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科学小説「月からの手紙」3話

科学小説「月からの手紙」3話 ヴァルカン


 1859年、ルベリエは天王星問題とは全く異質な「水星問題」を発見していた。


 太陽のまわりを公転する地球の軌道の面と、水星の軌道の面は約7度傾いて交わっていた。 その交わる方向で、地球と水星が並ぶようになれば、地球から見て太陽を背景に水星がシルエットになる、つまり「水星の太陽面通過」が起きるのである。両軌道が交わる方向は、地球が5月と11月に位置する方向である。つまり、水星の太陽面通過が起こるのは、5月か11月であった。


 11月の 太陽面通過は理論と観測の差が誤差の範囲だった。いっぽうの5月のほうで問題が起こっていた。


 ニュートンと同時代に、フランスで活躍した数学者であり天文学者のフィリップ・ド・ラ・イールは、1707年5月に 起こった水星の太陽面通過を、1日違いの計算結果で逃してしまった。そしてイールとイギリスのエドモンド・ハリーはともに、 1753年5月に起こった太陽面通過を数時間ずれた計算で逃していた。観測の誤差とは考えられない、理論と観測との位置の不一致があった。


 ルベリエは、水星の軌道運動に与える他の惑星の影響をすべて考慮した上で、 「水星の軌道と摂動の新たな決定」を1843年に出版していたのだが、その表を使って1848年11月の太陽面通過の 予報をすることすら難しかった。


 水星の近日点方向(水星の楕円軌道上、太陽中心から見て、太陽に最も近い点のある方向)が移動していけば、その変化は説明できることがわかった。水星の近日点方向が移動していく原因は、 各惑星からの重力の影響である。それを計算すると、100年間で527秒角、 水星の近日点方向が増加するはずだったが、観測ではさらに+38秒角が必要だった。+38秒角を発生させる未知の惑星が水星の内側を回っている可能性があったのだ。


 太陽の近くをまわっている惑星なら、通常は太陽光で観測が困難でも、太陽面通過時なら真っ黒な点として観測できるはず。もしくは皆既日食中に観測できる可能性がある。


 実際、それと思われる観測が存在した。1800年3月20日、1802年2月7日、そして 1802年10月10日にドイツ、マグデブルクのパストル・フリッチュは太陽面を素早く動いていく複数の黒点を目撃している。1820年代、30年代にもドイツの別の観測者が同様なものを 観測した。


 ドイツ、デッサウで太陽面を日常的に観測していた薬剤師のハインリッヒ・シュヴァーべは、友人から「太陽を観測していれば、水星より内側にある惑星を発見できるかもしれない」と言われ、太陽に興味を持つようになった。彼は年に平均300日も太陽観測を行っていたが、1826年から12年間それらしきものは何も見つからなかった。(そのかわり彼は、有名な「太陽黒点周期」を発見する。太陽黒点数が周期的に増減していたのだ)


 本当に水星より内側に惑星があるなら、注意深い観測者であったシュヴァーべの眼を逃れることはできなかったはずだ。


 スイス、チューリッヒの天文学者、ルドルフ・ヴォルフは、「異常な速度で動く黒点」の記録を調査し、その正体は水星軌道内惑星ではないかと考えた。


 フランスの物理学者であり天文学者のジャック・バビネは、1842年7月8日の皆既日食の際に プロミネンス(紅炎)を目撃したが、彼はこれを「太陽の周囲をまわる灼熱の雲」だと考え、そのかたまりをヴァルカンと名づけた。当時はプロミネンスの正体がまったく理解されていなかった。


 1859年には、ルベリエは友人への手紙の中で、水星の軌道運動がさらに太陽寄りの軌道をまわる未知の天体(複数かもしれない)からの重力の影響を受けていることを書いていた。金星の質量が実際にはもっと大きいのでは、という仮説は棄てていた。 金星の質量が1割大きければ水星の運動を説明できそうだったが、もしそうなら地球の軌道運動まで乱されてしまうからだ。



 1859年12月22日、ルベリエは驚くべき手紙を受け取った。それは、パリから南西へ約70km離れたオルゲール・アン・ボースの医者でアマチュア天文家のエドモン・モデストゥ・レスカルボーからのものだった。レスカルボーは1859年3月26日に「未知の惑星」が太陽面を横切るのを観測したというのだ。


