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676/1096 やる”べき”ことこそ、愉しめばいい!

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で676日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

676日目。新しい企画の実質的な検討に取り掛かってみていて、楽しくてどうしたものやら!けしからんレベルで楽しく、仕事なのか遊びなのかと訊かれても明確に答えられない。

考えてみればこのブログも、仕事なのか趣味なのか遊びなのかと訊かれても、うーむ。どれでもある気がするから、呼び方はどうでもいいのかもしれない。新たな企画同様、人生でやってみたいと思うこと、の一種だ。

それももう始めて676日かァ・・・
なにをするにも当然のことだけれど、目的があると、そのためにやることが発生する。目的達成のためには、手段をこなす必要がある。三年ブログを書くのを達成したときの自分の感覚を味わってみたい、という目的があると、当然毎日書かなくてはならない。それが必須だ。大変な日もあり、楽な日もあり。大波小波に毎日揺られる。

その必須事項を旅の楽しみだと思えると、ものごとは続き、発展するのだなあとつくづく思う・・・人生にも言えることなのかもしれない。必須事項をどう見るか。これが大切なのだとブログの毎日投稿を通して知った。

残り420日の旅を、足元のたんぽぽを楽しみながら歩くように、その日その日を楽しもう。。。

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上に書いた、なにか目的が現れたときにその達成に必要なことや、あるいは人生に必要なさまざまな必須事項について、以前のわたしはいちいち突っかかっていた。なんでこんなことしなきゃならないんだ!!と、いちいち、いちいち思っていた。今思えば、なんと大変な暮らし方・・・!!

今日はこの必須事項について、書いてみようと思う。。。

わたしは自分のやることは「楽しいこと」に限定しようとは思っておらず、「やってみたいこと」をやるのが好きだ。それはもしかしたら、大変かもしれないし、怖いかもしれないし、続かないかもしれないし、失敗するかもしれないけれど。

ある程度の余裕を持って暮らすための収入を確保するのも、家庭を持つのも、子どもを生み育てるのも今の仕事も遊びも、自分で決めて自分でやっていることだから、今わたしが「仕方なくやっていること」というのはひとつもない。好きでやっていることは、大変でも大丈夫なものだ。

しかし、あるではないですか、そのために発生する面倒なアレコレや、生きているだけでどうしてもこなさなくてはならないことって、いろいろと。。

自分で好き出始めた仕事でも、そのために好きでもない電車に乗ったり、飛行機で長距離を移動したり。事務的なことをしなくてはならなかったり。そういう面倒さを100%避けようとする人もいるけれど、わたしは気楽なプーさん頭なので、これらと戦わなくていいと思う派だ。

むしろそれらはその「仕方ないこと」には含まれないと思っている。なぜならそれらのことは、自分のしたいことをするためには、やる他に選択肢のない”必須事項”だから。

わたしたちは人間だ。毎日、生きる以上は人間だ。それについて「わたしいつも仕方なく人間を選んでいてさァ~」と言う人はいない。他に選択肢がないからだ。生きたいなら、人間でいるしかない。猫とか蝶とかを選ぶことはできない。それと同じようなことってたくさんある。山の上の空気を吸いたければ、まずもって山に登るしかない。わたしが日本でイベントをしたければ、飛行機で移動するしかない。

わたしはそれに対して、「仕方なくやっている」という意識を持っていない。なんかそれは、ちょっとバカみたいな気がしてしまう。どうしようもないことに文句を言っても仕方がないから。例えばそりゃ我々も千手観音だったら一度にもっと多くのことができてめっちゃ便利なのかもしれないが、だからと言って今の自分の身体に不満を持って、「うーわまた今日も腕二本だよ。なんで二本??マジ超不便なんだけど」とか「仕方なく腕二本で暮らしてます」などと言っているのって、真に無駄でバカだと思うから。

だから、こうした必須事項に対しては不満としてカウントしても仕方がなさすぎるので「どうやってスムーズにし、どうやって快適にし、どうやって面白がり、どうやって楽しむかということにチャレンジする必須ステージ」だと思うことにしている。

かつ、わたしの感覚には、『必須事項をどれだけ楽しめるかということが、人生を楽しむいちばんのコツじゃないか説』がある。

わたしがこうした”必須のこと”に負けてしまって好きなことをやれなかったとき、あるいはそれらについて嘆き愚痴らなくちゃやってらんなかったころは、そもそも必須事項を、「必須」だと認めていなかった。割り切るべきことが見えていなかったのだった・・・・・

お前どんだけ弱いねん!!と言われても仕方がないのだけれど、毎日電車で移動って…無理だ…わたしにとってあれは巨大なゆりかご…一度眠りの世界に誘われれば目的地への到着は不可能であろう…とか、朝早いって…それへの対応のみでHPゼロです…とか、嫌だ…人前に出て話すくらいならゴキブリを素手で掴んだほうが楽…とか、毎日身だしなみを整えて出勤?!幽体離脱による霊体出勤でなくてはちょっと…などという理由で、興味のあったことすら試してみる前からバサバサと却下していた。

