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479/1096 わたしがわたしでなかったのなら

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で479日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

479日目、今日は長くなっても遠慮せずに書きまくってみようと思っている。大切な友達のたでひろこさんが、せっかく書いたものを削除して短くしているなんてもったいない~!思いっきり書いて~~とおっしゃってくださったので、素直にそうしてみようと思った次第なのだ・・・

わたしは先日、自分が毎日書いても毎日長文になってしまう原因が、「お見かけしたときに話しかけたり握手を求めたりすると、話がいつまでも止まず長時間去れなくなってしまう」と噂の明石家さんまさんと同じ人種だったからなのではないか、という疑惑が生まれた。

それからというもの、「そうか、自分はただ話しの好きな人だったんだな」という、自分が約分されてしまったような、自分を笑っちゃうようなおかしな感覚に戸惑っている。
2577/859だと思っていた自分が、え?あなたって約分すると3/1、つまりシンプルに3ですよね。って言われたみたいな・・・アタシにもいろいろ複雑なものがあるのよ・・と思っていたのに、さんまさん。さんまさんです。
戸惑いのあまり、生き方すらわからなくなり、迷子のまま、とにかくさんまさんであり続けている。

いいんだ・・大丈夫だ・・・ただ話し好きとしてシンプルに生きればいいじゃないか・・・

特技:しつこく話す
長所:たくさん話せる
短所:話しすぎてしまう
苦手なこと:話をやめる
得意なこと:話しつづける

でいいじゃないか・・・ファミレスにたむろせばいいし、長文を書けばいいし、明石家 壇珠と名乗ればいいじゃないか!(違

というわけで今日は遠慮なく書くのだ、もういいんだ、ひっくりかえってもさんまさんなんだから・・

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わたしはこう見えても(?!)、心を自由自在に動かせるようになることに、人一倍、いや・・・ちょっとこだわり過ぎなくらい、いや・・・微妙に異常なほどの、憧れがあった。

キッカケはここに書くのも恥ずかしいほど単純で、お釈迦さまのことを超絶すごいと思ったことだった。うおお(恥

それは、ヤクザ映画を観た直後にちょっと歩き方がヤクザ風になることや(皆はならないのかも?!)、ミッション・インポッシブルを見た直後にはイーサン・ハント風の動きに、007を観た直後にはジェームズ・ボンド風の表情になるのと同じで、ミジンコのように単細胞なわたしが般若心経の現代訳を読んだ直後に、お釈迦さまに憧れて偽物の半眼になった日から始まった。

般若心経の最後のフレーズにあまりに感動して号泣し、鼻水をナイアガラの滝のように流しながら、やばい、なんだこれ・・・・釈迦、すごすぎてどのくらいすごいのかわからないんだけど・・・なにその悟りって!なにそのすべてを悟った感覚!なににも執着せず、空を知り、解脱の境地に達し、他の人の幸を願う感覚て!!うおおおヤバい・・・知りたすぎて途方に暮れるんだけど!!と思った。あんまり泣きすぎて、胸と喉と頭が痛かった。自分の周りが、あっという間にティッシュの山だった。

吊橋でドキドキしたときにそばにいる異性に恋をしているのだと脳が勘違いするのと同じ作用で、あのときわたしの脳は、「自分がこんなにも泣いているのは、般若心経の最後の部分に感動したからではなく、お釈迦さまの感覚を知りたすぎるあまりなのだ」と勘違いしたのかも知れない。

あれから、すっかりその方面に興味津々となったわたしであった。しかし、「精神世界ってなんなんだろう、この世界ってなんなんだろう。この広い宇宙の真理を理解するって、途方もなく深い、マリアナ海溝よりも深い世界なのではないのか??自分のような阿呆が探索しても、表層をバチャバチャやるだけで少しも潜れないのでは・・・?」と思った。
懐かしき、約24年前のこと。

それから楽しき苦しき探求をしてきて、今のわたしは探求が楽しくもあり、それが進もうとも進まずとも、どちらでも良くなってしまった。
どちらでも自分の安楽に変わりはなく、だからどちらでも良く、つまりは成るようにしか成らないと手を離してしまった。常に探求をしているとも言えるし、まったくしていないとも言える。