 1814年生まれのレスカルボーは天文学が大好きな医者だった。 1845年5月8日に起こった水星の太陽面通過を見た彼は、水星軌道内の未知の惑星を探すことを思い立った。


 1859年3月26日、フランス全土はどんよりとした灰色雲に覆われていたが、オルゲールの上空だけは眩しい太陽が輝いていた。午後4時頃、レスカルボーは仕事が一段落したのを見て、 口径3.75インチ(9.5cm)望遠鏡を太陽に向け、太陽像を白い紙に投影して観測を始めた。太陽面に小さな黒点があった。完全な円形を示していたが14年前に見た水星の1/4くらいの大きさに思えた。太陽黒点だろうと思っていると、それはなんと動いていた! そんな短時間に太陽面を移動する黒点はない。これは惑星に違いない!


 診察のあと、レスカルボーは再び太陽観測を再開する。幸い、太陽面の端に近い部分を横切り、 再び縁に近づいていたが、黒点の姿は消えていなかった。目盛りを使って太陽の縁との位置関係を読みとった。時刻を確認した。彼の古い時計は分針までしかなかったので、患者の脈を診るために使っていた振り子を見た。黒点は太陽面上に1時間17分09秒間留まり去っていった。


 確信を持てなかった彼は、9ヶ月もの間この発見を発表しなかった。もう一度あの惑星を確認したいと思った。残念ながら計算しようにも、数学は得意ではなかった。水星の近日点移動に関するルベリエの研究をある科学雑誌で読んでいた彼は、思い切ってルベリエに手紙を書くことにした。こうして1859年12月22日に彼の手紙がルベリエのもとに届くことになる。


 ルベリエはその観測報告に信用性ありと感じるものの、いっぽうで9ヶ月もの間 放置していたことに強い不信感も抱いた。そこでルベリエがとった行動とは、年末の30日、前ぶれもなく彼を訪問することだった。


 元日には著名人の集まる新年パーティが予定されており自分も招待されていたため、それに間に合うよう、列車の時刻を確認した。証人になってもらうよう頼んでおいたヴァレ氏も現地に向かった。


 ルベリエとヴァレ氏の2人は、駅から15マイルもの道のりを歩き通し、ついに観測に使われていた小さな塔のある家屋に到着した。いらだっているルベリエが乱暴にドアをたたくと、すぐにドアが開き、中には小柄で内気そうな男が立っていた。


 ルベリエは事情をつぶさに問いただした。時間を測った振り子や観測場所、観測方法なども確認した。観測の正確さに納得がいったルベリエは、9ヶ月間の沈黙も彼の控えめな性格ゆえと解釈した。そして、彼が見たものが水星の内側をまわる惑星であると信じ、 彼の重要な発見を祝福した。1時間ほどの滞在のあと、すぐに2人はパリへの帰途についた。ルベリエとレスカルボーが会ったのはこの日が最初で最後であった。


 1860年1月2日、ルベリエはパリ科学アカデミーの公の席で、レスカルボーによる発見を 初めて報告した。アカデミーはその発見を賞賛をもって受け入れた。フランス人が予想した天体を 今度はフランス人が発見したのだった。ルベリエは、文部大臣に、この無名の医師に レジオン・ドヌール勲章を授与してはどうかと提案していた。そのほかにも彼の栄誉をたたえようとする動きがあったが、レスカルボー自身はその素朴で内気な性格と、患者を放置できないことから、いずれの申し出も断っていた。彼は表舞台ではなく、裏方にいることを好む人間だった。


 パリからのニュースに、イギリス天文学会もルベリエの予測とレスカルボーの発見を讃えた。


 ルベリエはレスカルボーの観測を用い、円軌道と仮定して、その惑星の軌道半径を0.147天文単位 と求めた。太陽をまわる公転周期は19日と17時間。地球軌道面に対する軌道の傾きは12度12分となった。地球から見て太陽から8度以内に存在するわけで、太陽光に妨げられ、通常はとても観測にかからない。毎年4月3日か10月6日頃に、地球の軌道面と惑星の軌道面の交線近くに地球とその惑星が並んでいるときでなければ太陽面通過が起こらない。年間2~4回起こる計算だった。


