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627/1096 「変わって欲しい」の反転法

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で627日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

627日目、平凡な毎日が楽しくてたまらない。絵を描いたり仕事をしたり、家族と話をしたりして、日のリズムに準じて生命活動を体験する日々だ!

人生をこうして、鼻歌を歌って歩むのもいいものだな~と改めて驚いてしまう。自分は不届き者だし、かつ人生にはなにかしら大小の困難がついてくるものだけれども、まあそこにもその時々で快く応じながらいけばいいさ。。

日々の個人的で細々とした面白みに人生の美しさを見いだせるなんて、そんな自分につくづく「よかったじゃないかよー!!」と思う。自分はこれまで「もっとこう、わかるか?!ドカーンとだよドッカーンと!ほんでもってバサーッと!バッシーンとだなあ!!え?!」みたいな色100%だったから、意外で嬉しい。多くの人が自分らしさみたいなものを探そうとするけれど、探さないと出てこないような「らしさ」なんて、人生に不要な、どうでもいいことのような気がする。

たった今気がついたのだけれど、この毎日投稿もあと3ヶ月もすれば残り一年を切ってしまう。有限のものに取り組むのはなんとエキサイティングなことだろう。ここにこうして、日々の気持ちを綴れるのもあと1年とチョットなんだな。今日を大切に書くとしましょう。。。

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みなさんは、周囲の人にイラッと来たり、全力でムカついたり、することはありますか。わたしにはよくあります。

それらはまず、まずというかほとんど、夫に対して起こる感情です。

夫はわたしよりも「守らなきゃ」意識が強く、それは非常に頼りがいがあることでもあるのですが、たまにその心配が肌に合わず、

「セキュリティセキュリティって言うけどあなた、強盗とかギャングスタとかマフィアとか戦争とか、そうそうすぐそばには来ないから!!」
「無駄な殺生はやめて!そんなにしてまでわたしを虫から守ってくれなくて大丈夫だから!」

などと思います。思ってしまうのです。大抵はこのようなしょーもないようなことなのですが、危機管理の感覚の違いが「なんでやねんポイント」になりがちなのです。

こんなときに相手を変えたいと思ったりしないでしょうか。わたしは横断歩道を渡るときに必ず腕を引いてくれようとする夫などに、「もうちょっと過保護を緩めて大丈夫なのに!」と思ったりします。

そんなときに、みなさんはどうしますか。相手を変えようとしても仕方がないことだということは、多くの方が知っていることですよね。でも、「変わればいいのに」と思う自分が出てきたときに、どうしていますか。

わたしはこのことで、夫を少しも悪いとは思いません。だから、夫を責めたい気持ちは湧いてこないのです。

これに関して、いろいろな考え方があると思うんです。変えるべきなのは自分だ、と考える人も居ますよね。それもとても良いと思います。そこから誰のせいにもしないことで目が覚めるように気がつくことってありますよね。それがいちばんだと思います。

でも、そう思って自分を変えようと試みてもうまくいかなかったり、かえって苦しくなってしまうものがある、という人もいるのではないかしら・・!今日の記事は、そんな人に読んでもらえたらと思うことを書いてみます。

わたしももちろん「相手を変えようとしても仕方がない」と思います。でもそれは、「変えられるのは自分だけだから」ではありません。それがもう、『起こっていることだから』です。

わたしは「変えようとしても仕方がない相手」というものに、自分も含めてしまうのが好きです。自分が「相手に変わって欲しい」と思ったとき、そんなわたし自身をも、変えようとしなくていいと思っているんです。こう書くともしかしたら、「それってなにかいいことあるの?」と思われるかも知れませんが、わたしはそれがお気に入りです。

なぜお気に入りなのかと言うと、そんなふうに感じていると、「変わればいいのに~!」という感覚が、とてもシンプルな、ちょっと自分を燃えさせる『願い』になってしまうからです。

例えば、「ああ、この芽が育ったらいいのに!」とか「明日晴れたらいいのに!」とか「絵が上手くなったらいいのに!」というような願いたちと同じように。

(「変わればいいのに」という感覚が、「これは良くないことだから」「今のままでは悪いことが起こるから」という恐怖から生まれていることもありますよね。そんなときに「変わればいいのにと思っていたければ、好き勝手に思っていればいいわよ」と自分を開放(突き放す、ともいいますねw)すると、それらはシンプルな願いとはならず、徐々にどうでも良くなってきてしまいます。)

変わればいいのにと思うことを禁じてしまうと、中にはとてもつらいことってあると思います。そんなときは、「そう思ってももちろんいいさ!」と自分を開放してみてはいかがでしょうか。

そうすると、前提として「自分が勝手に変わればいいと思っている」「それを、自分で好きでやっている」と感じられます。それから、「ただ湧き上がっているもの」に見えてきて相手にしても仕方がないような気持ちになったり、「変わったらいいな~!という気分の良い願いだったわ!」と気がつくこともあります。

「変化して欲しいもの」に出会って、どう考えたら良いのかわからなくなってしまうときがあれば、「変化してほしいと思っているんだな」「そうだね、そんなふうに思うものだね」と、自分に湧き上がってきたものを否定せずに、あまり相手にしないでいてみるのも手です。

咲いた花を見るように、崩れたお天気を見るように。
起こっていることを眺めてみると、それだけで抜け落ちるものがあるんですね。変化してくれないかなあ~と思ってもいい、と考えるようになってから、わたしは夫がもしかしたらいつか「強盗が来る確率、低いっしょ」と思うのかも知れないことを楽しみにしているのだと気が付きました。どこか彼が別人になってしまうような気がしてゾクゾクします。晴れたらいいな、と思うのを苦しいと感じないのと同じように、それを持った自分とともにあることが心地よくなりました。

今のところは、それに加えて、一生懸命に危機管理をしてくれる夫に、「男の子だなあ、可愛いなあ、バットマンみたいな気分なのかなあ」と思っていることにします(本人には内緒だけども!)。

というわけで今日は、なにかを変化して欲しいと思うことを、なんでもかんでも禁じなくていいですね。そこを歓迎して、緩めてみるのも手ですね!という感覚のシェアでございました。どなたかと響き合えますようにー!

それではまた、明日ね!!

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