海外で視覚障害者に日本語を教える in ボスニア・ヘルツェゴビナ~教えることになったいきさつなど①~
早速続きを更新するつもりが、おそらくウィルス性と思われる胃腸炎にやられて4日程寝込んでおりました(汗)
さて、今回はボスニア・ヘルツェゴビナ(以下ボスニア)で約半年に渡り視覚障害を持つ高校生達に日本を教えることになったいきさつについて、過去の経験を交えつつ説明していきたいと思います。
そして全てはボスニアではなくチリで始まった
全てはチリ・・ってボスニアちゃうんかーい!!とツッコミたくなった皆さん、まずは日本語教育と視覚障害者が結び付いた経緯についてご説明しますので、ボスニアの話に進むまでしばしお待ちください。(汗)
日本語教育および視覚障害者との出会いは高校時代のチリ留学に遡ります。
私は高校2年から1年間、AFS(American Field Service)という団体を通じて南米のチリに派遣され、ホストファミリー宅に滞在させてもらいながら地元の高校に通学していました。
その際に通っていたホストスクールで全盲の生徒とクラスメイトになったのが視覚障害者との最初の交流なのですが、当時はインクルーシブ教育という言葉すら耳にした事もなく、全盲のクラスメイト(E君=仮名)と机を並べて勉強することは予想にもしていませんでした。
ただ、そのクラスに編入した際にE君がそこにいるのが当たり前という雰囲気だったので、私も「ここではそういうものなのか。」と特に疑問を持たずにその状況を受け入れた気がします。
そういったこともあり、彼がどういった過程を経てどの時点からそのクラスにいたのか、改めてその辺の事情を他のクラスメイトに訊くということもありませんでした。
また、チリでは一般的な幼稚園から高校まで一貫の私立学校だった私のホストスクールが特に障害を持つ生徒を積極的に受け入れているという印象はなく、少なくても私が知りうる限りで点字で勉強するE君に加配の先生が付くといった配慮がされている様子はありませんでしたが、それまで一緒に机を並べ勉強してきたクラスメイト達がうまくサポートしているようでした。
(もしかすると学校側からのサポートとして放課後に補講があったり、補助教材等が用意されていたのかもしれません。)
バンドのメンバーとして楽器を演奏していたり、同じサッカーファンとしてサッカーの話題で盛り上がったり(私も当時は相当のサッカーファンだった)、それまで私が見えていなかった「見えない世界」を垣間見せてくれたE君の影響は、留学終了後の私の進路に「社会福祉」という選択肢を増やすことになりました。また、この出会いをきっかけに点字に興味をもち、帰国後は高校のJRCに所属し簡単な文章を点訳しながら点字の基礎の基礎を学びました。
チリからの帰国から約1年後、健常者と障害者が共にキャンパスで学ぶ環境が整った某大学の社会福祉学部に進学を決めたものの、4年間の大学生活では旧ユーゴスラビアの難民問題や在日外国人の 医療保険問題に関心が向かってしまい、視覚障害に関しては「点字」の講義を取った程度にとどまりました。
当時視覚障害を持つ学生への学習サポートに関わっていたら今回の日本語教育にもっと大学時代の経験が生かせたのではないかと思うのですが、20年以上の時を経て大分錆び付いたとはいえ(汗)講義で学んだ点字の知識は日本語クラスの際に活用することができたので、大学時代の経験もこれで何とか辛うじてこの先に繋がっていきます。
一方の日本語教育も、チリ留学中に知り合いになった日本人の方から誘われて週末の子ども向け日本語クラスをお手伝いする事になったのが最初のきっかけでしたが、こちらは幼稚園に通う年代(だったかな?)の元気有り余る子ども達をもう1人の先生と何とかまとめて遊びながら教えるのが精一杯で、日本語教育というには程遠く・・。
ただ、留学当初に大変お世話になった元・JICA青年協力隊の方から「もし青年協力隊に興味があるなら、文系だと日本語教師がいいかな。」という話を伺ったのをきっかけに日本語教師という職業を知ったので、日本語教育という職業との出会いもやはりチリだったということにしておきます。
日本語を教えるということに関してはむしろ大学時代の方が関わりが深く、特に当時増加していた日系ブラジル人や日系ペルー人が通う市の日本語教室にボランティア教師で参加していたり、教室に通う子どもが通学する学校と日本語学習環境の改善について交渉したりということをしていました。
今よりは断然使えるレベルにあったスペイン語もしくは英語といった語学と福祉を両方生かした仕事がしたいと具体的に考えるようになったのもこの頃からだったと思いますが、この時期はまだ視覚障害者と日本語教育が結び付かず、外国人が多く訪れる医療施設の医療ソーシャルワーカー(MSW)、または旧ユーゴスラビアの援助に関わる仕事を見つけるべく活動を進めていたのでした。(MSWの方はなかなか縁がなかったり、声を掛けて頂いたタイミングが合わなかったりで結局この夢は叶わなかったのですが)
就職活動の時期は折しも氷河期真っ只中。氷河期の冷たい風に吹かれつつ卒業後の人生を模索していたところ、在学中に参加した海外ボランティアを通じた縁がもとでユーゴスラビア(当時)の首都・ベオグラードで日本語を教えることに。通訳レベルのセルビア語習得を目指しつつ、語学教室やプライベートレッスン、日系の NGO等で日本語を教えていました。
そして、これまた様々な偶然等が重なった末に現地で出会ったボスニア出身の男性と結婚することになり、それをきっかけに彼の出身地であるボスニア北部に住むことになりました。
新天地で待ち受ける出会いが、後に視覚障害者向けの日本語教育に繋がっていくことになるのですが(これだけ書いてまだ繋がらないんかーい!)、この先のお話は次回以降に。
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