 ルベリエはこの新惑星にヴァルカンという名を与えた。これはジャック・バビネがプロミネンスを説明するため、 ガス状の天体に付けた名だった。それはまたローマ神話の「火の神」の名でもあり、太陽の近くにある惑星としては最適な名であった。



 ドイツ、ケーニスベルク大学の天文学教授であったラドーは、レスカルボーの観測からヴァルカンの 軌道要素を再計算した。彼が得た円軌道の半径は0.143天文単位。公転周期は19.7日となった。軌道が楕円である可能性も高く、その場合には軌道を求めるため、さらなる観測データが必要だった。


 ルドルフ・ヴォルフはヴァルカンらしき黒点の観測記録を調べ上げ、ルベリエに送った。詳細な記述が欠け、正確な日付や時刻のないものもあったが、ヴァルカンの存在は次第に動かしがたくなっていった。


 ルベリエは、最初にレスカルボーの報告を公表したときのあとがきに、水星の近日点移動を説明 するには、ヴァルカン天体(大きさの観測から水星の質量の1/17と推定)が20個必要である と書いていた。小惑星帯のような存在をルベリエは考えていた。



 ヴォルフは自分の3つの観測(1798年1月18日、1802年10月10日、そして1819年10月19日)はレスカルボーの観測と矛盾しないことに気づき、このことをルベリエに伝えた。ラドーは1802年と1819年の観測がヴァルカンならば、1798年の黒点はヴァルカンではないと主張した。そして、このことからヴァルカンの公転周期を19.7日ではなく、38.5日と算出し、軌道傾斜角は1度5分未満であるとした。

こうして、1860年3月29日、4月2、4、7日に太陽面を横切る可能性が出てきた。


 世界中の天文学者はこの機会を逃さず観測を行ったが、ヴァルカンはついに現れなかった。さらに1860年7月18日の皆既日食はスペインでも観測された。太陽近傍にヴァルカンが ないか監視されたが、なにも見つからなかった。


 実は、レスカルボーがヴァルカンを見たという1859年3月26日当日、前年9月の皆既日食遠征以来、南米ブラジルに滞在していた フランスのエマニュエル・リエも太陽の観測をしていたが変わったものは何も目撃していなかった。彼は、なぜルベリエがレスカルボーの観測を鵜呑みにしたのかが信じられなかった。



 次第に疑念が持ち上がってきたが、思いがけずヴァルカンは再び目撃されることとなる。


 1862年3月20日。状況はレスカルボーのときと驚くほど似ている。マンチェスターの W・ルミスは、太陽を観測していると、明瞭なシルエットの小さな黒点が見えた。現地時間8時28分から50分までの約20分観測していたが、その間、約12分角以上も移動した。黒点の大きさは約7秒角。


 ルミスの見たものは直ちにヴァルカンと解釈された。イギリス航海暦局の局長であったJ・R・ハインドもそのひとりだった。彼によると、1859年のレスカルボー観測からルベリエが求めたヴァルカンの公転周期は19.70日で、これが正しければ、レスカルボーの観測から57公転後の通過をルミスは観測したことになり、より正確な公転周期は19.81日となる。この値を過去の3月、あるいは10月の観測と照らし合わせてみると、1819年10月9日、まさにその日にキャノン・スタークが同様な観測を行っていたことがわかった。



 1865年5月8日、コンスタンティノープルのカウンバリーが 太陽面を横切る小さな物体を観測し、それとは別に黒点群も見えていたというが、 組織的な観測ではほとんどの場合、ヴァルカンらしきものは見つからなかった。


 1869年8月7日の皆既日食では、アメリカの観測者らがこぞって「ヴァルカン捜し」に参加したが成果はなかった。


 イギリス、ブリストルのデニングは、イギリス中16名もの観測家を組織して、1869年3月~4月、ヴァルカンの捜索を行ったが成果は「なし」だった。翌年も25名が参加する大がかりな捜索が行われたが結果は同じだった。イギリス航海暦局の最高責任者であったジョン・ハインドは、1873年3月24日にヴァルカンが太陽面を通過すると予測したが、ヨーロッパだけでなく、アメリカ、アジア、オーストラリアからも否定的な報告が送られてきた。ところが、上海にいた単独の観測者が「予測された円形黒点」が当日9時に見えた、という電報を送ってきた。動きなど詳細については言及がなかった。


