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あおひげと、 ケイタイ、

マユは、深夜のベッドルームで夫の携帯を手に持ち、身体を振るわせていた。彼女の顔は、画面の青白い光に照らされて闇に浮かび上がっていた。

*  *  *  *  *

「あの青髯?」

「そう、昔話の青髯の話、知ってるでしょ。それをね、現代風に書き直したショートストーリー。英語も難しくなかった。面白かったよ。」

同じ学部のマユとユカは、週一で英語の短編を読み、討論する読書会をしていた。友達同士のこういう会は、通常2〜3回で消滅するのが普通だけど、この「読書会」は、珍しく1年以上も続いている。マユは、高校生の時に「徒然草を読む会」を女子数人で始め、自然消滅させてしまった経験を持つ。ユカとマユの読書会が続いている理由は、「真面目な読書会」がいつしか、「ビール飲みながらの女子のおしゃべり会」になってしまったからに違いない。毎週金曜日の夜、ユカは、ビールを買い込んでマユの部屋にやって来る。マユも、つまみや簡単な食事を作ってユカの訪問を待っているのだ。

その日、ユカが選んだテキストは「青髯」、ドイツの昔話を現代風にアレンジしたものだった。ページにして4〜5ページの短い作品。

マユは、ユカから手渡された赤い表紙のペーパーバックのページを開いた。

「その、しおりの挟んであるとこ。」

ユカは、マユがそのストーリーを読んでいる間、ビールを飲んでチーズタラを無言で齧っている。

『むかし、お城のような大きな家に青髯という男が住んでいました。彼は、とてもお金持ちですが、青い髭を生やし恐ろしい風貌をしています。今まで青髯と結婚した妻たちは、みな行方知れずになっています。青髯は、若い娘と何度目かの結婚をしました。ある日、青髯は、新婚の若い妻を残して仕事で家をあけることになりました。青髯は、たくさんの鍵のついた束を新妻に渡し、「どの部屋を開けてみてもかまわないが、小さな部屋だけは開けてはいけない。」と新妻に命じました。妻も、その部屋には絶対に入らないと約束をしました。青髯が家を出た後、新妻はひとつひとつ部屋を開けていきます。最後に残った小さな部屋。彼女は、とうとう、好奇心が押さえられず、禁じられた部屋の扉を開けてしまいます。夫の言いつけを守らず部屋を開けた妻がみたものは、青髯に殺された何人もの女の遺体だったのです。』

現代風にアレンジされた「青髯」は、結末が2つのパターンで書かれていた。

ひとつ目の結末は、今まで伝えられてきた話と同じ。夫への疑惑と好奇心を押さえきれず、約束を破って部屋の鍵を開け夫の秘密を見てしまい、青髭に殺されてしまうというエンディング。

二つめの結末は、賢明な妻は、夫との約束を守り、秘密の部屋を開けずに夫の帰りを待ち、青髯の信頼を得て、青髯と幸せに暮しましたとさ、っというエンディング。

「あ〜あ、青髯はお金持ちなんだから、約束さえ守ったら豊かに幸せにくらせたのにねぇ。パターン1の奥さん、やっちゃったよね。でも、開けちゃダメっていわれると、開けてしまうのが人間なんだよね。」

マユは、本をユカに返して、自分用にビールを開ける。

「鶴の恩返しとかも同じだし。でもね、見方変えたら、最後の部屋を開けてしまった奥さんは、被害者だよ。だって、青髯の罠にまんまと嵌まってしまったんだから。青髯は、最初から彼女を殺すつもりでいたんだ。異常な男だよ。」

「ちょっと待って、ユカ。奥さんに鍵を開けさせるのは、青髯のトラップ、罠だったの? ユカはそう読むの?」

「多分ね。私が思うに、青髯は女を信じることのできない人間なんだよ。自分の風貌が醜いからさ、若くて可愛い妻に愛される訳は無いと思っているし、女は必ず自分を裏切るって信じてるんだよ。だから、鍵を渡して,彼女を試したんだ。見せたくないならさ、最初から、鍵を渡さなければいいんだから。青髯は女を信じられない男だから、そんな卑怯な罠を仕掛けたのさ。」

