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才能とは

高校球児が甲子園を目指すように、運動部文化部問わず、大抵の部活はその活動内容に沿った全国大会が各地で開かれている。落語研究部も言わずもがな。おおよそ半年おきくらいに全国大会が開かれており、北は北海道から南は九州まで日本各所の落研部員が一箇所に集まって落語で競い合うのである。優勝賞金は数十万円。学生にとっては高価な上、「日本一、落語が面白い学生」という称号を手にすることができるため、大会優勝を大きな目標にしている学生は少なくない。

大抵学生落語の大会は予選があり、100名以上の参加者の中から上位8〜10名ほどが決勝に進出できる。大きなホールで決勝進出者が発表される光景というのは非常に美しい。嬉しそうに走りながら壇上に上がる者、自分の決勝進出が信じられず感極まって泣き出す者、近くにいた友人と抱き合う者。毎年ドキュメンタリー番組を作ってほしいくらい画になる様を幾度となく目撃してきた。

勝者がいれば敗者もいる。惜しくも決勝に上がれなかったプレイヤーたちの悔しがる姿も心打たれるものがある。悔しさを噛みこらえるやつ、感情が溢れかえるやつ、飲み会で審査にいちゃもんをつけるやつ(これは僕)、参加者一人ひとりの落語にかける想い、ドラマがあるのだ。

お笑いが本当に大好きで仕方がない知り合いの一人が、決勝進出が叶わず泣いている姿を目撃したことがある。そして僕の脳内では過去に彼が発言した言葉がフラッシュバックしていた。

いやぁ、僕練習しないんッスよねぇ〜」

・・・

なんで努力しないんだろ・・・

当時の僕はそう思っていた。

本気で優勝したいのなら、毎日2時間でも3時間でも練習すればいい。それをやらずに悔しがってどないすんだ。

なんて、全く失礼な言動やのう(笑)

才能というのは、先天的なもののみを指す言葉であり、努力なんてやろうと思えば誰だってできる、与えられた時間は平等だからその中で上手いこと時間を作ってやるだけ、つまり努力できる、なんてのは才能じゃないとその時は思っていたのだろう。

しかし、大学を卒業し色々なものに触れたりより多くの人と話すことで自分の中の才能と呼べるものの認識が変化した。

才能=先天的能力×努力可能なキャパシティ

努力を継続するには、自身のスケジュール管理能力や体力、忍耐力なども必要になってくる。それら各能力は人によって異なる。つまり、「努力が苦手」というのは甘えではない場合もあるし、努力の継続だって誰しもできるというわけではない。「他の人だって、当たり前にできる」なんて思っていることが、実はなかなか難しいことだった、ということは往々にしてある。僕の場合は「努力の継続」がそれだった。まあ努力が嫌い、って人は大抵圧倒的センスを持ってる人がほとんどなんだよなぁ(笑)、今でもそれは羨ましい。

僕は不器用な人間だ。皆が当たり前にできることがあまりできないし、文才だってあるなんて言ったら自分が恥ずかしい。最初はドベからのスタートがスタンダード。だけど努力のキャパならアホほどある。過去には先天的な才が少ない自分を呪うこともあったが、今は自分の能力に満足している。「人より努力できる」、これさえありゃ一番にはなれなくても、一流にはなれる。やる。

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