 形勢が悪くなっていたにもかかわらず、ルベリエはヴァルカンの存在を疑っていなかった。当時のルベリエは60歳にもかかわらず、体型はスリムできれいに髭が剃られていた。見るからに魅力的で知的な雰囲気の男だった。


 ところが、 ルベリエのことをしゃくにさわるヤツと評していたのは彼の同僚だった。ルベリエの怒りっぽい性格は歳と共にひどくなっていった。パリ天文台台長ルベリエの台員たちに対する高慢な態度は実に鼻持ちならぬものであった。あのレスカルボーにもそうした態度で接していたのだ。


 1862年、彼はカミーユ・フラマリオンを台長室に呼び出した。フラマリオンは自らの著作を出版したばかりだった。祝いのことばをかけられるのかと思いきや、ルベリエはこともあろうにこんなことばを発したのだ。


「ムシュー、あなたはもうここには必要のない人物だ。辞めてよろしい」


 フラマリオンはあとで再雇用されるのだが、ずっとルベリエを嫌悪していた。ヴァルカンの存在についても終始批判的だった。台員の間の不満は高まっていき、1870年、ついにルベリエは辞任に追い込まれる。後任は長年のライバル、天体力学の大家シャルル・ドローネだった。アメリカの サイモン・ニューカムは後年、ドローネを評して「これまでに会ったなかで最も魅力的な、そして親切な人間のひとりだ」と述べている。だが、彼の命はそう長くなかった。


 ドローネは父親と兄弟が溺死したことから、極端なほどの水恐怖症になっていた。ボートに乗ることも避け、彼の人生で唯一英仏海峡をわたったことがあったが、それはイギリス王立学士院からメダルを授与されたときだけだった。1872年、彼はシェルブールの海岸を散歩していたとき、ボート遊びに誘われた。不可解なことに、このとき彼はその誘いを受けてしまった!


 ボートが沖へ出ていった頃、急に突風に襲われ、ドローネたちは全員溺れてしまったのだ。こうしてルベリエは再びパリ天文台台長に返り咲き、惑星運動の研究を再開し、論文を次々に発表していくことになる。


 しかし、依然として水星の運動はなぞだった。よみがえっては消えるヴァルカンの存在。 単一の惑星なのか、複数なのか、理論だけでは...  どうしても存在の確証が必要だった。



 1876年4月4日、ドイツの天文学者ハインリヒ・ヴェイバーは中国の北東部から電報を送ってきた。太陽面を小さな円い物体が横切っていったというのである。その動く速さまでは言及されていなかった。ルベリエはかねてから、毎年4月3日頃にヴァルカンの太陽面通過が起こるはずだと計算していたのだ。


 関心を再燃させたルベリエは、1802年から1876年にかけての20余の 「目撃記録」を調査した。1876年10月上旬までには、それらの観測を4つに分類していた。 それぞれのグループがひとつの天体の観測記録に対応しているようにも思えた。最もそれらしい グループは以下のように5回の観測から成っていた。いずれもヴァルカンらしきものの太陽面通過である。


1802年10月10日 ドイツのヨハン・フリッチによる

1839年10月2日 イタリアのポンピリオ・デクピス

1849年3月12日 イギリスのジョウゼフ・サイドゥボタム

1859年3月26日 フランスのエドモン・レスカルボー

1862年3月20日 イギリスのW・ルミス


 これらの観測から、ルベリエはヴァルカンの公転周期を33日と改定し、 1876年10月9、10日にヴァルカンが太陽面を通過すると予測した。


 残念ながら今度も肩すかしを食った。


 いっぽう、1876年4月4日にヴェイバーが報告したものも、実は半影部のない太陽黒点であったことを マドリードのM・ヴェントーサが指摘した。彼は5時間前に同じものを観測しており、計算の結果、 同一のものであることを示したのである。グリニッジ天文台では写真にも記録されていた。 フランスのジュール・ジャンセンはヴァルカン捜索には写真観測が望まれると提案していた。


