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693/1096 ジャッジの取扱説明書

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で693日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

693日目…ここ数日間のあいだ、サポートを送ってくださったみなさまに、ここで真心からの御礼を申し上げます…ありがとうございます、涙

それから、700日記念のアイデアについてのメッセージをくださった方たちにも感謝いたします!!皆さんのご提案により、ライブ配信などを考えております!また決めて告知いたしますね。

問題はね、話すと止まらなくなることなのです。毎日毎日書いているのにどんだけアウトプットしたいのでしょうね、病気です。

さてさて、700日目のまばゆさのためにあまり目立たない693日目ですが、わたしが今日持つことができるのは今日だけです。今日のわたしはキンタロー飴のように、どこを切っても693日目のわたしですね。

今自分が思う過去も未来も、今日のわたしの創造物でしかないという不思議。そちらに立ってみると、普段時間をつながっているものだと感じている自分の感覚との違いに驚きます。われわれのいかに自由なのかを思います。

時間の解釈が変わるときって、その人の世界が変わるときです。宇宙の移動です。ちょうど、だまし絵を見て別の見方に気がついたときのように。

いやどう見ても老婆に見えるんだが…と思っていたのが、あ!!うわ!!ほんとだ!!若い女やないの!!あばばばばば、見えていなかっただけやわ~~!!となるときと同じで、おなじ世界なのに解釈が変わるときって本当に面白いものです。や、でも、見る世界は同じなのですけれどもね。だまし絵と同じで、見え方が変わっても、見ているものは同じもの。

でも、この世界が”どう見えるのか”が変わるのだとしたら、それは前の宇宙から別の宇宙に移動するのと、なんら変わらないとも言えるのではないでしょうか。それがあまりに面白いので、つい長話になってしまうのです。

え?こんだけ壮大な話が長話の理由の説明のためなのかって?いや、まあ、こんなんだから長話になるのですよね。でも、見方が変わっても見ている世界は同じだから、なにひとつ言うこともないといえばないのだけれど…そう、だから普段は無口なのになあ…(嘘

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今日はジャッジについて書いてほしいとサロンメンバーさんがリクエストを投げてくださったので、それにお応えしてみます。なぜって、サロンメンバーさんをめちゃくちゃ依怙贔屓しているからです。わたしはそこにジャッジがあるのです。非常に楽しくて嬉しくてエキサイティングな、個人的な優先順位が。

心理・スピリチュアル・自己啓発界隈でよく言われることですよね。ジャッジを手放せ。簡単にいうと、「良いor悪い、正しいor間違い、という価値判断を下すな」ということです。その境地を目指している人がたくさんいますが、この「ジャッジを手放す」ということを、皆さんはどう解釈していますか。

これを「ジャッジをするな」ということだと考えている人がほとんどだと思うのですが、でもそれが可能かどうか、それから、なんの目的で自分がそれを目指しているのか、について考えてみたことがあるでしょうか。

今日はこれについて、わたしの好きな解釈を書いてみたいと思います。

わたしは、「ジャッジをまったくしない」ということは、誰にでも可能だけれどそれ相当に難しく、しかもあまり多くの人に必要なことではないと思っています。なぜなら、ジャッジをしないということは「優先順位の消失」を意味していて、それは解脱の領域だからです。悟りをひらくときですよね。

これについてちょっと解説を加えると、優先順位の消失というのは、ある意味で”超感謝状態”です。感謝と言うとちょっと語弊があるかもしれません。”超喜び状態”です。なんだか北朝鮮の香りのする言い回しですね、笑

そこには、いかなるものにも優劣の判断・反応をなくすことからも至ることができます。例えると、100円ショップの爪切りと世界唯一のダイヤモンドに優劣の差がないと見る。自分の子供と海のひとつかみの砂とに重要性の差がないと見る。という状態になるのに、まずは「そもそもこの世のすべてのものがなくてはどんなものも存在することができない」という理解を腹に落とす。そこから「なににでも同じだけ感謝がわく状態」に至り、そこから、優劣をつけて見なくなるということ。

