義理歩兵自伝(16)

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義理浪士の成人する前の人生を短くまとめると、
 
小学生当時・・・主に熱燗の日本酒(つまみはスルメ、さきいか、塩辛、秋田名産いぶりがっこ、秋田名産ハタハタ漬け、ツナピコ)
を愛する酒呑みで、父親の会社に働きに来る若い衆たちが次々と、哲学ヤクザが豚箱と呼んでいたいわゆる刑務所というところに入ってしまうのでシャバの世界は犯罪まみれなのだと信じ込んでいて、いつもボヤっとしているために学校の行事がいつあるのかなどを一切把握できず
 

中学生当時・・・相変わらず熱燗が一番好きで、女子たちが常にどこからか仕入れてくる流行情報にまったく疎かったために何かにつけてダサく、それがコンプレックスとなって心に闇を抱え、あの魔太郎と同じ傾斜で猫背、継続してボヤっとしていたために学校の行事がいつあるのかなどを一切把握できず

高校生当時・・・熱燗歴10年以上、彼氏ができた喜びで魔太郎の傾斜完治、彼氏のことしか考えられずそれに激しく依存、友達もほとんどできず、
継続してボヤっと&学校の行事がいつあるのかなどを一切把握できず

卒業後・・・日本酒愛継続、ニート時に魔太郎の傾斜再開、どこかに勤めてもボヤっと&会社の行事がいつあるのかなどを一切把握できず
 
 
と、このように惨憺たるものだったため、友達、というものと縁のないまま大人になってしまったのでした。
しかし、そんな義理浪士にも、「友達」と呼べる存在との、運命の出会いというものがありました。
 
 
まだ窓割れアパートに住んでいた頃に大卒浪士は彼の友人たちを私に紹介してくれました。

大卒浪士の通っていた私立の中学・高校一貫進学校当時の友人の、国内有名大学卒業~有名企業就職を果たしたエリート戦士たちとその恋人たち。
義理浪士にとって、話したことはおろか、見たことも聞いたことも袖すりあったことも、その臭素が鼻に入って匂いを感じたことすらもないような、
社会のピラミッドのトップに君臨するような人物たちでした。
 

義理浪士はどのような社会の団体からも疎まれてきたビターな青春時代の記憶しかなかったため、彼らと知り合ったことが嬉しく、特にそのエリート戦士たちの恋人女性も混ざって集まる日などには、それに喜々として参加しました。

大卒浪士の友人たちと集まるとき、落ちこぼれ界からの参加者はいつも自分だけでした。(日本酒愛、魔太郎傾斜、集まりの計画などは一切把握できず、なども継続)

その中にいた、慶応義塾大学現役合格~超有名企業就職、身長平均以上、脚長、筋肉質、頭の回転も早い、もはや黄金のバックグラウンドを持つ完璧な男と、鈴木京香似の勤勉で清潔で何事も丁寧に取り組むその彼女。

初めて彼らと揃って居酒屋に行った日、義理浪士は自分の特技はニートであり、学歴も職歴もなく、勤勉さ・真面目さに欠け、その欠け方はもはや尋常ではなく、奇特な性格のために友達もできず、ほとんど長所のない豚である上に貧乳で、彼らのような人物と知り合ったことすらなかった、ということを伝えました。

しかし、彼らはそれを笑ってくれ、楽しく会話してくれたのでした。

以来、そのカップルと会うたびに義理浪士は友達づきあいというものの楽しさを味わいました。

そして、その付き合いは、これまでの波乱の時期の間にも途切れることなく続き、友情は強固なものとなっていったのでした。
 

彼らは義理浪士が夜のお仕事を始めようとも、アロハシャツビジネスで失敗しようとも、無一文になろうとも、年に何度か食べ物や飲み物を買って会いに来てくれ、同じように楽しく過ごしてくれるのでした。

のちにそれぞれが結婚して夫婦になってからも、主に義理・大卒浪士宅に集まっては自炊料理でおしゃべりを楽しみ、夏場には一緒にキャンプに行き、爆裂に馬鹿なことを一緒にして、暮らしの辛さを笑い飛ばして過ごせる、貴重な友でした。
 
