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659/1096【心の余裕】騙されてもいい

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で659日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

659日目、絵が楽しくてどうしたものか。もういっそのこと、いきなり家庭を捨てて惚れた女と駆け落ちしていなくなる男性みたいに、絵の世界に飛び立ってしまおうかと思う日がある。けれどもまだまだなにも描くことができないから、練習中のこのジレンマを楽しむことにしている。ヤキモキして楽しくて、とても幸せだ・・・!!

絵も毎日のように練習しているけれど、あまりにもあまりにも広大で奥の深い世界で、描きながらこの世界に圧倒されてしまう。すごいゲームに出会ってしまったかのような、すごいイケメン(えっ)に出会ってしまったかのような、

どどどどどうしよう、すんごいものに出会っちゃった、この楽しさ深さ面白さ美しさ、とても自分の器じゃ受け止めきれない!!どないすんねーーーーん!!という気持ちになってしまう。恋だ、これは恋だ・・・!!

と、こんな心の愉快なわちゃわちゃを抱えながら、それでもやっぱりブログは書くのであります。自分はちょっと、大人になったのかなあ・・・(笑)

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昨日の『人生を無駄にしていい』の続きで、今日もわたしのお気に入りのちょっとしたパワーワードについて書いてみようと思います。

それは、『騙されてもいい』というもの。これも言葉にしてみるとなかなかインパクトがあるものではないかしら・・・!

騙されてもいい・・・そう聞くとわたしはなぜか、松山千春の「恋」が脳内再生されてしまいます。男は~いつも~~泣かせる~だけで~~女は~いつも~待ちくた~びれてぇ~~、くぅーっ切なさ極まる名曲です。わたしは長年のあいだ男性は嘘つきだという思い込みを捨てられずにいたクチで、騙し騙される、と訊くとオートで「浮気を隠してうまい嘘をついている男」と「それを嘘だと知っていて心がズタズタになっている女」を思い浮かべてしまいます。

『騙されてもいい』と書いてしまうと、他にも「じゃあ詐欺に遭ってもいいというのか!」という反論が浮かんできます。結婚詐欺とか、オレオレ詐欺とか、そういう悪事を許容しろというアイデアに見えますよね。

もちろんそんなのは「良いこと」ではないのです。当たり前です。怒らなくちゃいけないふざけんな案件です。この世の道理で、「悪い」のは騙す側です。そこは重々承知の上です。

倫理的な観点から見るとそれできっちりと間違いがないのですが、それとはまた別に、『誰かが誰かに騙された』という際に起こったことをもし一切のジャッジを持ちこまずに事実だけをそのままに観てみるとすると、それにはまず、騙す側と騙される側になる人が必要だということがわかります。「可哀想な役の人」は騙される側で、「悪い役のヤツ」は騙す側です。そしてその両役が揃ってはじめて、それが起こり得ることがわかります。

この配役はどうやって決まるのでしょう?
騙す、という経験をするものと、騙される、という経験をするものとの引き寄せ合いが起こっています。この両者に共通しているのは、「騙す」という行為について注意が向いているということです。それは同じところから発生していて、「騙すのは良くないこと」というジャッジの二極を現実の世界で味わう準備があるということです。

騙す側も騙される側も「騙されるのは嫌な経験だ」という感覚を、もともと持ち合わせているのですね。そこで加害者になるか被害者になるかの違いはありますが、「騙し」を現実的に経験するほど強く注意を注いでいることが共通しています。(※それが、意識的である場合も、無意識である場合もありますね。)

もうほんとうにここで改めて書きますが、わたしは「騙す側を擁護し、騙される側に責任を問うべし」というように倫理の問題を覆そうとしているわけではありません。騙しちゃアカン。それは変わりません。

でも、騙しちゃアカンからこそ、それが起こらないようにするためにできることを、倫理的な観点に立つ以外の方法でも考察してみる、という試みだと思ってくだされ・・・!

もしも、この「騙し」への注意を解除することで、騙す側、騙される側、その両方が発生することを防ぐことができるのだとすると、とても興味深いことだと思うのです。なんかこう、使い古された表現でどこか悔しいのですが、どこかこう、ワクワクしてきてしまいます。

そこで、まるでこちらは好きだから気になって気になって仕方がなくて「居ると近寄れない」or「居るとがんじがらめに束縛したい」のどちらかだというのに、こちらに少しの興味もなくて「あ、居ても居なくても別に気にならないっす。つかごめん居たんだ?気づいてなかったw」という、こちらにまったく注意のない雰囲気バリバリの相手のように、「騙し」に対する強い反応を解除してしまえばよいのですね。

「騙し」の経験への注意を払うことをやり終えて、それへの興味を失った人類の姿・・・!!もはやピースフルすぎて、文明ごとアップデートされているレベルでの変化ですね。我々はその暁には、身体が半透明&パステルカラーになっているのではなかろうか、というくらい異次元な感じがします。

