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「動物の生育過程において、形態を変えること。」 不完全変態って?

学校から帰ったら、2階の部屋にあるべき、私の洋服や文房具や小物などが庭にバラバラにまき散らされていた。鏡は割れていたし、ノートや本は破られて花壇の中に落ちていた。

庭と言っても、小さなネコの額のような庭だから、私の文房具のいくつかは道路にまで散乱していた。私は、驚いて自転車を止めて、道路に落ちているペン立てや色鉛筆やマーカーなどを拾い上げた。庭のツツジの植え込みの上には私のパジャマと下着が乗っかっていた。

『どうして?』

いろいろな感情が沸き上がってきて、私は、大声で叫びだしそうになった。手を握りしめて、必死に、その感情を抑えこんだ。自分の感情をムリに抑えようとするからか、少しだけ身体が震えてしまう。

「大丈夫。大丈夫。」と、大きくひとつ深呼吸して、散らばったものたちを片付けを始めた。

手を動かしながら、私は、今のこの状況を、冷静に、把握しようとする。

『家の中で何が起ってしまったんだろう。泥棒? 空き巣? いやいや、それは無いでしょ。空き巣や泥棒がこんなに派手に、物を外に投げたりしないよね。』

これは、やはり兄の所行なのだろうと確信した。

「はぁ。」

私の兄は、2年前から家に閉じこもっている。今までも、時々、大声をあげたり、部屋で暴れたりしていたから。数ヶ月前、近所の人に警察を呼ばれたこともあった。みんな、きっと好奇心の目で私たち家族を見ていることだろう。

「よしっ。」

とりあえず、気を取り直して立ち上がった。

まず、玄関に駆け込み、鞄を居間に投げいれ、キッチンの引き出しから大きめのビニール袋を数枚手にとって外に出た。

植え込みや桜の木の枝にぶら下がっている下着や洋服を手早く集めた。地面に落ちて土がついて汚れているものと、埃を払えば洗濯しなくていい洋服とを分けながらビニールの袋に入れていく。

机の本棚の上に置いてあったジュエリーボックス兼オルゴールも、庭の敷石に当たって粉々になっていた。お小遣いで少しずつ買ったピアス(私の耳に穴は開いていないんだけど。高校を卒業したら穴を開ける予定)を地面に這いつくばって拾っていく。震える指先で小さなピアスを拾っていくのはもどかしい。それでも、ひとつひとつを確認するようにつまんでは、制服のポケットに入れていく。ほとんどは見つけたのに紫とピンクのガラスのピアスの片割れがどうしても見つからなかった。

夕方になって、辺りが少し薄暗くなってくれてよかった。外を歩いている通行人には地面に這いつくばっている私の姿は見えないだろう。雨が振りそうな気配に、私は急いで本やノートを家の中に入れた。

最後に、ほうきとちりとりで、庭に散乱したガラスの破片や細かいゴミを掃きとった。

「はぁ。」いくらか心も落ち着いた。

私は夕空を見上げ、ついでに、2階の兄の部屋の窓にも目を向けた。もちろん、そこに兄の姿は見えなかった。

母はまだ仕事から戻って来ない。

*  *  *  *  *

私が洗濯機を回していると、6時過ぎに母が帰宅した。早速私は、兄の行動の全てを報告した。それなのに、母の反応は、予想以上に薄かった。

「誕生日に友達にもらったガラスのオルゴールも割れちゃったんだよ。」

「そう、残念だったわね。ガラスの破片は、全部片付けたんでしょ?」

それだけ言うと、母は黙って夕食の支度を始めた。私もそれ以上説明するのが億劫になって、やはり無言で母の隣にたって野菜を洗い始めた。2階の兄の部屋は恐ろしいほど静まり返っていて、人の気配がしない。

『死んでたりして。そうしたら家の中も少しは明るくなるよね〜。早く死ねばいいのに。』

友達は、私のことを時々小リスって言う。笑った顔がリスに似てるんだって。可愛い小リスは、心の底に残酷を言葉をたくさん隠し持っている。

『兄だけでなくて、外に恋人がいる父親とか、意地になって離婚しない母親とかも、ホント、うざい。一緒に死んじゃえばいい。このめんどくさい家族、み〜んな、消えちゃえばいい。そうしたら、私は、一人で自由に、気ままに生きられるのに。』

