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#45 コミュ障なんて嫌な相手とつきあえば治るという話。

本来、他人同士だった髙松と宮沢が、テクノロジーのネットで結びつき言語であれこれ語るのがTwitterのスペース。それで気づいたことを書くのがここのnote.

その動機は、お互いに相手に関心があり、相手をより深く理解しようとするからだし、また、それにより自分も変化するからだ。

自分の周りを埋め尽くす人の集合体が世の中だとすると、当然それも変化する。人間の変化が世の中の変化になる。では人間の何かが変化するのだろうか。結局は、思想・考え方である。

そもそも基本的人権なんて、思想そのものである。

単純にいえば、外界への興味・関心から、変化はおこる。外界への作用としての自身の実践・行動があり、その実践・行動の「反作用」を体験し、さらに再度トライしてまたもエラーしていく。この段階で感情という喜怒哀楽があるはず。

そうこうしているうちに、ある一定の方法をみつけそれが効率的だと分かることになる。そして、分かったたことは感動を呼ぶ。ここまでで、思考は個人内部に潜在する言語として内なる言語になる。

分かったという感動は、他者に伝えたくなる。ここに他者にコミットする能力として外部にむけた言語が利用され、外部でコミットされた側の人間は、その共感の能力と興味・関心を要求されることになる。

伝える側は、なんとかあらゆる方法で伝えようとするだろう。つまり両者は、伝え伝えられるというコミュニケーション能力を開発し、それを共有できればそこに合意なり納得というコミュニティができる。

つまりコミュにケーションは他者(外部)への興味・関心からはじまるのだ。いまは、世の中をテクノウェブがつなげていく。思想が世の中を操作し形成し形作る。その促進をテクノロジーが促進している。

我々の世の中の仕事はそもそも他人という人と相互調整することでなりたっているにすぎない。残念なのはテクノロジーは嫌な人とはつきあわないと思えばそれが可能であること。このことがつまりはコミュ障なのだ。

コミュ障、それは病気ではない。自嘲気味に言うときの用語だ。それは、ただ、単純に、今まで述べてきたこと、嫌な相手とつきあえない、だけなのだ。

だからもっと人に興味をもってリアルに出会うことをお勧めする。



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