 観測者の間に強い落胆が広がり、興奮は急速に冷めていったが、 アマチュア天文家の間ではまだ「ヴァルカン熱」は健在だった。


 1876年10月4日、ニュージャージー、モントクレアの「B・B氏」は、 サイエンティフィック・アメリカン誌宛に報告を寄せた。 7月23日に太陽面を横切る円形のものを見たという。その報告を読んだ モントクレアのサミュエル・ワイルドも同じものを見たと連絡してきた。


 聖職者であるE・R・クレイヴンは、故ジョウゼフ・S・ハバード教授が イェール大学の望遠鏡でヴァルカンを見たことがあると伝えた。また、 ワシントン準州で1860年にヴァルカンを見たというリチャード・カヴィントンは、 天文学者がすでにその正体を知っているものだと勘違いをし、当時は何も報告しなかったという。


 ジョン・タイスは1872年、サイエンティフィック・アメリカンに、1859年9月15日に ヴァルカンを見たと報告したが、再び1876年6月にそれを目撃したという。


 1876年が終わろうとする頃には、もはやサイエンティフィック・アメリカンも、 こうした報告を載せなくなっていた。



 ヴァルカンの確認がとれないまま何年かが過ぎた。予想どおりに太陽面通過にならない原因としては、 離心率が大きい、あるいは軌道傾斜角が大きい可能性があった。ルベリエは1877年3月22日の太陽面通過の予測を出した。正確を期すため、21日から23日までの3日間、太陽面を観測してくれるよう観測者らに要請した。エアリーはこの予測をインド、オーストラリア、そしてニュージーランドにも転電し、2時間毎に観測するよう要請した。しかし、今回も空振りに終わった。


 ルベリエは体調をくずし、会議に出席できないほど衰弱していった。天文台台長室にも来なくなった。いままでの過労が原因と見られた。1877年8月上旬、仕事に復帰するが、肝臓癌は確実に彼の体をむしばんでいた。水星問題に再び取りかかる余裕はなかった。9月中旬、症状は深刻になった。23日、ルベリエに死が訪れた。それは奇しくも、あの海王星が発見された日だった。


 モンパルナスの墓地に葬られた彼は、天体力学との長い闘いから解放されたのだった。


 しかし、ヴァルカンはルベリエとともにこの世から去ったわけではなかった。



 1878年7月29日の皆既日食はアメリカから観測できる19世紀最後の皆既日食だった。ヨーロッパではともかく、大西洋をわたったアメリカではまだヴァルカン捜索の手は緩んでいなかった。一般の関心も高く、7月28日のニューヨーク・タイムズ紙には、 「水星軌道内に天体を発見する絶好の機会」と報じていた。日食の当日、厚い雲に観測を阻まれた地域も少なくなかった。


 すでに2度の日食観測経験にあるジェイムズ・C・ワトソン(ミシガン大学天文台台長)は ワイオミングから観測することにしていた。40歳の彼は、疲れ知らずの240ポンドの巨漢で、小惑星を多数発見しているという天文学の専門家だった。当時のアメリカを代表する天文学者のひとりとなっていた彼の目的はひとつ、皆既中のヴァルカンの発見だった。



 日食の朝が訪れると、ワトソンとワトソン夫人はローリンズの宿をあとにし、 気動車(蒸気機関付き客車)で観測地であるセパレイションに向かった。


日食の瞬間が近づいてくるにつれ、各地に陣取った観測隊の緊張は高まっていった。 海軍天文台のニューカム隊がワトソンの場所から約1マイル離れて観測の準備をしていた。 ニューカムもヴァルカンの存在を確認しようとしていたのだ。



 午後3時16分、太陽の銀色の輝きが音もなく空から消えていき、ついに皆既状態に入った。 皆既に入る直前から見え始めたコロナが、「暗黒の太陽」の東西方向に、真珠色のベールを広げていた。


