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955/1096【質問回答】子どもが言うことを聞かないとイライラする/いつも不安があって消えない…他

吾輩は怠け者である。しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、己の夢を叶えようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で955日。
※この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。

955日目。イタリアの明日、日本の今日、やりたいことがあるのだ。だから今から書くのだ。こうして計画的に動くのは面白い。計画性のない人っているが、それはその計画性のなさの操縦の仕方を知らないだけだという可能性がある。

わたしは「血液型は?」と訊かれたら「行きあたりばったり型です」と言わなければならないほど、骨髄で計画性のなさを作り出している生粋の無計画人間だが、そんな自分とうまく付き合って生きている。

こうした、自分のどうしようもないところというのは非常にありがたいもので、とにかく面白い。

たとえばわたしの長所と呼べることというのは手先の器用さだが、たしかに良い点というのも生活の役には立つ。

しかし、自分の場合で言うとあがり症だとか計画性のなさだとか三日坊主だとかの、いわゆる欠点とされることというのは、それをどのようにうまいこと人生に使うのかというチャレンジになり得る。

そのチャレンジは難易度も高いが、攻略時には長所を生かしたときには味わえない達成感や面白みがある。ゲーム要素が強いと言える。

わたしは三日坊主であるがゆえにこの毎日投稿を書くというアイデアを得た。このように、短所のほうが人生には良いことをもたらしやすい。障害物のほうが遊びやすいからだ。

みんなだってそうでしょう。マリオを動かしているとき、黙ってただ草原を歩いていてもつまらないでしょう。障害物を見たらついジャンプしたくなるでしょう。それでうまくいったりすると、もっと難しいステージで遊んでみたくなるでしょう。やらなくていいよ?草原に座っていていいんだよ?と言われても、やっちゃうでしょう。

障害物というのは、「これを超えろ!でないとひき肉にするぞ!」と言われて強制的に向かうと辛いものとなるが、超えても超えなくてもいいよと言われたとたんに、取り組みたい遊びになる。

この視点の切り替えは、人生を楽に生きるのに役立つね。

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本日の質問回答は3つ。

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娘もそうでした。自我が芽生えると、いいなりでいることをやめて、自分なりの考えでなにかをしてみたくなるのですよね。

わたしは、こうして子を思いやり、しかしいつも思い通りになんかならず、それでも子を思うこと、これこそ親のすることだと思うのです。

わたしたちって、答えのないことに答えを欲しがり、通らないことを通したくなり、単純化したがり、近道を欲しがる。どこまでも楽で葛藤の無いようにしたくなりますよね。

でも、胆力のある人は、答えのない中にちゃんといられます。わからないことをわからないままにすることができる。端折れないことは端折らないまま遠回りできるし、切ないときに切ないままでいられるし、複雑なものを複雑なまま尊重できる。簡単、単純、スッキリとはいかないものをそのまま体験し、それを持続できます。葛藤から逃げずにいられるんです。

夫婦関係だって仕事だってそうですが、とくに子育てについては、どうしようもない葛藤がいつもあってこそ親の愛なんですよね。

親というのは、子を愛する以上いつまでもどこまでも、生涯かけて子を思って葛藤するのです。この世は分離の世界だから、どうしたって愛の体現が完璧にいかない、切ないところですから。

あのときああしてあげればよかったのに。
もっとこうしてあげられるといいのに。

子どもに対する思いって、こんなのばかりですよね。それが三次元世界で生きる動物の性(さが)であり、二極のものの見方をするわたしたちの自然な姿なのでしょう。

上着一枚のことで胸を痛めて、温めてあげたいと思うのが母の心そのものです。そして、それでいいのではないでしょうか。上着が薄くても子どもは大丈夫。そのお母さんの心が温かいから、大丈夫なのですよ。

子どもがなんでも言うことを聞くようにしたり、あるいは親が子どもが寒くても病気をしても一切気にならなようにしようという方が不自然です。

子どもの自主性を育てるとき、親はいつだって自分を引っ込めなくちゃならないものですよね。お互い、切なく愛しい親業をがんばりましょうね!

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たとえばですが、それまで主に取り組んでいたことが「自分が周りからどう思われるかを気にする」ということだったのが、それがどうでもよくなってきて「自分の満足を大切にすること」に取り組むようになる。

このようなことに伴って、それまでの人間関係に大きな変化が起こるのが、わかりやすいステージの移動です。
人間関係が変わるときに、それまでの仕事を離れたり、引っ越したり、離婚や結婚をしたり、再開や新しい出会いがあったりします。

これ以外にも、それまでの趣味に興味をなくしてしまう、そのあと新たな活動を始めるというような変化として現れる場合もあります。

なにも変化のない日々にあって、ステージが変わったぞ!って変ですよね。なにかが一新したら、自分でわかります。あなたがそう思えないと、いかんせんあなた自身がそう感じられません。自分の感覚を大切にしましょう。