完全に腑に落ちると、すべてのものに対して超感謝状態に入ります。
なにを見ても、最高。どこを見てもなにを見ても、目の前には、あなたの存在そのものを支える愛のみが展開されています。わあ、わたしは存在しているから、いろいろと経験できる、味わえる!我、ある!!すべてのものよ、それを支えてくれてありがとう!!なにを見てもありがたくて嬉しいよーっ!!これはありがたいけど、これはありがたくない、という優劣なんてどこにもないよーーーっっ!!ということですね。

これは、目を閉じてもまだあります。見る、を消してもまだあります。嗅ぐ、を消してもまだあります。触る、を消してもまだあります。五感を消しても、まだあります。「我あり、ゆえに我感謝」です。

これの行き着くところは「空(くう)」の感覚です。なにもかもが同じだけ重要なので、重要性の概念が落ちています。なにかがなにかより大切だという概念がないので、この世界のあらゆるものの境界線がなく、ひとつになっています。あなた自身もそこに含まれているのですよね。するとそのとき、この宇宙はどのように観えるでしょう。

あなたが宇宙を観ている。しかしその宇宙にあなたが含まれるというとき、なにが、なにを見ているのでしょう。

この感覚にあるとき、見ているもの(主体)と見られているもの(客体)の概念も落ちます。これが、完全にジャッジのない状態です。

しかしそのときに、ジャッジしている色(しき)の自分も居るのです。そう、その自分自身に対してすら、ジャッジがないということなのですよね。人を大切に思う自分、自然を愛しいと思う自分、悲しければ泣く自分、赤ちゃんを見て笑顔の出る自分…それらの反応を起こす自分すらも、手のひらに置いて眺めています。その自分を、日が昇り、月が出て、風が吹き、草が枯れ、桜が散るのを眺めるのと同じように眺めています。禅を極めた人は、ああ死にたくないわい!と言いながら、そう言っている自分を死への恐れに囚われずに眺めています。

そのとき、死にたくないわい!が薄まるのでしょうか。そうではないんですね。逆にそのときわたしたちは、「死にたくないわい!100%」の色(しき)にあり、それは「死にたくないわい!0%」の空(くう)に支えられていると気がついている、ということです。

わかりやすく言うと、「いやいや死んでも全然なんともねえじゃん」が己の中にあるからこそ、「いーーやーーだーーーー!!生きていたい!!」と、思いっきり思うことができるんです。お母さんがそばにいて安心しているからこそ、子どもがギャーッと泣いて甘えられるのと似ています。十分に安心していてこそ、十分に怖れることができる。

人生を思い切り味わうことができます。と同時に、人生に完全に覚めている。覚めきったやつになれます。ちょっちゅ、カッコいいです。

わたしは、この感覚に至ることが、あなたの人生に必要ですか?ということを思います。あなたは、優先順位が落ちた領域に行きたいですか。それをなぜ目指しているのですか、ということです。限られた人生の時間を使って、それを明かさずにその領域を目指しても、仕方がないのですよね。目的の感じられないことって、達成されないのです。

わたしは、自分の人生を邪魔する価値判断であれば、手放せれば安楽なのだと思います。自分の世界を十分に楽しむために。自分の命、そのスマホより大切ですよね。人にはその人なりの優先順位があります。でも、たとえば自分のやってみたいことよりも世間体が大切だ、という価値判断があるために望む体験をすることができないということがあれば、そのジャッジは手放すのがいいと思うんです。

そのときに、そのジャッジをする自分を、消そうとしたり変えようとしたりすれば良いのでしょうか??そうしようとすると、ますますそのジャッジが強まってしまいますよね。これが、手放そうとするものほど強く握ってしまう原因です。そんなときは、そんな自分を「あらまあ、ジャッジがあるのねえ」と眺めればいいだけなのです。