 さきほどまで吹いていた風もやみ、あたりは静けさに包まれていった。暗くなった空には、 プロキオン、ヴェガ、アルクトゥールス、レグルスといった明るい恒星が現れ、 レグルスのそばには水星と金星が並んでいた。西空で眩い光を放っていたのは金星だった。



ニューカムが太陽の東から捜索を開始した。彼の眼の前には太陽周囲の7等級までの恒星が記入された星図があった。皆既終了の時刻が迫ってきた。ニューカムは望遠鏡の向きを変えていった。


 いっぽう、ワトソンは太陽の東西それぞれ15度以内、南北1度半の範囲を捜索していた。たぐいまれな記憶力で捜索範囲にある7等星までの位置をすべて暗記していた彼は、 太陽とかに座シータ星の間に赤みがかった4.5等の明るさの星があるのに気づいた。ほかにも 赤みのある、さらに明るい星を見つけた。前者にa, 後者に b と星図に位置を記入すると、 ニューカムのところに確認を求め走っていった。しかしニューカムは自分の観測で手一杯で、 ワトソンが自分の望遠鏡のところにもどった頃にはもう皆既が終わっていた。


 アメリカの各地から「ヴァルカン見つからず」の報告が入電していた。確認ができなかったものの、ワトソンは確信していたため記者発表を行った。地方紙は「ヴァルカン発見」と報じ、 8月1日、イギリスの科学誌「ネイチャー」の創刊をしていたノーマン・ロッキヤーは、「ワトソンの発見」をグリニッジ天文台のジョージ・エアリーやパリ天文台のアメデー・ムーシェ(ルベリエの後任)に電報で伝えた。



 ニューヨーク、ロチェスターのアマチュア天文家ルイス・スイフトはすでに彗星発見者として有名だったが、日食中、彼は、愛用の屈折望遠鏡を使い、デンバーの地で観測の準備をしていた。


 まもなく皆既が始まるという頃、南東からの風で望遠鏡が揺れ始めたが、なんとか望遠鏡を固定した。


 ついに皆既状態が始まった。望遠鏡を固定したせいで、太陽の西側しか向けることができなかったが、妙な外観の星が2つ視野に入った。どちらも赤みを帯びていて、明るさはいずれも5等。場所は太陽の南西約3度だった。日食後、星図と照らし合わせるとひとつは星図に載っている星「かに座シータ星」だった。 もう一方がヴァルカンだと彼は確信し、ロッキヤーに手紙を書いた。



 ニューヨーク・タイムズは、次のように伝えた。 「長らく捜索者らから逃れながら、ときに不確かな痕跡だけを  残してきた惑星『ヴァルカン』もついにとらえられるときが来た」



 ところが、その後、ワトソンとスイフトの「ヴァルカン」の観測位置が一致しないことが明らかに なった。ニューカム、ホイーラー、ホールデン、その他の観測者らが日食時に何も発見できなかったことも見過ごせない事実なのである。


 ワトソンは、期せずして残る人生をヴァルカン検出にささげる運命となった。彼は、ウィスコンシン大学学長ジョン・バスコムに誘われ、マディソンに新しく建設されるワォシュバーン天文台の責任者となった。


 昔、氷河に覆われていたこの土地では、氷河によって削られたあとに水がたまり多くの湖が出来上がった。ワトソンが天文台建設地に選んだ場所は、メンドータ湖に近い美しい場所だった。ワトソンがマディソンに移ったのは1879年夏。そして、大学理事会の許可得て、天文台の南側に、ヴァルカンを検出する太陽望遠鏡を自費で建設し始めた。


 深さ約7mの縦穴が掘られ、底に口径6インチ(約15cm)望遠鏡が据えられた。穴の底から太陽周辺を観測しヴァルカンを見つけようというのであった。残念ながら、この計画が進む中、ワトソンは急性肺炎にかかってしまう。すぐに医者に診てもらおうとはしなかったため、病状が悪化。1880年11月22日の夜、42歳の若さでこの世を去ったのである。



