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駆けゆく彼女を誰も追わないで

朝の清掃を終え決められた時刻に食堂に行くと、見慣れぬ女がいた。

就寝中に新しい顔が1つ2つ増えることは珍しいことではなかった。
総勢15名程度の、女の園。
ここはさまざまな理由でさまざまな対象から守られるべき女性の集められた施設だ。



私がここに来てもう10日は経過しただろうか。
カレンダーも与えられぬこの環境下では日付の感覚が無くなる。
三度三度飯を食べ、外の世界にいた時よりもずっと規則正しい生活をしているにもかかわらず、だ。

私の入所時も受け入れ先がこの施設と確定するまでに半日近い時間を要した。
着の身着のままで飛び出した後の12時間は正気に戻るには充分すぎて、トイレの鏡に映る己のみすぼらしさに驚き、嘆き、諦め、全てを委ねるほかなかった。

夜も深まり、肉体も精神も疲労を極めたのちに到着したのが今の施設だ。
私に付き添ってくれたワーカーさんが施設職員と面談をしている間、この食堂で1人食事をとった。

今思えば入所の連絡を受けた時点で施設側が食事を取り置いてくれたのだろうと想像がつくが、10日前の私には何がどう作用して自分がここに来たのかわからず、目の前にあるラップのかかった食事にすら怯え戸惑うばかりだった。

食堂の片隅、業務用の冷蔵庫が時折ブン…と小さく鳴る。
その振動音を聞きながらやっとの思いで中華丼を口に運ぶと、冷たい味がした。
はらはらと涙が頬を伝う。
スプーン1本がこんなに重いなんて。
残飯を捨てる場所を尋ねることすら後ろめたくて、自分の中というごみ捨て場に一匙、また一匙と矢継ぎ早に放り込む以外になす術がなかった。



入所者同士は不必要に親しくしてはならない。
だから当然、職員による新たな入所者の紹介セレモニーのようなものはない。
しかもここは閉鎖された空間で、ケースバイケースではあったが外出を制限されている人間が大多数であった。
前述の通り娯楽が食事ただ一つだとすれば、ヒトは自然と次の娯楽を創造する。
女社会での第二の娯楽、それは他でもない"噂話"だった。

「あんた、昨日の夜来たの?
 若いわね、いくつ?何があってこんなとこ来たんよ?」

前職は魚屋かと聞き返したくなるようなガラガラ声の初老の女が、職員以外で初めて私に声をかけて来た人物だった。
喋るだけで大根おろしがおろせそうな棘だらけのその声。
取り巻きなのだろう、数人の50代とおぼしき女たちが品定めをするようにその様子を横目で見ながら聞き耳を立てている。

施設職員の『私情を話さないこと』の言いつけをどこまで守るべきか見当もつかず、私は一度上げた目線を再び手元に戻し無表情でじっとだんまりを決め込んだ。
飢餓状態で水面を跳ね回る女たちに旨い餌を与えることが出来なかった私は能無しとして処理され、この日から存在していないものとして扱われるようになった。

誰にも話しかけられない日々は、私には却って過ごしやすかった。
女というたった一つの共通項だけで同じ部屋に4人が詰め合わせされ、常に誰かに話を合わせ続けることの方が私にはずっとハードルが高かったからだ。
施設で設定された心理テストやカウンセリングを受ける以外の時間のほとんどを自分のベッドの上で布団を被って過ごした。



そういう訳だから、朝起きて入所者が増えていること自体は日常茶飯事なのだ。
よほどのことがない限り食堂での入所者の関心は第一の楽しみである食事に向けられているはずだった。

しかしその朝私たちの前に現れた女は私たちの考える"よほどのこと"の想定を何倍も、実に軽々と超えてきた。

根元が黒くなったお世辞にも綺麗とは言い難い金髪、色白の顔にそばかす、上下揃いの趣味の悪い男物のTシャツとクォーターパンツ。
そこから出た首や腕、膝下には細かな鱗がびっしりと大胆に描かれていて、衣服で隠れている部分で1匹の龍として繋がり女の肢体に絡みついているようだった。
更にその物騒な腕で抱いていたのは、おそらく新生児だ。
テレビドラマの子役でも見たことのないような生まれたて、新品の、人間。