「そうなのかなぁ。私は、そこまで深読みできないな。たまたま、若くて好奇心の旺盛な新妻が誘惑に負けて部屋を開けてしまうだけだって思うけど。ヨーロッパの昔話にあるじゃない、女がさ、好奇心を持つと、ろくなことがないっていう戒め。この話しもきっともそうなんだよ。鍵を開けなかった奥さんの方は、単に好奇心の強くない人だった。だから、部屋を開けなかっただけだよ。」

マユは、勢い込んで言い募る。

「どうなんだろう。部屋を開けなかった女は、たぶん、人を信じることの意味を知っていたんだよ。マユはさ、男と女のこと、全然、分かってないからねぇ。」

「よく言う。自分だってたいして知らないくせに。」

頬を膨らませて、マユは、片手でチーズタラをつかんで口に入れビールと一緒に飲みこんだ。

「どちらにしても、青髯は、妻は必ず自分を裏切るって確信しているんだよ。妻を信用していないんだ。反対に、妻自身も、夫の見えない部分を信じることができず、疑って疑って、夫との約束を破って、最後の扉まで開けてしまう。そして、見たくないものを見つけてしまう。これじゃ、男も女も、幸せにはなれないよね。相手の秘密、暴いていいことなんて何にもないよ。」

「私は、絶対に秘密の無い人と結婚したい。妻に疑惑をもたれるような、そんな人とは結婚したくない。私も、結婚したら、夫には絶対に嘘をつかないし、誠実であろうとするよ。夫婦の間に秘密なんておかしい!秘密が無ければ、疑う必要もないじゃない。愛しているなら、全てをオープンにして、信頼し合うべきだよ。」

タラとチーズから爪で剥がしているマユの顔を、ユカは、まじまじと見て、呆れたような声を出す。

「それってさ、正論で真面目な感じがするけど、なんかズレてない? 聞いてるだけでも、息苦しくなる。マユは、もう少し人間の心理とか勉強しないと。今のボーイフレンドにも、そうそうに、逃げられちゃうよ。」

「はっ? 何なのそれって。この話に関係あんの?」

「ははは、関係あるんじゃない? 結婚なんて、実際どういうものなのか分かんないけど。夫と妻である前にさ、男も女も、それぞれが独立した一個の人間でしょ。だからね、見せたくない過去や生活があったておかしくない。相手に『全てを』さらす必要性が分かんない。だって敢えて必要ないものまで暴き立てて、関係を壊す必要ないじゃん。」

「必要あるでしょ、絶対、必要あると思う! 私は、知りたいもん。知って壊れるなら本物の愛じゃなかったんだよ。」

「そうかなぁ。」

ユカは、視線を泳がせながら、次の言葉を模索しているようだった。

「あのね、マユ。私はね、見えないところまでひっくるめて信じるって覚悟が、人を愛することなんだと思う。『愛する』ってさぁ〜、覚悟なの。覚悟なんだよ。相手が愛する価値のある人間だから愛するんじゃない、信頼できる人間だから信じるんじゃない。自分自身に、意志っていうか、覚悟があるから、相手を愛することができるし、信じることができるんだよ。」

ユカは、自分の思いを言葉にできたことに満足したのか、鼻の穴をふくらませて、得意そうに笑ってみせた。マユは、何となく不安に襲われた。

「そうなのかな。何だかよく分からないよ。私は結婚する相手は信頼に足る人であって欲しいから。私に不安を抱かせないような、安心させてくれる人と結婚したい。」

マユは、弱々しく言って、不安そうにユカを眺めていた。

*  *  *  *  *

十年以上も前の、学生時代のユカとのそんなやりとりを、マユは、暗い部屋の中で思い返していた。

「夫婦に秘密はダメ。私は、夫を愛しているのだから、夫の全てを知る権利がある。それに、私たち、絶対隠し事をしないって、約束したもの。」

夫の規則正しい寝息が聞こえている。夫は、すでに深い眠りに落ちている。眠っている夫は、無防備で、息子とよく似た寝顔だ。その顔は笑っているようにも見える。だいぶ飲んできたようだから、目を覚ますことはないだろう。今夜の飲み会は職場の歓迎会だと言っていた。歓迎会があったのは間違いない。マユは、もちろん、夫の同僚から裏をとっていた。