そんなわけで、先の「騙されてもいい」というパワーワードが登場したのですね。ここまで全部がある意味で言い訳なのが恐ろしいところです。

が、それ以上に恐ろしいことに、大変に恐ろしいことに、この「騙されてもいい」というのは、なんと「騙してもいい」という隕石衝突並みのインパクトを持った信念解除用パワーワードともセットになっているのです。

倫理的な観点からは、書くだけでも恐ろしいワードです。わたしはこの「騙してもいい」については、シンプルにそれが「騙されてもいい」とセットであることを利用するのが良いと思っています。つまり、「騙されてもいい」のほうを扱うことで、振り向いたらヤツがいなかった、というサヨナラの仕方ができればいちばんだと思うのです。

「騙されてもいい」ということを感じてみると、みなさんにはどんな思いが湧いてきますか。なかなか心の揺さぶられるものだと思います。わたしはすでに、なぜか松山千春さんに置き手紙をして、鍵をいつもの下駄箱の中に隠して出ていく女の気持ちになっています。泣けてきます・・!

しかし、こちらが「騙されたくない、絶対に騙されたくない、誰にも嘘なんてつかれたくない!」と思えば思うほど、相手の「騙しちゃいけない、騙すことは悪いことだ、騙せたら便利だけど!」という感覚を沸き立たせてしまうのだとしたら・・・そしてそれがそれは「禁じられたことはやってみたい」という我々人類共通の反骨精神を発動し、騙しの現場を引き寄せあってしまうのだとしたら・・・・!!

もしこちらが「誰かに騙されたって、大したことないわ。別に痛くも痒くもないわい」と思えたとしたら。そんなふうに肝が座っているとか、おおらかであるとか、もしくは「所詮この世のすべてが幻であるbyシッダールタ」というくらいに悟ってしまえるとして、それが相手の「誰かを騙したって、後味悪いだけじゃ。別に嬉しくも楽しくもないわい」を発動させるのだとしたら・・・・!!

それならば、思ってみようではありませんか。
「”騙されない”人生だけが、幸福なのではない」と・・・!!いや、もちろんでございます、わかっておりますよ?そう書いてもやはりインパクト大なパワーワードではありますよ?

でも、「騙されたって、ま、人生全体で考えてみると大したことないかな」とか、「嘘つかれるのは嫌だけど、でもその相手がもし自分の子どもだったら、ひどいやつ!と思いながらもそれでも愛しちゃうんだろうな」とか、なんとか自分の中でアクセスできそうなポイントをみつけてみてください。

そしてそれをトリガーにしてその思いを反復することで、「騙されたってかすり傷。んなものこの世の終わりじゃねえ」という概念に少しずつ慣れ親しんでみる。少しずつそのパワーワードの隕石衝突に耐性を作る。少しずつ、自分の強烈な拒絶反応に「バカバカしさを感じて」、「飽きていく」こと。

「騙し」についてリラックスしていくことで、そこへの注意が解除されていくんですね。騙し、騙されるという劇が起こっている土俵から降りていくことができます。

そうして「え?騙すとか騙されるとか?ああ~そういうのあったよね、ごめん忘れてたw」という、ちょっと半透明でパステルカラーな新人類になってみると、その人はもう「騙し」へのジャッジによる制限が解除されて、そこへの経験が不要になるのです。

これは「騙し」以外のあらゆる事に当てはめて考えることができます。浮気とか、盗みとか、あらゆる事象に。そこで大切なのは、現実的な生活を送る上では、倫理観は倫理観できちんとリスペクトすること。

その秩序があってこそ送ることのできている日常生活へのありがたみに意識を向けて、その安心を楽しんで、感謝を忘れないこと。そのうえで心のなかでは、起きてほしくないことに対する「大したことじゃない」というリラックスした肝っ玉を作っていくこと、ですね!

「騙されてもいい」というのは、騙される可能性に目をつぶるということではなく、そこに気がついていながら、「やるならやってご覧」という余裕を持っているということです。

そう思えたときに、その「本当かも知れないし嘘かもしれないけれど、そこは好きにして頂戴。こちらは大丈夫」という余裕とともに、人を信じてみる自分がいます。信じちゃう気楽さを取り戻せる自分がいます。

詐欺に乗らないための慎重さはもちろん持ったまま、それとは別に、誰かと話していても心に「騙されてたっていいさ」「君を嘘ごと愛してるぜ」という余裕のある気分。逆に言えば、相手にとっての真実でも、それはその人のものの見方でしかないということに気がついている自分を、携えたままで居るのですね。それは、ゆったりとわたしたちの肝を座らせてくれます。

わたしは「騙されてもいい」と思えてから、いつか子どもだったころ、疑うよりも信じることに真っ直ぐだった自分が、帰ってきてくれた気がします。

というわけで今日は、「騙されてもいい」という恐るべしパワーワードを例に、起こってほしくないことだからこそ、中和して注意をそらすことで、そのフィールドからから抜けていくことができますよ!という意識の仕組みについての解説のシェアでありました。
どこかで誰かのお役に立ちますように。

それではまた、明日ね!

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