その日、魚屋のボスは全身刺青の女に私と同じ事情聴取をしには行かなかった。
日和ってんじゃねえよ、今朝の食事を受け取りながら私はあくびを噛み殺した。



私やボスは単身者の相部屋で、刺青女を含む子連れの入所者には小さいながらも家族単位で個室が与えられていた。
単身者と子連れの入所者はフロアも違うため、顔を合わせるのは食事の時間のみだった。

面倒は御免だ、そうでなくてもこの世は触らずして祟られることばかりだ。
施設に入る前も入ってからも、散々、色々な意味での身体検査をさせられた。
きっとあの女だって例外ではないはずで、入所条件を満たしているということはむやみに他害する人間ではないということ。
それだけで充分だ。
静かに過ごせればそれでいい。
そんなことを考えながら私は薄い布団の中でうつらうつらと舟を漕いでいる。

女が入所してから一晩が経つと
〈刺青女の旦那〉〈組の人間〉〈クスリ〉〈捕まった?〉〈逃げている?〉
女性誌を切り抜いたような生簀の中で女たちは元気そうに跳ねていた。
だいぶ私もここに毒されたみたいだ、ごく自然に耳をそば立てている自分にうんざりしベッドを這い出て事務所に行くと購入希望の用紙に『耳栓』と書き込んで職員に渡した。



刺青女との朝食も3度目ともなると強烈なキャラクターにも目が慣れてくる。
女も同じ子連れ入居者のうちの1組と打ち解けたらしく、赤ちゃんを囲みなにやら話し込んでいるようだった。
初めて見た日にはまだ赤黒かった赤子の肌が心なしか白く落ち着いたように見える。

最後の1人に残れるように、朝食は出来るだけゆっくり食べることにしていた。
朝は皆、食堂を立ち去る際に入口の扉に掲示された入浴のシフト表に希望の時間を記入する。
14時から20分ずつ、1回の時間に2人もしくは2家族まで入浴できる。
重ねて14時にはテレビの視聴が解禁され、15時にはコーヒーの支給があるので皆15時を避けて仲の良い人間と一緒に入浴するのが習慣になっていた。
食パンが再度発酵するくらいの悠長な咀嚼ののち表を覗き込むとやはり15時だけが空白だ。
あと2~3組の入所があればこの安息の時間も一気に崩れ去るだろう。
私は今だけのささやかな贅沢に心の中でそっと手を合わせながら15時の欄にボールペンで記名をした。



14時を過ぎるとレクリエーションルームからはテレビを囲み談笑する女たちの声が僅かに漏れ聞こえてきた。
14時57分、早すぎても、遅すぎても塩梅が良くない。
職員の待機する事務所に声をかけバスタオルを1枚受け取るとのんびりと浴場に向かった。
節電のため廊下の蛍光管は1つおきに取り外されている。
薄暗い廊下をペタペタと歩くと記憶の奥底にあるどこかの小学校の景色と一瞬だけリンクする。

食堂の更に奥にある浴場は小ぶりの銭湯くらいの広さだった。
浴槽のある部屋はここ1つしかないことから、この施設が何か別の施設の再利用ではなく端から女性だけを、もしくはその真逆の男性だけを収容するために建てられたものだということがわかる。
そういえばトイレはどうなっていただろうか。
風呂を出たら注意深く見てみよう、と心に留める。
浴室の入口に貼り替えられた入浴のシフト表で今の時間帯には誰もいないことを確認し入室した。
牛歩の甲斐あって15時、ぴったりだ。

