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【質問回答】「僕に対する尊敬がなさすぎる」彼の労力に無関心だった自分…思いやりって、なんですか。

これを読むあなたよ、爽やかな初夏の日々をいかがお過ごしですか。私は娘の夏休みの突入とともに生活が少し変化して、なんとか適応してきたところです。

時間は矢のように過ぎ、人生は短い。これについて思いを巡らし、それを言葉にしてみればきっと、杜甫の詩に迫るほどの物悲しさを表現できる気がして恐ろしくなるという毎日です。

そうする間にも質問がポツポツと届くというのに、私の回答のペースときたら亀の歩みではないですか。ここからちょっくら、ペースを上げていきたいと思います。

本日は、こちらのご質問に回答いたしますよ。

このご質問を拝見して私がまず思ったことというのは、思いやりだけの話ではないということと、質問者さまと元彼さまとの、男女の関係性が逆転してしまっていたのだろうということです。

彼はあなたに、見えないところでの努力を想像して欲しい、それをするということは自分がどんな気持ちでいるのか想像して欲しい、ハッキリ言わなくてもわかって欲しい、と思っていますよね。つまり、「察して欲しい」と思っているわけです。そして、あなたはそのあたりのことに気を向けずに、彼にプレゼント攻撃を仕掛けています。

元来女性は「察して欲しい」というジレンマに陥りやすいし、男性は察するのは苦手で、プレゼントで喜ばせようと考えがちなものですよね。あなたと彼の関係はまさしくそれとは逆で、彼側が察して欲しがっていて、あなたがプレゼントをしているわけです。

もちろん、この逆転がまた反転して、あなたが察してほしい女子になり、彼がプレゼント攻撃男子になればそれで良いというわけではないのですが、この男と女の関係の逆転を戻しつつ、自然で良い関係になりたいものですよね。そのためにはどうすればよいのでしょうか。

この彼とはもうお別れされているようですが、ここでは恋愛関係だけでなく、家族や友人や知人や職場の人などとのあらゆる人間関係にも役立つことをお伝えしたいと思います。

まず、どうしてあなたと彼との間には、この男女の立場の逆転やすれ違いが起こってしまったのでしょうか。

私はあなたが『表現』をしないことに端を発していると思うのです。

嬉しいときには嬉しいということを、ありがとうと思ったらありがとうと、自分のポジティブな気持ちを表現することをしていなかったと思うんですね。だから彼は、あなたとの恋愛に喜びを見出すことが難しかったのだろうと思います。

我ら人類の男性はとくに、女性を追いかけて、喜んでもらいたくてなにかをして、女性がその喜びを表現してくれるのを見ることで、またもっと追いかけたくなるという性質を持っています。もしも彼女が心から喜んでくれるのなら、そのためにかけた労力に気を向けてほしいとなど思わないのです。

この男性のもつ性質は、ゴールを追って、そこに向かって進んで、ゴールを達成するのに向かう性質だということができます。ひとつ達成すると、もっと高いゴールを目指したくなる。

この性質は男性がより強く持っているから男性性と呼んだりしますね。もちろんこれは、私たち女性も持っているものです。

ゲームで強敵を倒したいという単純な支配欲も、憧れの女性を自分のものにしたいという征服欲も、この荒んだ大地を緑いっぱいの場所に変えてやるというような壮大な達成欲も、『ゴールに向かい、それを成し遂げたい』という欲求ですよね。

自分の外側の世界を見る能、時間を使う能。
外向きのベクトルのエネルギーです。

反対に女性は、ゴールを見つけるとすぐにそれを味わうことができます。例えば、海の見える、庭にはお花いっぱいのコテージで過ごしてみたいと考える。ああ、それいいわぁ~と思う。そこで素敵な音楽をかけて、美味しいものを食べて、彼と見つめ合って、幸せなことを語り合って…と思うともう、ウットリとしている。今は家にいてモップで掃除をしている最中だというのに、心はもう潮騒の聴こえるコテージにいるのです。眼の前にはお花がいっぱいで、ロマンチックなムードが漂っている。眼の前の汚い水の入ったバケツもゴム手袋も忘れて、心はすでに悦楽の中にあって、頭の中にはダリダのI Found My Love In Portofinoが流れ始めるのです。

この性質を女性性と呼びます。これは自分の内側に世界を創りだす能、時間の流れを超越して常に今にいる能、と言うことができます。内向きのベクトルのエネルギーです。もちろんこれも、女性の方が強く持っていますが、男性にもあります。

私たち人間というのは、男性だろうと女性だろうと、この2つの性質を使って、何かをやろうと思い、達成後のビジョンを想像し、それに向かって行動し、それを得るということをしながら生きています。このバランスが良いとき、2つの性質は建設的に関わりあい、支え合い、機能しています。

自分の欲しいゴールを、鮮やかにビジョンにして、叶ったらこんな感じに違いないとありありと想像し、ならばそこに向かって動こうと考える。

ドアを開けて外に出て駅まで歩こうというときだって、必ず試験に合格しようというときだって、旅行に行こうというときだって、パン屋さんで美味しいパンを買って食べようというときだって、ゴールを思い、叶ったときの感じをチラッと、あるいはしっかりと想像し、それに向かって動き、それを達成しているのです。言い出しっぺも自分、動いてあげるのも自分、叶えてあげるのも自分、喜ぶのも自分。万人がそうなのです。地球人全員です。

