”探求の学び”の話と、”英語教育”の話が似すぎている件。
「流行に踊る日本の教育」読み続けてます。しっくりくることもあれば、「いや、それはちょっとどうだろう?」とかも思いながら読み続けてます。
いろいろ思うことはあるんですけど、まず大事だなと思うのは、
「今の日本には新しい能力の教育が必要」という”語り自体”を疑う。 (第一章 資質・能力ペースのカリキュラム改革より)
っていうことに尽きると思います。
その前提は本当に的を射てるのか?ということですね。
前提を疑う、それは自由であるために、世の中の無茶な流れに逆らって生きるためにとても大事だという話でした↓
そもそも、
「学校は知識を教えるだけではなく、考える力や主体性を重視すべきだ」という主張は、これまでも幾度となく繰り返されてきました。(同じく第一章より)
ということであり、
1990年代から2000年代にかけて、「新しい学力観」「総合的な学習の時間」「活用する力」「資質・能力」と、考える力や主体性を重視する方向で、改革は続けられて…。(本書31ページ)
にもかかわらず、
なぜ日本の子どもたちは学習意欲が低く、自由記述の白紙答案が多いのか?
そして、
上の課題が学力調査でも指摘され続け、人々の実感としても指示待ち傾向や物事を深く考えることの弱さが叫ばれ続けているのはなぜなのか?
というところです。
要するに、
新しい能力の教育へと改革すればするほど、それが育たなくなる逆説
の方が、気になるポイントではないか?と思うわけです。
で、”このへんの話、何かに似てるなー!”と思うわけです。
それは、
細かい文法や、教科書のつまらない勉強はいいから、”使える力、話せる力をつけて欲しい。”
とか言われる、”英語の学習”のことです。
僕は、アメリカに通算3年ちょい滞在したひとで、英検1級を持っている通訳案内士(英語・宮城県61号)ですが、
まず、しゃべれるひとは、教科書の内容くらいは、間違いなくしっかりできるひとです(笑)
そして、
そりゃー、重箱の隅をつつくようなマニアックな知識はまた別ですが、
文法や単語を覚えないで、相手に通じる英語力は身に付かないです(笑)
つまらないこと、めんどくさいことも大切にする。いや、そういうことを大切にできることこそ学力があるってことかもしれません。
そんなの当たり前だよねって思うんですけど、どうも、そうじゃないひとが多くて、どうしたもんだろう?と思うことが多いです。
いや、お気持ちはわかるんです。僕も、センター試験で「bat(こうもり)」の話が出たのを、野球のバットだと最後まで思ってた(つまり、お話を丸ごと勘違いして読んでた)くらいの筋金入りのバカだったので(笑)
どこかで、学校とか試験とかとは別の、
”使える英語力”とか、”本当の英語力”とか、きっとあると思っていました。…そして日頃の自分の勉強不足を棚に上げて、
”日本の英語教育は間違っている!”
とか、言うわけです。ほら、同じだ(笑)
このへんの英語の話はこちらに詳しく(笑)↓
表紙の装丁とかがアレなんですけど(笑)、中身は至極まっとうな話ばかりです。僕は、英文法の授業とか参考書とか、安河内哲也さんのおしごとはたいへん素晴らしいなと思うのですが、たしかに「英語四技能」のはなしは、どう考えても、ちょっと違うなーというか、うさんくさいです(笑)
どこかで、”新しい学び”を語ることが、
(学びの現場の)”リアルを知らない自分に都合のいい妄想”になっていないか?
そもそものリアルな課題は何なのか?
あるいは、リアルなめんどくさい課題を避けて、とっつきやすい、だれにでも、わかりやすい答え(のようなもの)を欲しがっているだけではないのか?
じぶんのやりたいことをやる、わくわくすることをやる、が”探求の学び”なのか?
そもそも探求の学びとは何か?が、よくわかっていない…というか、”従来の学び”の良い点、悪い点の確認もせずに、”改革のための改革”としての”新しい学び”、”探求の学び”を進めようとしていないか?
そんなところから、確認してみる。
足元からみつめる話からはじめたいと思うのです。
あっ、もちろん現状に問題がないとか、現状維持すればいいとかは思ってないですよ(笑)いつだってアップデートは必要なのも当たり前です。
何度も言いますが、私自身、”探求すること”は、学びにおいて当たり前のこととして大事な姿勢だと思っていますし、
なにより、あたらしいことを知ることや、今まで知らなかったことに気づくこと、できなかったことができるようになることなどに、いつでも、
わくわくしていたいです。
引き続き、読んでいきます。
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