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不安な自分をなんとかしよう、というアプローチでは不安な自分は変わりません。不安になるのって最も簡単で、誰でもなにもしないでいれば不安になります。

なぜなら、危険を察知し、自分が傷つかないようにし、身を守ろうとする働きだけはずっと稼働しているから。人間も動物なので、自分が傷つくかもしれない可能性に気を向けることから、完全には解放されないようになっています。その働きがあるので、わたしたちにとって悪いほうに考えて不安になることは、いつだっていちばん容易なのです。

万人が、知識も練習もなくやれることです。

幼少期にどんな経験をしていても、多かれ少なかれ人間は不安になるものです。これは危険から身を守って生きていくため。だからまずは、不安があるのは自然なことであると思ってください。

そのうえで、あとは程度問題なのですよ。不安のために眠れない、道路を渡れない、電話に応答できない、仕事に集中できなくてミスが多いなど、日常生活に支障をきたすと思うほどであれば、それが不安障害と呼ばれるものになるのですね。

そこまででないのだとすると、他にはカウンセリングやセラピーなどに頼る方法もあります。もしくは、自分で変化していくこともできますよ。

わたしは若い頃ははっきりと、「人間社会難しすぎね?」と思っていました。そこからだいぶマシになってからも、芥川風?といえばなんとなくカッコよくも見えますが、将来に対する唯ぼんやりした不安が残っていました。根拠はなくても、自分だけは人生ずっと踏み外しそう。自分だけは親になったらやばそう。自分だけはずっと男性と良い関係を築けなそう。

そしてそこから抜けました。

わたしは、「これをすれば、誰でも不安から解放されます!」というような一発でなんとかなりそうなニュアンスで単純明快な方法を提示するのは嘘っぱちだと思っています。

これは、だんだん変化するものです。それは単に不安という余計なものを排除するための、さっさと終わらせるべきことなどではないのです。とてもやり甲斐のある、感動や面白みや奥深さのあることですよ。

わたしがおすすめできるのは、一見反対のことに見えるふたつのアプローチを自分で少しずつやっていくことです。マイペースでいいですよ。そして、”マイペースでやる”ということがひとつの薬になります。

ひとつは、実際に不安要素となっている現実的な問題に、自分の意思表示や自分ひとりの決定による対処をして、自己効力感を上げていくこと。安心というのは、待っていてもやって来ないものなので、こちらから取りに行くものなのです。

あなたが決めて、それをやる。ということをもっとしてみてください。
あなたがリンゴを投げると、投げた先にりんごが落ちる。これを何回も見れば、りんごを落としたいときには自分でそこに投げればいいのだとわかります。

けれども、リンゴを投げられないと思っていたり、投げてもどうなるのかわからないと思っていたり、誰かが投げてくれないと困ると思っていると、落としたい場所に落ちるかどうかは、いつまでも不安です。

不安な要素から単に離れることでもいいし、同居したくないと伝えることでもいいし、生活保護について調べることでもいい。自分がどうしたいのかを感じ、それを表し、それを実現するためにやることを決め、実行に移す。

自分で決めたことをやり、その結果を見る。自分の意思決定と、それの及ぶ影響を見てください。この経験を小さなことからちょっとずつ増やすのですね。すると、自分への頼り甲斐が出てきます。これは”安心の素”みたいなものなのです。

もうひとつは、今の現実から、安心要素を見つける練習をすること。
あなたは明日隕石にぶつからない自信がありますか。
あなたは明日生きて目覚める自信がありますか。
他にあなたは、どんなことに安心していますか。

不安ばかり見る人は、自分の意志を使うことをサボってきた人です。”安心要素に気を向ける”ことが習慣化していないので、今はそこが非常に脆弱なのです。でも心配しないで。自らやると、びっくりするくらいその回路ができてくるので、これはもう、やったもの勝ちなのです。

安心したいならば、すでにある安心要素に目を向ける。

わたしはあなたが今日、ヤクザに小指を詰められることはないと思います。
わたしはあなたが今日、目が見えてこれを読めることと思います。
安心って、数えだしたらきりがありません。

こうした膨大な安心があるからこそ、不安がっていられるのがわかりますか。あなたが目を向けていないだけで、安心というのはその不安を乗せている巨大な土台の部分なのですよ。そこを見る練習をしてください。

それをするべきときなので、あなたにはきっとできます。
自分自身の心の奥が言っていませんか。本当は自分はもっと強いし、本当はこんなもんじゃないってわかってるでしょ。と。

不安なんていくらあってもいいので、ときどきそれを心の奥に戻って感じることもしてみてね。大丈夫ですよ、ここにかいてあることを、少しずつでも思い切ってでもいいので、マイペースにテキトーに気楽にやれっていってみればいいのですから。こうした方法はいつでもあなたのそばにあって、それはずっといなくはならないのです。

さて、今日はここまで。
それではまた、明日ね。


毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)