当時のわたしは、毎日の移動も面倒、毎日身ぎれいにするのも面倒だった。言わずもがな、掃除もお風呂も、基本的な快適な暮らしを支える作業の何もかもが面倒だった。そのころのわたしは、自分のことを、それらの必須事項に時間や気や体力を使ってまで支えるほど「価値のあるもの」だとは、感じられていなかった。

人は誰しも、価値があると感じられているものは綺麗にしておく。大げさに言えば、大きなダイヤモンドを買ったら大事に大事に宝石箱に収めるだろう。もし超高級車を手に入れたらピカピカに磨いておくものだ。。細かい傷すらもつかないようにするだろう。中でチョコ菓子を食べたやつ死刑だからなと周囲に伝えて回るだろう。誰かがその中でアイスを食べてシートにベチャッと落としたりしたら、小学生だろうと中年だろうと老年だろうとキレる若者以上にキレて、夜な夜な貞子の格好で現れてその人が恐怖のあまり腰を抜かす姿を見るまで気がすまないことだろう・・・!!

しかし、汚れた中古車を買って、それをどうでもいい価値のないものだと感じていると、わたしたちは中で平気でお菓子を食べる。ポロポロこぼしても手で払っておしまいだ。ボディも毎日磨くわけでもなく、雨のあとがたくさんついても、多少傷がついても放っておいたりする。それがふさわしいと思っている以上、その扱いに疑問を持たないものだ。

わたしもそれと同じように、自分自身に対して、基本の必須事項のためですら手間ひまかけてあげる価値を見出していなかった。ただ面倒だった。だから、自分に価値を見出すまでは、その必須事項を進んでこなそうとは、どうしても思えなかったのだった・・・

わたしは、多くの人にとっての必須事項である、身体を洗う、料理をする、買い物をする、洗濯や掃除、収入を得る、移動する、などなどなどのことをきちんとできる人を素晴らしいと思う。でも、それを進んでできる人と、イヤイヤながらやっている人とのあいだにはある大きな違いがある。それは、

山の頂上から景色を見てみたい→山に登るのが必須
滋賀県にいるが東京で遊びたい→移動が必須
素敵なわたしを綺麗にしてあげたい→身だしなみを整える

のように、自分のやりたいことや自分が価値を感じる行為が先にあって、それに必須なことを当然のこととして割り切ってやっているのと、

身だしなみを整えない→軽蔑される
掃除をしない→家族に迷惑がかかる
電車で移動しない→そんな仕事殆ど無くてお金に困る

のように、必須なことをしなければ嫌な目に遭うと考えて、仕方なくやっているのとの違いだ。つまり、厳密にはその人にとってそれは本当に必須のことかどうか、真心から検討されたことがないということ。

一度でいいので、みなさんが必須だと思っていることが「なぜ必須なのか」を書き出してみてほしい。

掃除→自分はきれいな部屋で過ごすべき人だから
掃除→やらないと見下されるから

前者のようならば割り切って自分がやるか専門の人にやってもらえばいいし、後者のようならほんとうに必須なのかを見極めてみて!

そこからよーーーく考えてみると、「いや、そもそも自分が汚い部屋にいたくなかったわ!そのためなら割り切れるわ!」とか、「ああ、掃除をしないと見下されるのではなくて、掃除をしてもしなくても、そもそも見下されていると自分で思っているんだ。それが原因なのだから、掃除が必須というわけじゃないんだなァ・・・」とか、いろんな気付きが出てくることがある。

そこから、自分にとってマジで必須だとキッパリと思えることだけをやる。
ここからスタートすると、必須であることは好きな目的に向かっていて、必須でなかったことは不要だったとわかる。不要なことをしないぶん、エネルギーを失わず、また、自分のために必須事項をこなせることが深いところで自信になる。するとなんと、逆説的に自分に価値を感じられるようになるのだ。ここが重要。

自分に価値を見いだせず、そのために必須事項に心が負けてしまう人は、「世間がなんと言おうとも自分にとって本当に必須かどうか」を洗い直そうとする視点の切り替えがきっかけとなって変化することがある。

「周囲がどれだけ面倒だと言っていようとも自分にとってはきっぱり割り切るべきだと思えること」と、「常識でどうだと言われていようとも自分にとっては不要なこと」とを見極めてみてください。で、割り切れることだけをするのです。いずれは、それがだんだん緩まり広がり、以前は嫌だったことが割り切れるようになりますよ。必須事項にイライラせずに暮らせると、本当に息がしやすいのです。ぜひ、お試しあれ!!

というわけで今日は、どうしてもこなさなくてはいけないことを、キッパリ割り切るか、キッパリ不要と認めるか、心の仕分けをしてみましょう!というお誘いでありました。

好きでやっていることなら、大変でも怖くても辛くてもいい。好きなら、それらのことは問題ではないのです。でも、どうせやらなきゃならない必須のタスクこそ、できるだけ楽しむべきなのです。

どなたかが気楽になる切っ掛けとなってくれますようにー!

それではまた、明日ね!

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