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恵まれない幸せ

「明日、Fに会ってくる」
最近、めっきり年老いた父は、そう言ったきり口をつぐんだ。
胃がんで余命3ヶ月と診断されたFさんは、40年勤務した役所を退職し、長年過ごした岡山の田舎で一人暮らしをしていると言う。父はそのFさんを見舞いに行くつもりらしい。
無口なだけでなく、人付き合いを極端に嫌う父だったが、Fさんは父の唯一の親友だった。何度か私の実家に遊びに来たことがあり、そのたびに私と弟にそれぞれ500円札を渡しながら、「昔、お父さんにはお世話になった」と笑っていた。そして、「ぼくは運が良かったんよ。人に恵まれたけんね」が口癖であった。もちろん、私はFさんのことなどすっかり忘れていた。

役所勤務の無口な父と、どうしてこの二人が夫婦になったのかと思うほど、利発でおしゃべりな母。適度に無口で、適度におしゃべりな私は、この両親のもと、山口県の片田舎で生まれ育った。
中学・高校と目立った成績ではなかったが、特に将来のことを考えるわけでもなく東京の私立大学に進学。卒業後にたまたま入社した広告会社では、水が合ったのか仕事が面白くて仕方なく、まわりに期待されるまま毎日遅くまで企画づくりに没頭した。そして人並みに苦労して経験を積み、30代半ばで独立した……。と、いっても従業員5名の零細企業である。会社を始めて早10年。朝早くから夜遅くまで働いても、豊かさにはほど遠い毎日をあくせく送っている、典型的な“貧乏暇なし”社長だ。コロナ感染でいよいよ会社が倒れかけたが、どうにか持ちこたえ、私は3年ぶりに実家に帰省していたのである。

思いがけず父の口から出たFさんの名。顔や風体はすぐに思い出すことはできなかったが、Fさんが大きな障害を持っていたことだけはよく記憶していた。
Fさんには、右手の肘から下がなかった。さらに、左目の視力を失っていた。Fさんは、先の戦争で空襲を免れたものの、終戦後、日雇い人夫として工事現場で働いていたとき、運悪く目の前で不発弾が暴発。その爆風で右手と左目の視力を喪失してしまったのである。

戦後の混乱のなか、空襲で両親と兄を亡くし、親戚中をたらい回しにされたFさんの苦労は、筆舌に尽くしがたいものだったろう。父の話によると、利き手である右手を失ったFさんは、努力に努力を重ね、左手で字を書くことができるようになる。料理以外の家事は、すべて自分でこなした。そして、障害者であることを武器にせず、コネに頼ることもなく、働きながら勉学に励み、自分の力で役所の就職試験に合格した。入所後は、仕事で必要な自動車免許を取得。持ち前の負けん気で他の誰よりも働き、ワープロ検定にも片手でチャレンジして合格したという。

生涯、伴侶をもたず独身を貫いたFさんだったが、ときどき父宛てに手紙が来ることがあった。それはいつも絵ハガキで、水彩画と達筆な文字が印象的であった。「利き手じゃない左手で書いたとは、とても思えんわ」と感慨深くうなずきながら、いつになく誇らしげな父を思い出していた。

翌朝早く、母がこしらえたおにぎりを片手に、父はいそいそと出かけて行った。電車とバスを乗り継ぎ、約3時間の小旅行である。Fさんは末期の胃がんとはいえ、出歩くことはむずかしいが会話ができるくらい元気だという。いま頃、二人でどんな思い出話で盛り上がっているのだろうか。めったに笑うことのない父は、微笑んでいるのだろうか。そしてFさんは、いよいよ人生の黄昏時を迎え、どんな心中なのだろう。
 
「ぼくは運が良かったんよ。人に恵まれたけんね」
10代の若さで、不発弾が暴発して右手と左目を失うなんて、そんな不運があるか、と思う。しかし身よりのないFさんにとって、父や仕事仲間から差し伸べられる言葉や行為は、決してお金では買えない喜びだったにちがいない。そして、数々の苦難や障害を乗り越えて、自らが未来を切り拓き、自分は運が良かったと言い切れる人生を生き抜いたFさん。それにひきかえ、日々の些細な出来事に愚痴をこぼし、上手くいかないことをまわりのせいにしてばかりいる自分は、とてもFさんの達観した心境には、しばらく近づけそうにない。
久しぶりの帰省である。父が帰ってきたら、二人の思い出話でも聞かせてもらおう。

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