私は、洗ったレタスとプチトマトをサラダボールに分ける。家族4人だから四つに分ける。帰ってくるか来ないか分からない父の分も、自分の部屋から出て来ない兄の分も、小さなボールに入れる。

母親と二人の、どんよりとした息詰るような夕食のテーブルを思うと、私の手は小さく震え始める。

私の背後から、母が荒々しく肉を炒める音がする。ショウガの香りと醤油とみりんのこげた匂いがキッチンに漂う。この音と匂いってさ、幸せな家庭の夕食のイメージだよね。でも我が家では、それは、ただの「豚の生姜焼きの匂い」以上のものはないんだ。ここには、「#幸せ」も、「#団らん」も、見つけること、できない。

母は、黙々と肉を焼く。何人分の生姜焼きを焼くつもりなんだろう。母の横顔は、青白くて無表情だったけど、下から般若の顔が表れてきそうだった。私は、自分の身体がフライパンで焼かれているように錯覚してしまう。だから、少しも食欲が湧かない。母が一人分の食事をトレーにのせ、兄の部屋に運んでいった。ドアを開ける音がしたから、今夜も兄は生きているらしい。ははは、世の中そんなに上手くはいかないんだよ。

どうにもならない家族。

そこから逃げ出すことが出来ない私。

何がどう間違ったらこんな惨めな家庭が出来上がるのだろう。

母と向かい合って食べる食事は何の味もしなかった。

*  *  *  *  *

食事を終えて、テレビも観ずに自分の部屋に戻る。部屋は、兄に荒らされた後だけれど、そんなにひどい状況にはなっていなかった。兄は、タンスの上に置いてあった衣類と机の上にあった物だけ外に投げ捨てたようだ。だから、部屋は意外にすっきりとして見える。とりあえず寝られるようにベッドの上をきれいに整えた。何だか、私のやっていることすべてが、バカらしく思えてきた。

私は、頭を振って気を取り直して、机に向かう。明日までに提出の課題と宿題を早く終わらせよう。ヘッドフォンを着けて、勉強に集中する。

こんな家族だから、自分だけはしっかりしないと。勉強だけは頑張らないと。家族のせいで自分の人生をダメにしたくない。そう自分に言い聞かせる。

負けたくない。

負けたくない。

負けたくない。

カオリ、一体、あんたは何に負けたくないの? 

自分でもよく分からないよ。私も母と同じで、ただただ意地になってるだけかもしれない。

ふと、電子辞書が無いことに気が付いた。今日は学校に持って行かなかったから、外に投げられたのかもしれない。うんざりとした気持ちで立ち上がり、そっと階段を下りて、家の外にでた。

梅雨に入ってから、すっきりしない日が続いているけれど、今夜は、雨は振らないみたい。めずらしく空が澄んでいて星が見えている。

母のいるリビングルームから光がもれてくる。

私は、物音を立てないように辞書を探す。

突然、背後から声を掛けられた。

「カオリか? おい、お前、何やってるんだ。」

「あっ、お父さん、お帰りなさい。」

父が珍しく、早い時間に家に帰ってきていた。っていうか、このところ、父は家に帰って来てなかったよね。

「そんなところで、どうした?」

父は、私の横に立って、不思議そうに私の姿を見下ろしている。

「ん? 辞書、電子辞書を取りにきたの。」

父は、大きな声で笑い始めた。私は、久しぶりに父の笑顔をみて、ホッとした。

「何だそれ。辞書を取りにきたって? 場所が違うんじゃないか? 植え込みの中に、辞書はないだろう? 」

私は、兄が暴れたことを、父には話したくなかった。父も、せっかく家に帰ってきて、そんな暗い話しは聞きたくないに違いない。母のことも、兄のことも、父の心を重くさせるのが分かるから。