 
大卒浪士がガーデンデザイン会社を立ち上げる頃、義理浪士はクラブをやめ、彼らと会うこと、日曜大工でお部屋改造、畑仕事、この3つを楽しむことのできる、貧乏とは言え今までに比べはるかに穏やかな暮らしを持つことができました。

会社の立ち上げに伴い、司法書士を頼らずに会社の定款を定めたり必要な書類を用意して各手続きを踏むために忙しくしながらも、義理浪士は希望に燃えた楽しい日々を送りました。
 
 
しかし、会社を立ち上げたばかりの頃というのは仕事がすぐに得られるわけでもなく、経済的には困窮した状態でした。 

ポツポツと不定期に入るデザインの仕事だけでは食べてゆけず、私たちは庭木の剪定作業も請け負うことに決めました。

いわゆる植木職人の仕事で、この主な作業はひたすら草刈りや木の枝払いをして庭をきれいに片付けるというもので、ほとんど日雇い肉体労働と変わらぬ収入しか得られないのですが、当時の私たちにとっては致し方ありませんでした。

初めのうちは大卒浪士が1人で受けていたこの剪定作業は、次第に意に反して数を増し、とうとう彼1人では体がもたなくなってきました。

 
義理浪士は、クラブで働いたお金は生活費と会社の立ち上げに消えてしまったことが情けなく、また、背中の唐獅子にまだ義理ローンを背負わせていたため、それを黙って見ているわけにはいかなくなりました。
そして、ついに決心して、大卒浪士に告げました。
 
 
義理「自分、次の剪定作業、一緒に行きやす・・・・・・・」
 
大卒「え・・・・!何言ってんの!!できないって・・狂ってるよ!!」

義理「決めやしたんで。」
 
大卒「マジかよ・・・・・・キツすぎるって・・・半端ねえよ?」

義理「自分の体力、なめんでください」
 
大卒「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 
義理「ごっつぁんです」
 
 
大卒浪士の反対を押し切って半ば無理やりついて行くことに決め、義理浪士はこうして、なんと植木職人デビューを果たしたのでした。
 

木の上にいるときに袖やズボンの裾などに枝が引っかかると危ないため、仕事に行くときは手甲をつけ、地下足袋を履いて、頭にもキャップをかぶって、
この姿で脚立を担げば、どこからどう見ても植木職人そのものでした。

義理浪士はこの時も、ほんの少し前までは白い着物にルイ・ヴィトンのバッグを持って駅前を歩き、人々をモーゼが海を割った時のようにザーッと2つに分けて闊歩していたことを思い出し、そのあまりに、あまりにひどいギャップに自分でも茶を吹きました。

義理浪士にも、この時はまだ、女の恥じらいというものがあって、クラブのお客さん宅から依頼が入ったらどうしようかと、ビクビクしていました。

木の上に登って枝を払う仕事の辛さというものは、始めてみると、女の自分にはとてつもなく大変なものでした。

剪定鋏の当たる部分には、いくら軍手をしていてもあっという間に豆ができ、それが破れて、鋏を持つのもためらわれるほど痛みました。

腕を上げて枝を切っていても、腕の筋肉がすぐに悲鳴を上げ、夕方には頭にかぶったキャップの位置を直すことすら苦痛になるほどでした。

冬場の剪定時には、目にも鼻にも藪の土埃や枯れ葉の崩れたものが入って、作業後に鼻をかむと、真っ黒な鼻水が出ました。
剪定の依頼が入るたび、朝早くから夜暗くなるまで、こうして拷問のような労働に従事しました。
極寒の日には鼻の頭を真っ赤にして作業しましたが、当時、このトナカイ状態をカバーするメイク術を発見したため、今も泣いたあとなどにそのスキルが役立ちます♪

作業が終わると全身が筋肉痛でもう少しも動きたくなどないのに、他の一般的な植木屋さんがするように剪定ゴミを産廃として捨てるお金もなかったため、軽トラに載りきらないほどの大量の木の枝をさらに小さくカットして袋に詰め、可燃ごみにする準備をしなくてはなりませんでした。

