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澱んだ心のフィルターに、目を向けるin海士町

前回の記事では、自暴自棄になってから、自分自身を好きになるまでの男系を記した。

「人から愛されたい」自分自身のインナーチャイルドとどう向き合っていくのか、記していこうと思う。


自分自身のインチャが身体中に根っこを張っていたことに気づいたのも、旅をしていたときだった。

4月の終わりから5月のはじめまで海士町を旅していたときに気づいたくせも、また自分自身を見てくれなくて悲しい気持ちだった。


島を旅する出会いの中で、人生を積極的に脱線させて島で生きている人たちとたくさん顔を合わせて話すことができた。

しかし、ここ私の神経系のなかには大きな邪念が走っていく。

島の人は自分自身のことには興味がないのではないか。という思い込みだ

自分が注目されたいと思っているので、話している相手にそのようなつもりがなくても、「人は自分自身のことには注目していない、自分には価値がない」思い込みはそれを邪魔していく。

たとえば。

・4人でいるとき、話している人の視線が僕以外の2人に多く向いていると感じたとき
・島によんでくれた親しい友だちが、親しいばかりに自分に対して塩な対応をしている、と感じ取ったとき
・喫茶店のマスターが、友達にはフレンドリーになるが、僕に話しかけるときに急に神妙で「どうはなしたらいいかわからない」表情に変わるとき
・島で出会ったひとが、僕が来島したときはそれほどの反応でもなかったが、僕のあとに来島した友達の訪問のほうがより喜んでいるように感じたとき

島の人達と座敷で話しているときも、はじめは私への興味からある程度会話に入っていたが、段々と私がわからない話題に写っていくと、「あ、僕はやっぱりつまらない人だったのか」「自分にはやっぱり存在価値がないのか」と勝手に解釈する癖がついていく。

会話の輪を壊すことがしづらい。
自分が「よそ者」の唯一性を発揮して会話の中心にどんどん入っていくか、注目されることへのおそれから会話の外側で聞いているか。

私の身体は後者を選ぶことが多い。
その結果、何が起こるか。

会話ノワから外れた自分に対する嫌悪感と、罪の意識、恥の意識である。

みんなは盛り上がって、ハイタッチまで始めているけど、自分は全く輪の中の幸せな空気感の対極の位置にいる。

その結果、自分自身を責め始める。
「なんて、自分は価値がない人間なんだ」
「自分がいなくなってしまえばいいのだ」

幸い、島にいたときに話した人たちは、人生を遠回りしてまで島に来ていることで、私と心で通じ合う人たちばかり。会話の中の輪は心理的安全性が極めて高い場所なのです。

それでも傷つくことを恐れて参加できないことには、自分自身の身体が会話への参加を妨げるなにかの要因があるに違いない。


会話の途中から、「自分はついていけないな」と観念するタイミングがかならずある。その臨界点を境に言葉を発することをやめ、結果としてただ会話を聞いているだけの人になる。


まとめると、自分が2人以上の集団の中に言語を解する相互行為によって入っていくとき、私は

🧍 自分が他人に一目置かれるほど価値のある人間ではない思い込みを持っている。その思い込みを身体に帯びて波長を出し続けたまま、ひとと会う

他人との会話の🎎🎎🎎🎎輪のなかに自分が入っていき、コミュニケーションの流れを壊すことへの抵抗感があり、無視されて自分が傷つくことを恐れ、会話に入らない。

🧍 徐々に会話が自分の要素が不要のまま進展していって、自分を必要とされたい別のインナーチャイルドが反応し、自分は価値のない存在であると傷つけ始める

こんな状態で社会人になることなど、出来るのか。
もう22歳で会話のキャッチボールすらできないことに焦りを持つ一方、無理に解決することが幸せに直結していることに違和感を持っている自分もいる。


海士町での滞在に表と裏の両側面があるのなら、会話に入ることにネガティブな意識を持つことに気づいたこと裏の側面になるだろう。


以上の自分自身の癖が改めて浮き彫りになったのが、海士町での滞在だったのである。



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