私も、父につられたように、「えへへ」と笑う。

「あのさぁ、帰ってきた時,自転車が倒れて、鞄の中身が、この辺に出ちゃったんだよね。全部拾ったと思ったんだけど、電子辞書だけが見つからなくて。でも、ここにはなさそう。」

「どれ、お父さんも一緒に探してみよう。」

父も、私の隣で屈み込んだ。

「いいよ、いいよ、お父さん。自分で探すし。大丈夫だよ。もしかしたら、学校のロッカーの中かもしれないし。いいよ、大丈夫だよ、お父さん。」

父は、笑って、何か言いそうになったけど、何も言わずにツツジの植え込みの下に頭を突っ込んだ。

父のスーツの匂いがした。ウールの匂いっていうのか、おじさんの匂いっていうのか。でもその匂い、私は、少しも嫌じゃなかった。むしろ、とても懐かしかった。小さい頃、父の髭がざらざらして頬に痛かったこととか、あたたかい腕に抱っこされた時の安心感とか、そんなことが急に思い出された。

父の匂いは、私を小さな女の子に戻したみたいだ。心の緊張がほどけて「わぁ〜ん」って大きな声で泣き出してしまいそうになった。一生懸命に我慢していたのに、涙がぽろりと落ちた。私は、父に気づかれないように背中を向けて鼻をすすった。

『分かってる。私は、お父さんにも、おかあさんにも、甘えることはできないんだよ。だって、私は、もう小さな女の子ではないのだから。泣いたって仕方が無い。私も、家族も、変わってしまったんだよ。人間だって、家族だって、同じかたちのままではいられないんだ。なんだって、時を経て変わっていかなくちゃいけないんだから。』

私は、涙を手の甲で拭って、父に振りかえり、無言でその背中に問う。

「お母さんのことも、お父さんのことも、お兄ちゃんのことも、いろいろなことが難しく絡まっているんだよね? その糸、ほどくのは、難しいんだよね? 絡まった部分をハサミで切り離したら、私たち家族はバラバラになってしまうんだよね?』

怒りのような熱い固まりが、私の身体の中に生まれて、それが出口を求めて暴れ始める。私は、また大声で叫びだしそうになる。

『ほどけないのなら、切り離してしまった方が、ずっとずっといい!』

『これ以上傷つけ合って暮す意味ないよ!』

『中身はボロボロなのに、入れ物だけを維持したってしょうがない!』

小リスの心は、反乱を起こしそうだ。

*  *  *  *  *

しばらく、探しまわったけれど、辞書は見つからなかった。

父と私は、立ち上がって、手や膝についた土を払った。それから、私たちは、顔を見合わせて、声をあげて笑った。

「カオリ、ごめんな。」

父は、笑顔を引っ込めて、ちょっとだけ悲しそうな顔で私に謝った。

「ううん、大丈夫、大丈夫。ありがとう、お父さん。きっと学校に忘れてきたんだよ。辞書がなくても、スマホで単語の意味、調べられるし。お父さん、おなかすいたでしょ。はやく家の中に入ろ。ご飯の準備、できてるから。」

父は、黙って頷いた。

「おかあさ〜ん、お父さんが、帰ってきたよ〜。」

私は、明るく大きな声をあげて、家のドアを開けた。

居間から、母が、出て来た。

「カオリ、あなた、外にいたの?」

母は、驚いたように私を見た。それから、視線を父に移し、お帰りなさい、と小さくつぶやいた。

父を見つめる母の表情は、複雑なものだった。

泣き出してしまいそうな、

戸惑っているような、

そんな表情だった。

それでも、母はすぐに、目に力を入れて感情を押し殺して、あごを引いて強い視線で父を見返した。

二人の視線は、私を間にして、しばらく熱く絡まっていた。

私は、それに気づかないふりをして、サンダルを脱いで家に上がり、キッチンに入った。母の代わりに父の分の食事を温めはじめる。みそ汁を火にかけ、父の大振りな茶碗にご飯をよそう。炊飯器の中のご飯は、まだ、ほかほかとしていた。

「お父さん、今日のおかずは、豚の生姜焼きだよ〜。」










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