「必死だねえ」「やってるねえ」「そんなに大切だと思ってるのねえ」と眺める。まるで他人事です。するとどうなるのか。

そのジャッジにこだわることが、バカバカしくなってしまう。唯一の正解だと思っていた執着が、解けてしまう。なぜなら、傍目に見ると、それがひとつの選択肢でしかなかったことがさめざめとわかるからです。

「それもひとつの選択肢じゃね?」と、外から知識として教わってもダメですよ。すると、「それをひとつの選択肢として見てみなくては!」という新たな執着を得るだけです。そうではなくて、自分がそこにこだわっている姿を眺めましょう。「それを見て自分が感じること」からしか、その体感その感覚からしか、展開しないのです。

うまい喩えがないかしら。。。
そうだわ、例えば、彼に浮気の疑いが出てきたとして、どうも間違いないと思い、相手を束縛したいがあまり彼の働く職場にこっそり行って、帰るところをつけて回っているとします。そのときに、誰かから「ねえ…やってることヤバイよ?」と言われても、うるさいわね!黙ってて!と思うけれども、こっそり撮影されたその自分を動画で見たとしたら、自分で自分に対して「うわ~異常な姿!や、やめよ…」と思うのと似ています。なんか違うけど。笑

そういうことってたくさんありますよね。わたしの母は、横断歩道は手を上げて渡るものだと信じ切っているため、渡る最中は指先まで力を入れて、斜め上に向かって真っ直ぐに腕を伸ばして渡っています。

しかし母はそれを、歩行者天国でもやっているのです。ひとりで手を上げて渡っています。何故か鬼の形相で。そして街歩きに疲れているのです。わたしは何度か、不要なときは手を上げなくても良いのでは?と言いましたが、「なに言うんだ、横断歩道は手を上げて渡る。それは警察に訊いたってそう言うぞ」と言うのです。信じきっているから、疑問に思わないのですね。で、あるときその姿を思い浮かべてみてもらったことがあるのですが、できた途端に驚愕していました。傍目に見てみてはじめて、おかしい!と思ったようです。自分で眺めて自分で気がつかないと、崩れないものなのですね。

これと同じように、自分にとっての不要なジャッジを眺められればいいだけではないでしょうか。優先順位というものは、その人の個性を構築しています。わたしにとっては、デジタル機器がダイヤモンドより大切です。火事になったら、宝石類には見向きもせず、パソコンとスマホとタブレットを持って逃げます。

わたしたちの優先順位は、ひとりひとり、指紋のように違っています。それはあなたがこの世界をどう解釈しているか、ということ。あなたに固有の優先順位があるかぎり、あなたはあなたを生きていて、あなたの使命を果たしているのです。あなたのジャッジは、あなたをあなた足らしめているのです。

旅行が何より好きな人は、違う景色を見ることへの優先順位が高い。それを愉しめばいいですね。バードウォッチングが好きな人は、鳥という生物の優先順位が高いのです。それを、思う存分愉しめばいい。

自分ならではの指紋のような優先順位を楽しむとき、その人はその人なりの解釈でこの世を楽しんでいるのです。それを無くすために頑張らなくても、そのジャッジを乗りこなしたときこそが、ジャッジに「囚われて」いないのだと言えますね!こちらが己のジャッジを「捉えて」いるのです。

あなたのジャッジに振り回されるのではなくて、乗りこなしましょう。
すると、ジャッジは利用するものに見えます。
観察して使うものに見えます。

あなたの”中”にあるものではなくなります。
あなたがただ採用しているもの。
あなたの外側にあるもの。
本質ではないもの。おもちゃ。楽しみ。エンターテイメントです。

そうやって自分のジャッジを離れたところから眺めることを、ほんとうに「ジャッジに囚われない状態」だと言うことができるのですね。

というわけで今日は、ジャッジを持ったまま、ジャッジを楽しんで、遊び道具にしましょう!というお誘いを含んだ、わたしの好きな解釈のシェアでございました。

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