これはまるで自分の中に男の自分と女の自分がいて、「あなた、私これをしてみたいわ。だってきっとこんな感じがするのよ。私にはわかるの」「そうか、ならば俺がそれを叶えてやろう」「まあ、あなたってなんて頼りになるの」「任せておきな。少し待っているんだよ」「ええわかったわ」「ほらごらん」「なんてこと!嘘でしょう!?私嬉しい!」「ははははは。俺にかかればこんなものさ」「想像以上だわ、あなたってすごいのね!」という劇場が繰り広げられているかのようですね。

しかしこの外向きと内向きの創造のエネルギーのバランスが崩れると、この自分の中の男女が、険悪な仲になってきます。「ああ、私こういう経験がしてみたいわ」「無理に決まっているだろう」「あら、どうしてなの」「お前にそんなお金をかける価値があるかい?」「なんてことをいうの、ひどいわ」「それにな、俺にはそんな時間もなければ、お前への情熱もないんだよ。失敗した時の嫌な気分を考えたら、やらないほうがマシだ」「そうよね、たしかにそうだわ。私が我慢すればそんな時間もお金も労力も失敗した時の気分も味わわなくていいんだわ」となってしまうのです。

それはいつしか「(経験したいと思うことが出てきたけど、とても言えないわ。またお前には価値がないだなんて言われるもの。我慢して暮らすしかないんだわ…頑張って彼のためにいろいろとやって、自分に価値があると思ってくれるまで、黙っているしかないわ…)」「(…機嫌悪いし、どうして欲しいのかわからないから、俺にやれることはないや)」「ちょっとあなた、私が一生懸命掃除や洗濯や食事の支度をしているのに、それをなんだと思っているの?!あなたはそれに価値があると思わないの?!何もしない役立たず!私の気も知らないで!」「お前の気持ちなんかわかるかよ!嫌ならしなきゃいいだろう!」「やらないわけに行かないのよ!」となってくる。こうして自分の中で、価値があると思えることだけをやり、自分の望みを無視し、自分の望みを叶える喜びを味わえなくなってしまいます。

自分の中がこうなってしまうと、その人は他者との関係にもそれを反映させてしまいます。何かをしてみたいと思っても、無理だと言われる気がする。ワガママだと思われる気がする。そこまでの情熱を持ってもらえる気がしない。だから、相手にこちらの労力を提供し、察してもらうしかないと考える。と同時に、相手の労力には目を向けず、勝手に察して勝手な行動を取り、喜びの押しつけをするようになります。2つの性質が建設的ではなくなり、自然に関われなくなり、非建設的で破壊的に関わるようになります。

これは人を往々にして「察してほしい人」に変えてしまいます。それから、「自分の望みがわからない人」「したいと思うことがない人」「我慢や努力にしか価値を見いだせない人」「その我慢や努力に対しても多少のことではなんとも思わない人」「他人や自分に無関心な人」「不平不満や我慢ばかりの人」にしてしまいます。

私は、元彼にもあなたにも、それぞれ自分の中でこのような男性性と女性性の建設的な関わりにおける歪みがあって、それが原因で二人の間にもすれ違いが起こっていたのだろうと思います。

ですから、彼の言った「自分に対する尊敬が足りない」というようなことを盲目的に正しいと思う前に、誰にでも多かれ少なかれこういう歪みがあるということを念頭に置いてください。彼も例外ではないのです。

そしてこれは、男女の間だけにとどまらず、いかなる人間関係にも反映されることです。

この歪みを解いていくために、思いやりを育むことはもちろん薬になると思いますが、それだけではなくもっともっと自分の本質を広く捉える心を持って、自分と仲良くしながら、自分自身を育むことが大切です。

自分に対して、心の自立を促し、メンテナンスをし、仲良くあろうとすること。辛抱強く、時には厳しく、勇気を持って接すること。健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命ある限り、真心を尽くすことを誓う。まずはこんなふうに、自分自身を慈しみ、自分という伴侶と最後まで添い遂げる覚悟を持って、己に真の思いやりを持とうとしてみてください。

やろうとしてみるとこれがまた、なかなかに難しい。まさに人間にとって一生の課題であると気がつくはずです。これをしようとせずに、どうやって他人に対しての思いやりをもつことができましょうか。これがわからずに、他者への思いやりを健全に育んでいくことはできません。これを伝えるために、ここまでのことを説明してみました。なんだこいつ、ズレた回答してんなあ~と思ったかもしれませんが、とても大切なことなのです。

それから、思いやりというのは、尊敬することと関係しているのかとご質問にありますが、それは見当違いのことと思います。彼であっても他人なのだから思いやりを持たなくてはならないとも書いておられますが、これもまた「思いやり」の本質からズレているのです。