「あ〜疲れた。飲み過ぎたし。俺、もう寝る。明日の朝シャワーするから、悪いけど、いつもより15分早く起こしてくれる?」

帰るなり、夫はそういって、マユの視線をさけ、マユの顔をほとんど見ることなく寝室に入っていった。夫の背中は、いつもより冷たくて、何だかマユを拒絶しているようだった。もう長い間、夫はマユの身体に触れようとさえしない。

「私を避けたのは、疲れてたからだよ。不審に思うことなんて何にもないよ。」

マユは、手の中にある夫の携帯電話をもう一度、見つめる。

マユの心はざわざわとする。「何かがオカシイ、何かがオカシイ」と耳の奥から聞こえてくる。不安な理由、それをはっきりとさせたい。『夫のことを信じたいのに。』マユは、顔をしかめて歯を食いしばる。

最近の夫は、仕事が充実するのと比例して、残業も増え、帰宅時間が遅くなった。外泊はさすがにしないけれど、休日出勤も度々だ。マユは、いつも夫をにっこりと送り出し、夜、夫がどんなに遅く帰宅しても、優しく迎え入れる。夫を疑っているなんておくびにも出さない。家事も手を抜いていない。子どもの具合が悪くても、夫の仕事の邪魔をしないように、一人で看病し、世話をしてきた。仕事だって身体の弱い息子の為にあきらめた。『私は、頑張ってる。妻の座に安穏としていない。子どもにかまけて、夫をないがしろにするようなこともしていない。私、こんなに頑張っているのに。こんなに夫を大切にしているのに!』

マユは深く息を吐いて、タンスの上に置かれた写真立てに目をやる。そこには、マユと、息子を抱いて笑っている夫が写っていた。幸せな家庭、それが、今のマユのすべてのよりどころとなっている。それを失ってしまったら、マユの人生は足元から崩れてしまうだろう。

『疑ったらダメ。彼、私たち家族を大切にしてくれている。彼が私を抱かないのは仕事が忙しくて、疲れているからなんだ。彼だって家族を守るのに必死なんだよね。彼を信じなくちゃ。』

マユはもう一度、寝ている夫を見て、力なく微笑む。そして、夫のケイタイをサイドテーブルの上に戻した。

いい匂いのコロンをつけて、着るものは下着にまでこだわり、髪型や身だしなみは人一倍気をつけている男。小さなスタンドの光に照らされたその男の頬には黒く髭が浮いて見えるけれど、白い肌にはシミひとつない。『男のくせに!』マユは、言い知れぬ感情に胸が締め付けられる。それは嫉妬にも似た感情だ。結婚してから夫は、ますます磨かれてきたのに、妻として家を守っているマユは、自分に自信が持てない。『夫のように磨かれているのか、輝いているのか』その答えをマユは認識したくはなかった。

『この男は本当に自分の夫なのだろうか。』

寝顔さえ美しい夫を眺めているうちに、マユの身体の奥底から、激しい衝動がわき上がってきた。その衝動は嵐のようにマユの心をかき回し、彼女の身体をグラグラとさせる。今、この瞬間、夫の寝首を搔いて殺してしまうのは容易いことのように思われた。

『やっぱり、このままではいられない。今夜、やってしまおう!私の心に決着をつけよう。はっきりさせなかったら、私はもう呼吸することすらできないのだから。』

マユは、ベッドサイドテーブルに置いた夫のケイタイを、再び、取り上げた。肩で息をしながら画面に指を滑らせる。彼のパスワードは、すでに調べてある。マユは、確信を持って夫のケイタイにパスワードを打ち込む。

*  *  *  *  *

薄暗い部屋の片隅に青髯の影がぼんやりと浮かび上がっている。恐ろしい風貌の青髯。彼の目は、憎しみと怒りで血走っているのに、なぜだか、どこか悲しげでもある。マユを凝視している青髯は、あるいは彼女が作り上げた情念なのかもしれない。不安や疑惑に取り憑かれて、夫のケイタイを開けてしまったマユには、もう罪悪感も後悔もなかった。








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