トータル20分では丁寧に洗髪をすれば湯船には浸かれない。
他に誰もいないのをいいことに脱いだ服も畳まず足早に洗い場に行き腰までの長い髪をしっかりと洗った。
夏以外は節水のために風呂は2日に1回だというのだから人によってはうんざりすることだろう。
もちろん季節が変わるまでここにいることはないと願いたいが。
そんなことを考えながら大雑把に全身を洗い流すと時計を確認するために脱衣所へ。
ちょうど半分、残り10分。
今日はもういいやと色褪せ、ところどころパイルの飛び出たバスタオルで身体を拭いた。

ショーツを穿き、1枚しかない貴重なブラジャーをぐるりと正面に回し片腕を通したその時だった。
交代まではまだ8分近くあるはずなのに、脱衣所のドアノブがガチャッと回った。
ドアの薄い隙間に横滑りするように入って来たのは刺青女だった。
当然のように腕には赤ちゃんを抱いている。
私は動揺を悟られないよう脱衣ロッカーに顔を向け直し、着替えを続けた。
パタパタとスリッパの音が私の背中のあたりで止まる。

「あっし、逃げっから。」

初めて直接聞く女の声は、酒焼けなのか煙草焼けなのか魚屋のボスに負けず劣らずカスカスで、安い入れ歯の標本みたいに顎のネジが緩んでいろんなところから空気が漏れているようだった。

いや、待て。
ーーー今、何て言った?

「男にまだこの子見せてないんだわ。
 捕まっちゃったら会えなくなっからさ、その前に顔見せてやりたいし。」

着衣のままの女は浴室の引き戸をガラガラと開けるとスリッパを脱ぎ、素足で私の撒き散らした水滴などおかまいなしに窓へと一直線に進む。
私は女のTシャツの背に刺繍されたガラの悪い犬を見ながら目を白黒させていた。

「あんたいつも喋んないんでしょ?
 みんなそう言ってるよ、何考えてるかわかんなくて気持ち悪いって。
 あっしには関係ないけど。」

えええ…。
こんな場面で他人からの辛辣な評価、言う?
そりゃ好かれちゃいないだろうけど…今、言う?

ん?待って、お金はあるんだろうか。
私の何か…持たせられるものは?
必死に考えたが入所時に現金は1円単位まで記録し職員に預けてしまっている。
というか、何か渡すもクソもない、私は下着姿、丸腰もいいとこだ。
女だってかろうじて服は着ているものの大差ないはずなのに、どうやって。

何も言えず立ち尽くす私などには目もくれず、女は赤ちゃんを両の胸に挟むように抱えるとありったけの所持品を外の世界に投げ捨てた。
そしてすべり出し窓を出来る限り大きく押し開けると、その隙間に膝下をねじ込む。

あああ、赤ちゃんが潰れちゃう…。
逃走を手助けするべき?大声で職員を呼び阻止するべき?
どちらも出来ずただ私はオロオロしていた。
二度三度、身体を左右に振るとその拍子にズルリと女の下半身が外界にこぼれ落ち、肩が抜け、最後に派手な金髪の頭頂部が吸い込まれ、そして見えなくなった。

私はしばらくの間、女を飲み込んだ窓から見える緑の木々を眺めていた。

えええ…。
面倒に巻き込まれたことに気付いた私はお臍のあたりからこそばゆい何かが湧き上がってくる感触を覚えた。

そういえば私、ここに来てから2週間近く、一度も笑っていなかった。
しかし、いや、でも、今は笑ってはならない。
女は裸足だった。
おそらく外に出てまず最初にどこかで履き物を窃盗するだろう。
赤ちゃんの父親だって、本当はどんな悪人かわからない。
誰かの大切な人を殺めたり、弱い者を苦しめたりしたのかもしれない。
そのことが脳裏を過ったからこそ、私は女を直接助けるなんてできなかった。
それなのに。
それなのに、この湧き上がってくる不謹慎な情はなんなんだろう。

強いなぁ…
あの犬の刺繍の服…ダサいなぁ…
面倒くさいなぁ…

私の頭の中は、これから職員につかなければいけない嘘のことでいっぱいだった。
とりあえず今は速やかに服を着なくては。
そろそろ次の入所者が来る、それまでに。

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