わたしたちが生きているということそのものが、意識の探求しているのだと言えるのだと思う。ただ開眼を目指して座禅を組んでいるよりは、この世界を懸命に生きているほうがずっと素晴らしく、また同時に、懸命に生きている人は人として最高の探求をしているのだという考えに激しく同意だ。そんな人には敵わない。わたし自身も、自分が一生懸命に畑仕事や肉体労働をしていたときの感覚こそが人生を豊かにしてくれ、今の自分に響いている。

それでわたしに今残ったのは、自分がこの人生を安心して生きるのに深い助けとなる、メソッドといくつかのワーク、自分なりの視点切り替え法。どれも、とてもカンタンあるよ。誰にでもシンプルにできるものばかりあるよ。

今日はその、視点切り替え法の入り口に、みなさんをご案内したいと思う!(という言い回しがしてみたかった、(笑)

わたしは、視点をいろいろに切り替えて物事を見るのが大好きだ。もう、ライフワークと言っても、クセと言っても、やめられない止まらないから『かっぱえびせん』と言ってもいいくらい。(昭和の人にしかわからないね・・

以前は、視点を切り替えるときにあまりにも常軌を逸している気がするときは自分を少々狂っているのではないかと疑っていた。恐ろしい疑いであった。けれど、もう秘行瞑想が確立してからはそんな感覚すらなくなってしまった。

たとえば以前は、もし母が自分の娘だったのなら、もし父が自分の夫だったのなら、などという視点に切り替えて見ることですら、「うわ〜わたしってちょっとおかしいのかな」と思っていた。それに、それらの視点に自在に切り替えるのは難しくもあった。

今は、母が自分の娘だったなら、赤の他人だったなら、同級生だったなら、などの視点に移るぶんには、どうということもなくなってしまった。
心の中が以前よりずっとカメレオン化している感じだ・・!

これがわたしにとって、自分をとても自由でいさせてくれる大切なスキルである。

夫のことも、もし彼が父であったなら、兄や弟であったなら、息子であったなら、とよく思う。

娘のことも、もし彼女がわたしの母であったなら、クラスメイトであったなら、姉妹や近所の人の娘であったなら、友達であったなら、と思う。

これをするメリットは、もちろんその視点に移るときの葛藤や執着などが、そのまま自分を知るとても良い材料であり、それらを手放すときにもたくさんの学びを得られること。

けれどもそれだけに終わらず、この視点切り替えの真髄(この言葉を使ってみたかった笑)は、

『自分の立場から感じられることのほとんどが、ただの思い込みやただの反射にすぎない』とつくづく実感できること、だ・・・!だから、その感覚に安心して一生懸命になれるのだ。自分がなにを感じても、それに安心していられる、これってすっっっっっっごく生きるのが楽になる。

たとえば夫を兄だと思ってみようとする。すると、「兄というものに対しては恋愛感情がなく、異性として見るのが難しいものだろう」という決めつけをもった己を発見する。そのとき、まず真っ先に邪魔するのが、今の自分が夫を「異性として」見ている感覚。なかなか滅却しにくいものだ。

でも、できるのだ。人の感覚ってすごい!人間とは、かくも自由なものかと驚いてしまう。ポイントは、夫を異性として見ている自分を、消さずに一旦脇に置いておくこと。これが非常に便利だ。保存に便利すぎるから『ジップロック法』と名付けよう!(違

夫がわたしの兄だったらどんな人物になっていたか、と考えるのではなく、わたしが妹や弟になるしかない。自分が変怪するしかない。普段の妻の感覚は一旦置いておいて、別の自分を起動する。(進撃の巨人好きとしては、機動する、と書きたいところだが・・

なかなかできないときには、まずは自分が別の色んなものになってみる。
自分が風だったのなら。夫にぶつかって通り過ぎるときに、夫はあの形をしたただの障害物に見える。木や、家や、電信柱と同じだ・・

飼い猫になってみる。夫は、優しいけどちょっと警戒するべき相手に見える。ゴリラとあまり変わらない。というかゴリラに見える。ゴリラなのかも知れニャイニャ・・

パソコンになってみる。夫は、、、うわ~、ほとんどなんとも思わない。

夫の父になってみる。息子は自分の思い通りになどならなくて、不器用で、自分のいろいろを活かしていないように見えてちょっと歯がゆい。でもいいのだ、息子は大きくなった。長生きして楽をして欲しい。

