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”もどかしい時間=試行錯誤の時間”をこそ見守りたい。”従来型の学び”か”あたらしい学び”かとか言う前にやりたいこと。

先日、近所の旨い肉屋さんに、”あの豚”の姿(森山周一郎さんのご冥福をお祈りいたします。)で行ってきました。小さな笑いが欲しかった出来心です。

だがしかし、結果的に、お店の人が、ただただ、

”やべーやつが来た…。”

と思って、ふつうに対応してきたので、むしろ恥ずかしかった。…家に帰って食べたモツ煮は、僕の涙でちょっぴりしょっぱかったです。

(気仙沼ホルモン旨いです)↓

でも、そのエピソードから、#かつ丼とかと並べて#みちたとかやめろ、肉屋さんwww

あと、

「みちた丼、買ってきました!!旨い!」

とか、報告するやつもやめろwww

忘れてしまいたいことや、どうしようもない寂しさに、包まれたときに、男は酒を飲むのでしょう。(河島英五「酒と泪と男と女」)

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”うまくいかないもどかしさ”って大事だと思うんです。

さて、うち(学習塾ホライズン)の生徒のみんなも、よく泣きます(笑)

うちの塾は、週に何回通ってもよく、授業もなく、当然、時間割もなく、何時に来て、何時に帰ってもいい、幼児から大人までが学べる、一丸となってバラバラに生きる(笑)学び場ですが、唯一の”きまり”は一日一枚の計算プリント(らくだプリント)に取り組むことです。

一日一枚。10分程度をやるだけ。

でも、やってみるとこれがなかなかキツイ(笑)

それは、やりたいときにやるのではなくて、気持ちに左右されないで、”やり続ける”のが原則であるから。
(あくまで、原則。やれないこともあって当然)

それと、

各プリントに決められた、めやすじかん以内に解ききることと、ミスの数3つ以内(自己採点)というクリア条件が原則であること。
(これも、あくまで”めやす”です。)

これがやってみると、子どもたちにとっては、とてもキビシイみたい(笑)

逆に言うと、普段の学びが、

自分の気持ちが向いた時だけやっていて、(つまり継続的な積み上げがあまりできていない)

”本当にできるようになったかどうか?”の確認などせずに、”とにかく終わらせればオッケー”(先生からハンコもらって終わり。)で、

自学ノートやる!っていっても、”どうやってノートを埋めるか?”だけ考えてたり(学ぶ内容は二の次)、ワークをやるとしたら、どんどん書き込むだけ、採点も先生や親任せにしている(終わらせることが目的)という実態が浮かび上がってくると思います。

だから、うちの教室に来て、ほんの10分程度でも、”本気で取り組む時間”や”クリアできるまでやりきる経験”を、はじめて体験することになります。そのため、最初はみんな、できないからくやしくて泣いたり、腹が立って怒ったり、やりたくないから、ぐずぐずぐずぐずしたりと、大きなリアクションを起こします。…たかが計算プリント一枚なのにね(笑)

でも、この、”どうしようもない時間”こそが子どもたちが伸びているじかんだなーって思うのです。

やりたくないけど、じっとしててもはじまらない(授業がないから、自分から動かないと何もはじまらない)から、

まず、

「(しょうがないから…)やるか!」

って、心を決める、

”諦めって覚悟みたいなものだよな”(宇宙兄弟より)

って瞬間に出会うことになります。(あっ、そういや秋にあった平田オリザさんの講演でも宇宙兄弟の話が出てました。)

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できないことに出会うからこそ、人は育つ。

何回やっても、ミスの数が減らなかったり、時間が短くならなくて、

「こんなの、できっこないよ…」

って、思ってたことが、やり続けているうちに、少しずつ、少しずつ、クリアに近づいてくると、

”やるぞ!”

っていう、”モチベーション”もあがってきて、ぐずぐずのじかんは次第に短くなって、プリントをゲットしたら即スタートしだす。

”今日こそ、きっと!”

と、希望をもってチャレンジをする。

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そして、突然やってくる、

”できちゃった…”

の瞬間に出会うことになります。

まさに、

”人が育つということのイメージが、短視眼的なスキル形成へと矮小化されるなかで、人とのつながりや場のなかでじわじわと、そしてときに劇的に生じる認識の転換…(「流行に踊る日本の教育」より)

って、こういうかんじの、”ありふれた日常の学び”のことじゃないかな?と思うのです。そして、”ありふれた”と言ったけれども、

”役に立つこと学ばなきゃいけない!(有用性の過剰)”

とか、

”答えのない未来のために、オリジナル性とかセンスとか磨いて、自ら組み立てていかなきゃいけない!(創造性および自己責任の過剰…てか、創造性って、なんなんだろ?)

とか、言われる中で、

実は、

落ち着いて静かに学び続け、

続けた結果として、突然に、思わってもいないタイミングで現れる

”(学ぶ前は)思ってもみなかった新しい自分”との”出会い”が、

むしろ損なわれてはいないか?と思うのです。

まとめ

”わくわくキラキラ”は、目的じゃないよ!いい学びができたら、結果的にそういう状態になるだけだよ!いい学びって、やってる最中は、めんどくさて、すっきりしないからイライラして、もう嫌だ!って思うような時間だよ!そういう時間こそ、深く考える時間、探求の時間じゃないかな?
だから、表面的な”従来型の学び”か”探求型の学びか”なんて問いは,

ほとんど意味がないよ!

てか、大きなテーマも大事だけど、日々の学びへの具体的なアプローチからアップデートしていかないか?

といった感じです。

実は上にある、平田オリザさんの講演で使われた「宇宙兄弟」のイラストはコミック23巻の表紙。宇宙兄弟は、どの巻も、どのエピソードも、”心のノート”に記したいことばで溢れてますが、23巻にあるのは、まず、せりかさんのお父さんの生前のメッセージ、

”面倒なことほど、実は…大事だったりするんだ。そこに愛情を注いで、…楽しんでください。”

が入ってます。

あとね、ブライアンが子どもたちに語った、

”人は…例えば「宇宙へ行く」みたいな大きな夢を持った時、目の前に現れたバカでかいドアに委縮して向こう側へ行くことを諦めちまう。「開けられるはずがない」ってな。だがビビることはないんだよ。”

”本当ははじめから…そんな”ばかでかいドア”なんてものはない。…小さなドアが、いっぱいあるだけだ”

”そしてその小さなドアを開けるたびに、君らの夢が一つずつかなっていくのがわかるはずだ”

”君らには、そのためにやるべきことがある”

”手探りでもなんでもいい、意地でも次のドアに手をのばし続けることだ”

”そんなことしてる間に…気づいたら、宇宙遊泳とかしてるかもよ(にやり)”

宇宙兄弟最高!

引き続き、「流行に踊る日本の教育」読んでいきます。




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