これは、夜のお店でホステスをするのがキツイだとか8月に外で寝るのが寒いだとか、そういうレベルの辛さなど何かのアトラクションにしか思えぬ程の全身に堪える直接的なダメージで、何時間も続く枝を切り刻む作業には無言で耐えました。

黙々と鋏を動かしながら、刑務所にいる模範囚というのはこういう気持ちで様々な作業をこなしているのでは、、、という妄想を何度もしたのを覚えています。

筋肉痛は慢性的で、元々6つに割れている腹筋がこのハードなウエイトトレーニングによって板チョコのようにくっきりと形が現れました。
そして義理浪士は、健様というよりはもはや田中邦衛寄りのオーラを放ちつつある自分に、なぜかふんわりとした優しい満足感を得るようになっていました。

義理浪士はこのとき、ようやくあの窓割れアパートで決心した「自分たちの事業を始めるのだ」という夢が叶ったことを喜び、楽しんでいる自分を感じていました。

自由だ、自由だ!
我々は自由だ!
貧しくとも痛くとも、これぞ、フリーダムというものだ! 
 
これが軌道に乗ったら、やっと義理も返せたというものじゃないか・・・!
ぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬ
退かぬ、媚びぬ、省みぬ・・・!!!!!
植木屋に逃走はないのだ・・!
 
 
当時、なぜかいつも眉間に赤く大きなニキビができていましたが、それはこの決心によるものだったのでしょう。
(意味不明の方は、「北斗の拳 サウザー 名言」で検索) 
 
 
こうして柄でもないスポ根精神を発揮して、なんと植木職人になっ(ちまっ)た義理浪士は、厳しい肉体労働に耐える日々を送りました。
 
 
大卒浪士は日頃から夢中になってデザインの発想を磨いていたのが少しづつ花開き、会社に庭のデザインの仕事が入ると、これまでに学んだ知識でCADを使って図面をひき、様々な資料を用意してプレゼンに挑み、相見積もりをとっているお客様たちから依頼を受けるようになりはじめました。
 

しかし、まだ会社の経営がギリギリだったため、庭のデザイン工事を請け負っても、工事自体を下請けに流す余裕がないのです。

つまりそれは、自分の会社で工事をしなくてはならないことを意味していました。

・・・・言うまでもないでしょう。
このあと義理浪士は、土木工事現場作業員デビューも果たしたのです。

とび職人用の寅壱のニッカポッカを履き、頭に白いタオルを巻き、耳にタバコを挟んで、腰にはハンマーやコテをぶら下げて朝も早よから鼻息荒めて仕事に行きました。
一応日焼けは意識していたため、その服装でクラブでホステスをしていた頃と同じメイクをしていました。(*´艸`*)

 
休憩は缶コーヒーとヤニで一服、
昼食はその格好でコンビニに入り、のり弁を買って土まみれで食べ、

くわえタバコでダダダダとコンクリートを壊し、セメントを練ってブロックを積み、土を掘り返して庭づくりに精を出しました。

自分は、肉体労働者への憧れと尊敬を死ぬまで失わないと思います。 
あの根気、あの気迫、頭が空になるほど単調な作業、重量とのせめぎあい。

初日に何度も避けようとした、コンクリートの袋をドサリと降ろす度に空中に舞うセメントの粉を吸い込むこと、指先の大きな切り傷に練ったセメントが入り込むこと、シニョンにした髪が土まみれになること、

それらのことに少しも心が揺さぶられなくなるほど心の外皮が厚くなっても、それでも尚且つ、作業中の筋肉の痛みから逃れる策を探し続けてしまう弱い自分が、その外皮を破って顔を出しました。

 
そんな弱い自分がもぐらたたきのように顔を出すたび、それをハンマーで叩きながらこの自由の日々をバタフライで泳ぐ義理浪士に、そのすべてをストップさせる出来事が起こりました。
 

 
自分の人生に起きた唯一の「奇跡」と言えるその出来事は、今もなぜ起こったのか自分にも説明のつかないことなのです。

次回へ、つづく!!!

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