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125/1096 自分を見くびっちゃあいけないよ。

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で125日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下から「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

125日目、今日はドヨーンとした体調、ドヨーンとした天気、わたし自身もいろんな問題を抱えたドヨーンとした状況にある。
しかし、毎日投稿はこんな日もやるのだ。これは勝手に始めたことだから需要に応えているわけでもなく、無料だから収益とも関係なく、ただただ自分の自己満足のためなのだけれど、それこそが面白みなのだと思っている。

例えば子供の頃に鶴を折りたくて折っている時だって逆上がりを鼻穴を最大に広げて練習している時だって、あんなに面白くて夢中だったのは、誰に頼まれたわけでもなく、誰の期待も背負っておらず、一切の損得に関わっておらず、まさに自己満足100%の世界だったからだと思う。
だから今日も書くのだ。ただの満足のために三年も費やすのだ!!

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身体が痛くて大変だ…横になってばかりいるからかもしれない。痛い。しかし痛みというのはなぜ、裏面に『面白さ』を備えているのだろう。

この『面白さ』は言葉にするのが難しいのだけれど、生体の反応を知る面白さと、肉体を通した経験をする面白さと、受け取り方によって痛みの感じ方はまるで変化してしまう面白さがある。そしてどこかにちょっと、自分が痛みに負けるのではなく、こちらが味わいに来ているんだというような、勝っている面白みみたいなものもある。

だからと言ってわたしは自分から痛い思いをしようとはしないのだけど、痛い目に遭うとそれを観察する癖がある。心が傷ついた時もそうだ。一方では傷付いているのだけども、もう一方は「あいやー盛大に傷ついたな!!」などと思ってしまう。

昔はこのことを、結構ヤバいことなのではないか?!と思っていた。自分がわーわーと泣いたりしていても、「ひどく泣いてるなあ…!」と思う自分がいる。怒っていても、「かなり怒っているな今回は…」などと思っている。
それがいつだってあまりに冷静なものだから、自分でも不思議だったのと、なんでも平気に思ってしまう、ちょっと人でなし的な冷たい面があるのかと思って自分にドン引きだった。

今ではこの冷静な観察眼は誰にでもあるもので、使うほどに使いやすくなるものだと知っているけれど、当時はそんな自分が心配なくらいだった。

わたしはこんな風にいつも自分のことを観察している。わたしはきっと、売られた喧嘩は全部買ってしまうような人だと思われがちだけれど、この観察眼によって必要な時には黙していられることもある。
最近それの良い例であり、非常に驚いたことがあったから今日はそのことを書いてみたいと思う。

わたしは最近、とある女性に出会った。
初対面だったその人と、初めて顔を合わせた時のことだ。わたしは近眼だから近寄るまではその人の様子が見えない。しかし、その女性が近づいて来たときに、わたし自身に、わたしには大変珍しい、滅多に起こらないようなことが起こった。

わたしはその方が近寄ってきて、距離が5メートル近づくよりも前に自分が異常な反応をするのがわかった。なんとそれが、逃げろ!という反応だったのだ。
わたしは驚いて、しかし意に反して逃げずにいたが、今はなにか通常とは違う時なのだな…!と理解して、自分なりの危機対応モードをオンにしたままそこにいた。
いよいよ彼女が近づいてわたしのそばまで来たときには、胸からけたたましく警笛が鳴っていた。わたしはさらに驚いて、そのままその自分を観察した。

彼女はわたしに話しかけた。その時にはもう、強烈な嫌悪感に襲われ、取り繕うこともできなかった。わたしは言葉少なに会話を終え、あとはもうそちらを向かずに顔を背けたままで、しばらくして立ち上がって別の場所に移動したのだった。

こんなことってあるだろうか。話をする前から、顔をよく見る前から、身体が逃げ出したがるなんて滅多にあることではない。相手に悪気はないのだけれど、とても抵抗できるような嫌悪感ではなかった。

顔を見ても、話し方や話す内容を聞いても、嫌悪感は少しでも和らぐどころかさらに強烈になった。異常な事態であった…

一体何が起こったのか。
驚きながらも自分自身を観察していて、その嫌悪感は、なにか、彼女が彼女自身をまるで丸っきり本来の彼女とはかけ離れた人間だと思いたがっていること、その場でそれの証明のためにわたしを必要としていること、それが彼女にとって決定的に悪いことだとわたしが感じているのだけはわかった。

わたしはこの嫌悪感をここで本人に向かって口に出してはならないと感じた。この場をこの嫌悪感に乗じて派手なものにしてはならない。彼女が無意識に欲しがっている真っ赤な茶番に乗ってはならないと強烈に感じた。だから、わたしはとにかくそこから黙って離れた。

これにより、そのときわたしと彼女とは守られた(と、わたしは勝手に思っている)。とても良かった!