なぜなら、思いやりというのは、尊敬している人や他人に対してだけ発揮するものではないからです。尊敬していない人や家族には、思いやりを持たなくていいと言うわけではありませんよね。思いやりとは、相手を選ばないものです。見ず知らずの他人にも、もつことのできるものです。

あなたは思いやりがどういうことなのかわからないとおっしゃっていますが、そんなことはないはずです。あなたは快と不快とを両方とも感じることができますよね。ならば、わかるはずなのです。

水がなくて困っている人に、水を与えるのと水を与えないのとでは、どちらが思いやりでしょうか。落とし物を届けてあげるのと届けてあげないのとでは、どちらが思いやりでしょうか。これを考えるとき、私たちは必ず、自分が水に餓えている側ならば、自分が落とし物をしてしまった側ならば、なにを望むだろうかと想像しますよね。そこにはまず不快があり、その不快を軽減させる方法があるはずです。それを想像して行動することを、思いやりといいます。

元彼があなたに「相手が時間を割いていることにもっと気を回すべきだ」と言ったということですが、その彼の気持ちを、立場を置き換えて想像してみてください。彼は、デートのプランを考えるときに、本当に「この労力の負担について考えさせたい」という思いで、それを目的にして動いていたのでしょうか。

あなたならばどうですか。デートのプランを考えようというとき、そこに使った労力について相手に気を回してもらうためにはどうすればよいだろうか、と考えるでしょうか。違いますよね。二人の楽しい様子や、相手の喜ぶ顔を想像して、プランを考えるはずです。これが目的なのです。

そして、相手がそこに喜んでくれて、こんなところにつれてきてくれて嬉しいと、こんなことを考えてくれてありがとうと、心から真っ直ぐに愛をもって伝えてくれたのなら、やった、大成功だ、やってよかった、と思うはずです。男がヒーローになれる瞬間ですね。

反対に、あまり喜んでもらえなかったり、当然のこととして無感動に受け取られたり、どう感じたのかを表現してくれなかったりしたら、どうでしょうか。とてもがっかりしますよね。そして、こちらがあんなに時間と労力をかけて準備したことなのに、この人はそこに気も向けやしないのかと、むかっ腹が立ってきます。相手の喜びの表現が見たくて労力を費やしたのに、その見返りが返ってこなかったら、人は自分のかけた労力が惜しくなるわけですね。先にお金を払ったのに、商品が届かなかったのと同じなのです。

このような想像ができていたら、あなたもきっと彼に対してもっと豊かな表現でお礼を伝えようと思ったはずです。これです、この”相手の気持の想像と、それに基づいた相手の快のための行動”こそが、思いやりなのです。

もちろん、これはこちらの勝手な想像なのです。思いやりとは、こちらの勝手な想像をもとに動くことにほかなりません。思いやりというのは、この自分の勝手な想像をできるだけ相手の思いと一致させようという、地道な努力によって磨いていくことなのです。だから、一朝一夕に身につくようなことではないのです。

また、自分の気持ちをまっすぐに表現しようと思っても、今度はそれについても自分の中での葛藤があることでしょう。だから、これはそう簡単にパッと変えられることではなくて、あれこれと自問自答をしながら、少しずつ進んでいくことだと知ってください。

つまりは、賢者のように深い思いやりをもって他者と接することのできている人なんて、なかなかいるものでもないということです。ちょっと表現を変えてみると、思いやりを極めるというのは、神や仏に近づこうとする行為だとも言えると思うんです。だからやっぱりね、なかなか一筋縄にはいかないやぁね。。

でも嬉しいことと言えば、これから思いやりを磨いて生きていってみようとすると、もうその時から、ひたすらな成長ができるということ。取り組もうとした瞬間から、あとはひたすら前進を経験していけるということです。

どんどん思いやりのある人になっていけるって、すごいと思いませんか。想像して、やってみて、うまくいかなくて、もっと考えてみて、感じてみて、やってみる、動いてみる。これをしてこなかった自分とは、どんどんかけ離れて、別の自分になっていく。だから恐れずに歩めばいいのです。

この道を行けばどうなるものか。 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。 踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。 迷わず行けよ、行けばわかるさ。1、2、3、ダーッ!ということなんですね。笑

私もまだまだ未熟者ですので、一緒にがんばりましょう!思いやりについてチャレンジ精神を持って生活すると、これまた本当に面白いしやりがいのあることなんですよ。深いところが満たされて、生きる感覚が変わるほどです。

私は、自分の無関心さやみみっちさ、我欲の執着にほとほと呆れながら、昔より今、昨年より今年、昨日よりも今日、誰かを思いやろうとしたときに自分を邪魔することーたとえば自分を苦しめるルールや余計なこだわりから手を放したり、水に流したり、目をつぶったりするスキルが上がるたびに、気づきを重ねながら成長して、意外な自分に出会っています。

暗闇の中を手探りで進むような感覚かもしれませんが、日常生活の身近なところからやっていけばいいのです。これは保証しますが、私に思いやりについて質問をしてこられたあなたは、思いやりのわからない人ではありません。あなたって、こんなもんやないで。自分で手綱をもって、思いやりを知るための旅に、いざ出発です!良い冒険を。

それではまた、明日ね。

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)