 ワトソンの死によって、ヴァルカンの存在は再び謎に包まれることになった。



 ヴァルカンが存在しないのなら、水星の近日点移動はどう説明するのか。理論家も困惑を隠せなかった。ニューカムは、もはやヴァルカン仮説は放棄せざるを得ないと考えていた。一方、小惑星帯のようなものなら、黄道光よりはるかに明るく輝くはずだった。しかも、近日点移動を起こさせるようなものなら黄道面から大きく傾いている必要があった。しかも、その存在によって金星や水星の軌道に余計な摂動を起こしてはならないのだ。


 太陽が完全な球形からわずかにずれているせいではないか。残念ながら、観測からはそのようなずれがあったにせよ極めてわずかであり、水星の軌道運動を説明できなかった。


 1895年、「水星問題」は極めて深刻になっていた。 ニューカムはこの年、水星、金星、地球、火星の運行表を出版した。(ルベリエが没した)1877年以降取り組んできたものだった。観測データとの照合から、水星の質量は従来使われていた値の半分でなければならないことが わかったが、そうなると、水星の近日点移動の「説明されていない部分」は1世紀間に38秒ではなく、43秒になるはずだった。


 検討を重ねたあげく、ニューカムは同じ海軍天文台の同僚である アサフ・ホール(火星の2つの衛星を発見)の説(アストロノミカル・ジャーナルに発表された)に同調するようになった。


 ホールは、万有引力が厳密には物体間の距離の二乗に反比例するのではなく 2.00000016乗に反比例すると修正すれば、ヴァルカンの存在を考えなくて済むことを発見した。(残念ながら、あとになってこの仮説では月の運動と矛盾を起こすことが判明した)


 1890年頃には、写真乾板の技術が広がりを見せ、ヴァルカン捜索にも使われるようになった。1900年、ハーバード大学天文台のエドワード・ピッカリングは、10年間におよぶ太陽の写真観測の成果をまとめた。そこには4等星以上の新天体は写っていなかった。もっと暗い天体なら存在するかもしれない、と彼は述べていたが、アメリカにおける乾板写真技術の進歩は目覚しく、まもなく8等級まで記録できるようになった。


 1900年5月28日(北米、スペイン、北アフリカ)、1901年5月18日(スマトラ)、 1905年8月30日(スペイン)の皆既日食でも乾板上にヴァルカンらしきものは全く記録されなかった。


 1908年1月3日(南太平洋)での皆既日食では9等級の天体まで撮影され、 翌1909年、アメリカのリック天文台のウィリアム・キャンベルはついに 「ヴァルカンは存在しない」と結論を下した。8等級の天体なら約50kmの直径しかないはずで、 そのような天体が水星の軌道問題の原因なら、100万個以上存在しなければならなかった。



 天文学者らは「水星問題」に為すすべもなく、もはやお手上げの状態だった。そんななか、意外なところから解決策を提示する人物が現れた。


 なんという奇遇か、海王星が発見されたあのベルリンの地で、35歳のアルベルト・アインシュタインが「水星問題」解決への突破口を与えたのだ。 彼は、ニュートンの万有引力の法則を見直すアイデアをまとめ発表した。空間の幾何学で重力を記述するという彼の理論に従えば、水星の近日点移動もみごとに解明できたのである。


 もはや、誰の眼にも、ヴァルカンの存在は永遠に封印されたかに思えた。


 経験豊かな観測者たちが太陽面やその周囲に目撃した天体はいったい何だったのだろうか。 ときに陥ることのある単なる「見誤り」だったのか。


 名前すら忘れ去られ、その記憶が歴史の奥底にしまい込まれた頃、亡霊は再びよみがえることになる。




4話につづく 序にもどる


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参考文献  3話の内容は事実上ノンフィクション

Transits of Mercury: Seven Century Catalog: 1601 CE to 2300 CE

フィリップ・ド・ラ・イール(ウィキペディア)
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In Search of Planet Vulcan: The Ghost in Newton's Clockwork Universe (Richard Baum and William Sheehan, Basic Books 2003)

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Vulcan (hypothetical planet) (Wikipedia)

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BLIND SPOT PARADOXES: WERE UNIDENTIFIED TRANSITS OVER THE SUN EXTREMLY CLOSE NEO APPROACHES? (Juan Zapata-Arauco, CCNet 45/2002 - 8 April 2002)

Mercury's Perihelion (Chris Pollock, March 31 2003)






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