こう書くとなんだかわたしがとても賢そうな感じだが、そうではなくて、あっ、〇〇ちゃん、今なんか悪巧みしようとして先生になにか嘘言おうとしてる…!というのが顔をひと目見てわかった時と似ている。

不思議なことに、離れたあと、部屋のどこにいても、目で見なくても彼女がどこにいるのかがわかった。

その間、わたしが観察しているのは、その部屋にいる自分なのだ。自分を観察していることで、自分が危機を察している場所が間接的にわかるのだった。確認すると、やはり彼女はその位置にいるのだ。
こんなことは初めてだった。秘行はどこまで奥深い技なのだろう。そして、人間とはなんとアメージングな生物なのだろう!

人は時に、無い自信を、自分の演技や演出によってあるように見せ、自分でもそう思い込もうとしたりすることがある。もちろん、そんなときだって必要だと思う。わたしなど、若い頃これに散々失敗したクチだ。

けれども、自分の尊敬する人やその場で影響力を持つ人に手伝わせることでそれを決定的にしてしまうと、自分でもその心地よい思い込みがなかなか剥がせなくなってしまうこともあると思う。

わたしは特別なんだ、だってこんなに突拍子もないことをするし、こんなに大胆で無鉄砲だし、なによりあの人もそれをすごいと認めてくれたもの!!という自信は、まがい物だ。誰もそんなもの必要ないのだ。そんなもんじゃねぇんだ!見くびっちゃいけないんだ。

そんなことをしなくたって、わたしたちはすでに生まれつきひとりひとり特別だ。その点において、万人が皆同じだと思う。自信や幸福の根幹は、他者との比較に拠るものではないはずだ…!

どうか思い出してほしい…
わたしがひどく不器用であること、多くの人にできることができないこと、気が利かないこと、世間知らずで失敗ばかりすること、今も何も上手くなんかやれないこと、大人の階段を踏み外して転げ落ちたまま黒歴史ばかり重ねていること、常識を身につけられずに恥ばかりかくこと、社会的にも弱者であり、迷惑をかけてばかりいて謝って生きていること、etcを…!

そういう意味での自信など、もうメタクソのケチョンケチョンである。
世の中には、きちんとした資格を取り、努力を実らせて社会の役に立って活躍する人がたくさんいる。
わたしたちが公共の交通機関を利用できるのも、そこに道路があるのも、電気があるのも、インターネットを利用できるのも、パンツを履けるのも、多くの人が一緒になって社会を動かしているからだ。

わたしはその一員でない自分を、長いこと社会のお荷物だと思っていた。生きているだけ迷惑だと。
そして、そこから1ミクロンもベターな人間になったことはない。たしかにブロックは積めるしセメントも流し込める。まぁあとはあれだ、まつり縫いも上手い(言いたい)。けれども、自分への印象は世界にお世話になりっぱなし、という感覚のままだ…

それなのに、今は、自信のないまま、唸るほど欠点弱点を携帯したまま、自信のないことに苦しんではいない。おめーはクッソダメ人間だな!と言われたら、たしかにそうですね…(証拠も大量)と言うしかないのだけれど、そこと、これからを幸せに生きる自信とは、まったく別のものなのだ。

自分を諦めるな、という言葉がある。
けれど、わたしは自分が徹底的にそこに反してきたように思う。自分のことなんか、もうこれでいい、もう仕方ねぇ、やりようがねぇ、つける薬がねぇと思ってきたと思う。

ダメ出しも効力なし、無理強いも効力なし、社会についていく能力がないなら、もう自分は楽になります、死んでもいないのに勝手に極楽に行きやす…これで自分は完成形、これで良しと勝手に決めて、図々しく幸せってことにしちゃいやす…皆の努力を尻目に、ほんと、ダメなくせに「生きてるだけで」幸福とか、幸福の条件簡単過ぎてヤバいですよね、列に並ばないで勝手にゴールしちゃって、すいやせんホント…みたいに、勝手に一抜けた!してしまったに過ぎないのだ。
(実際ある日突然そう思ったわけではないけれど!)
もう探さなくなるだけだから、他者との比較で得るものではないのだ。

不動の幸福って、自分で決めるだけだ。何かの末に到達するものでもなく、手に入れるものでもなく、決めるのになにも要らない。
目の前にあるというけれど、それどころか既に浸かっているのだ。
ピッタリと一体で、これまで一度たりとも分離したことのないもの。分離のできないもの。
わたしたちが、ああ、なんて不幸なんだ!と嘆いている最中ですら、わたしたちと共にあるものだ。

言葉に語弊はあれど、幸福とは、その人そのもの。
だから、はじめから、なかったことなんて一度もないんだ…

わたしたちがわたしたち自身を見つめるとき、見ているものはわたしたちの幸福そのものだ。
わたしたちがわたしたち自身を感じるとき、感じているのはわたしたちの幸福そのものだ。

あなたはすでに持っている。それ、その、あなたの感じ、あなた、ただ移り変わるその、それのことなんだよ!!(日本語レベル…)

締めがロクでもない文になってしまったけれど、いいのだ、心だけは今日も、もうこれ以上込められないくらい込めた。

愛するあなたに楽しんでいただけましたことを祈って。そしてあの彼女にまたフレッシュに会えますように。

それではまた、明日!!

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