩先に煩悩を脱し、清浄な世界へと旅立っていこうとしている からだった。いわば仏教でいう極楽浄土の世界である。トシは春、賢治は修羅。死に際にトシはこう思ったらしい。
「兄さんがそんな不安な顔つきをしていると、私までが不安にな って、無事に極楽へ旅立つことができません」
 最後にトシが見せる表情の背後には、 そんなこころの叫びが込められていたのだった。 私は複雑な想いでパソコンから離れる。私と賢治、あなたとトシにはどこか共通点があ るような気がしてならなかった。十二年間、私はこころの迷路を彷徨ってきた。いまだってそうだ。もしも私が修羅ならば、あなたのために春にならなければならない、そう思った。

 あなたが降りしきるなか、窓から見える家々はすっかり光を失って、真夜中が訪れたことを告げていた。両親の寝室からも物音ひとつ聞こえてこず、私ひとり取り残されたようで、なんだか淋しい。私は強く抱き締められたくなってきた。しかし、いまのあなたは厳粛な顔で怒っているかのように降り続けている。 私は水晶クラスタを握り締める。緊張のこころを解きほぐすために。すると透き通った 細い腕が慰めるように私の背中を撫でてくれた。私は水晶にそっと話しかける。
 ——行ってもいいかな。
 ——もちろんさ。
 ——悲しいことは待っていないかな。
 ——わからない、でもきっと乗り越えられるよ。
 安堵したと同時に、なぜ自分の行く先に悲しみが待っているのかどうかを確認したのか がわからなかった。私は何が不安なのだろう。何が怖いのだろう。ただ、あなたの様子が いつもと少し違うだけではないか。 次に私はあなたに買ってもらったペンダントに触わって記憶の扉を開けてみることにし た。様々な場面が蘇ったが、ひとつだけ強固に閉じた扉があった。押しても引いても微動だにしない禁断の扉。よくよく覗き込むと鍵穴があった。様々な鍵を使ってみるが、どれもが合わない。私は鍵を探しにこころの旅をする。思いの外だだっ広い空間で、上手く身 動きが取れず、諦めかけたその瞬間、それらしき鍵を発見した。これで扉は開くのでは、 と思ったが厭な予感がして踏みとどまった。絶対に開けてはならない、そんな観念が脳裏を掠めたのだった。

 そろそろ外に出て、あなたに逢いにいこう。雪に生まれ変わった、かけがえのないあなたに。なぜだかひどく緊張する。やはり今夜のあなたがいつもと違った雰囲気を放っているからだ。私は緊張を解きほぐすために、身なりを整えることにした。たとえ躰が濡れたとしても落ちないよう、ウォータープルーフの化粧を施した。それから部屋着を脱ぎ、よそ行きのワンピースに身を包む。その上から黒いダッフルコートを羽織り、オレンジ色のマフラーを巻きつける。日中、引き籠ってばかりだった私にとって、久しぶりのおめかしだった。 寝静まったと思われる両親を起こさないよう、ゆっくりとドアを開け、摺り足で廊下を 歩く。こんなにたくさんのあなたが降るチャンスは滅多にないかもしれない、そう思いながら私は玄関へと足を進める。亡霊のように気配を殺すことができた私は小さく笑う。
 ブーツを履いて玄関のドアを開けると、目の前に純白の世界が広がっていた。至るところにあなたが降り積もっている。背の高い庭木は元の色彩を棄て去り、巨大な彫刻のように佇んでいる。時の流れに比例して、あなたは大地を真っ白に染めてゆく。勢いよく吹きつける風に揺られ、素顔を隠したままで。私は童心を取り戻したように辺り一面を駆け回った。息が切れてきたところで私は倒れ、白い庭の上で大の字になる。たとえようのない幸せが躰中を駆け巡り、私はあなたと愛し合っていることを実感した。あなたは沈黙しているが、きっと共に喜んでくれているに違いない。 気分が高揚し、思わず笑い出しそうになったとき、微かに声が響いてきた。
 ——寒いから部屋にお戻り。
 声の主は紛れもなくあなただ。私は白銀の空に向かって返事をする。
 ——もう少し傍にいさせて。
 次なる声を待つ間、全身があなたまみれになってゆく。
 ——ひとりにしてごめん。
 ——ひとりなんかじゃないよ、こうして一緒にいるんだから……
 一瞬、間が空いた。固唾を呑んで返事を待っていると、寒さに躰が震え始めた。
 ——僕は、あのとき、死んだんだ。
 突然の言葉に私は息をすることさえ忘れてしまった。何も考えられずにただ呆然とする。 この切迫した空気にどうしても耐えられなかった。
 ——あなたがいなくなってから、いつも私は詩を書いてきたの……これからもあなたの詩をずっと、ずっと……
 白い雪が夜空から降り注ぎ、こころを銀色に染め上げる。全てはまるで眠るように静かだった。
 ——さようなら、また空の下で逢おう。
 はっきりと声が聞こえたとき、雪が、あなたが、一瞬にして降りやんだ。私の瞳からは大粒の涙が次から次へと溢れ出る。声は出なかった。慟哭しながら禁断の扉を開けると、 走馬灯のように記憶の欠片が形を成し、巨きなスクリーンが現れる。映像が動き始めると鮮明に思い出す。あなたの命を奪った震災の惨劇を。私は白い息を前方に伸ばしながら雪の上に詩を書いた。人差し指が震えていた。


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