夫になんの感情もない女性になってみる。なんか、、なんだ、、ちょっとだらしないオジサンに見えるな・・・あまり心を開かず、気を許さなくて、つまらない人物に見える。

さて、そして兄として見てみると・・・
分からず屋で、気難しくて、とっつきにくい!男ってこんなもんだっけ?兄さんは特に気難しく見える。結婚できるのかなあ。奥さん大変そう。(←ヲイ

と、こんな感じで視点を切り替える。
これをいろんな場面でいろんな対象物にやっている。好きすぎてついついやってしまう、のほうが正確かな、(笑)

特にやるのは、自分に対して。
これがまた究極で面白い。

自分がもし、自分でなかったのなら。
壇珠さんは、大きくて痩せギスの、あまり柔らかくなさそうな人物だ・・

わたしがもし、自分の友達だったのなら。
もっともっとさらに心を開いて、なんでも見せてくれよカモーン!!と思う。いつも本音で、遠慮なしにぶつかってきてくれ!!

わたしがもし、自分の母だったなら。
どんなにダメなおまえでも、母にはかわいい我が子だ。
がんばってくれ、がんばらなくてもいい、
なにがどうで、どんなことがどうなっていてもいいから、
幸せでいておくれ。
死ぬときまで楽で、幸せであっておくれ・・・(涙がっ

わたしがもし、自分の守護霊であったなら。
愛を見て、愛に進むんじゃ。
自分を信じて、覚悟に進むんじゃ・・!
ほら、ゾロ目を見せたり、いろんなサインを送って、いつもいつもサポートをしておるじゃろ?内臓を大切にするんじゃ、わかったな。(なぜ?!

こうして、他者や自分をいろいろに見ることができると、

ああ、普段の自分の思いは、自分が自分をどういう存在だと思っているのかに依るものであって、相手の在り方には関係がないんだな。と思う。

だから、自分の感覚に責任を持っていられて、自分を自分足らしめているものに気がついていられる。「あら!わたしここでヤキモチ焼いちゃうなんて、これは彼のせいじゃなくて、わたしが自分のことを、女で、彼の恋人で、彼がわたしを愛しているのが当然で、それに見合う魅力を持っているはずで、でもそこに自信がなくて、彼が他の女性に取られちゃったら自分の価値が落ちると思っているから、なのね!」ってな感じで!

その自分というものの定義を変えると、この見え方も変わっちゃうんだものね~~~面白いわね!と知っていられる。「な、なにぃ?自分で自分に持っている決めつけを変えてしまえば、他者も世界も違って見えてしまうというのか・・・!それがすべて、じ、自分の手に握らされているだと・・?」みたいな!(笑)

なんと、気楽で安楽な在り方だろう。
湧いてくる感覚に対して、うおおーこれが自分なんだなあ~という観察眼をキープしているのって、とっても面白いのだ。

だからそこで、「今はヤキモチが湧いてきたぞ。わたしには自分に対するあれこれの決めつけがあるんだ。そうか、これが自分か。よし、とくと味わってみようではないか」とするときの、『自分自身にどんな感覚がやってきても、その感覚へこちらから挑んでいこう』という姿勢は、自分を楽しむ最高の構えではないかな。自分を鑑賞する。映画を観るときみたいに、音楽を聴くときみたいに!

さあ自分にはどこからどんな感覚がやって来るやら、フッ・・八方どこからでもかかって来るがよかろう。と、自分をフニャフニャにしつつもそこに積極的に挑むつもりがあるという、酔拳のような構えではないだろうか!

そんなふうに、自分というものを一種のエンタメのように楽しむというのが、わたしの長年の意識の探求の末に見つけた、自分が寝転がってハワイアンカクテルを飲みながら安楽のもとに寛ぐことのできる、ちょっとした着地点なのでありました。

ぜひ、いつも見ているもの、同じ見方をしているものを、違った視点から見てみてね。さすがに5000字を超えてしまい、ね、わかったから、どっかでやめよ・・?ね?と思い始めたため、それを酔拳で受け止めて、今日はここらへんにしておきます・・(笑)
というわけで、それではまた、明日ね~!

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