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玄奘、ナーランダに留学

 上座には師シーラバドラが座り、衆僧が周囲に座っていた。
 「……汝は何処から来たのか?」
 「チーナ(中国)からです」
 玄奘がそう答えると、師シーラバドラはさらに尋ねた。
 「……汝はナーランダで何を学ぶのか?」
 「『瑜伽師地論(ゆがしじろん)』です」
 玄奘がそう答えると、師シーラバドラは涙を流していた。
 衆僧たちも涙を流しているので、玄奘は回答を待った。
 「……師は夢のお告げを見たのです。今日それが正夢となった」
 衆僧の中から、一人の弟子が立ち上がり、そう言った。
 「どのような夢でしょうか?」
 玄奘が尋ねると、その弟子は説明した。
 シーラバドラは高齢のため、リューマチとなり、苦しめられていた。
 あまりに痛みが酷いため、食を断って、死のうと考えた。
 だが夢の中で三人の天人が現われた。黄金色、瑠璃色、白銀色だ。
 「……命を断とうとしているが、その苦しみは前世からの因果である」
 黄金人は言った。シーラバドラは前世で国王だったが、国民を苦しめた。
 「……その因果が今来ているのだ。前世の罪業を反省せよ」
 瑠璃人は言った。苦しい時は、安んじて忍び、つとめて仏法を弘めよ。
 「……チーナに一人の僧がおり、そなたについて学びたいと欲している」
 白銀人は言った。その者を待って、『瑜伽師地論』を教えよ。
 シーラバドラは夢から覚めると、リューマチの苦しみは消えていた。
 玄奘も話を聞いているうちに、涙が流れてきた。
 「まさかそのような事を起きていたとは、夢にも思いませんでした」
 玄奘は額を床に深くつけた。我、とうとう旅の目的地に辿り着けり。
 「心を尽くして学ばせて頂きます。『瑜伽師地論』を教えて下さい」
 「……汝は何年かけて、ここに来た?」
 「三年です」
 「……夢を見た時期と一致している」
 シーラバドラは三年前、この夢を見た。玄奘が長安を旅立った頃だ。
 この後、玄奘は5年間、ナーランダ僧院に留学した。
 最初の3年は学生として、最後の2年は先生として教壇に立った。
 玄奘は、ナーランダの学僧と、大乗小乗論争を繰り広げた。
 そして『瑜伽師地論』には、一殺多生という例の文言がある。問題だ。

 「……一殺多生と言うけど、一人殺せば、本当に皆生かせるものなの?」
 猿渡空がそう言った。亜空間だった。現界していない時、皆ここにいる。
 「……もののたとえだろうよ。確かに現実はそんなに甘くねぇ」
 ブタの💝様もそう言った。そしてさらに続けた。
 「……だが強いて言うなら、独裁者の暗殺とかそうかもな」
 河童型宇宙人は沈黙していた。皆、車座になって座っている。
 「でも安易に一殺多生と言うと、政治的な暗殺目的で使われそうです」
 女の童が言った。一殺多生という言葉には、革命性がある。
 「……そうだな。右翼の宣伝カーの決まり文句にもなったしな」
 ブタの💝様も嘆息した。大乗仏教が極右政党に転落する。革命だ。
 「……だが玄奘殿は、釈迦族殲滅戦の難問をこれで切り抜けた」
 河童型宇宙人は指摘した。悪魔との論戦に、敗北せずに済んだ。
 「……戦をやるのに、殺さない訳にはいかないからな。正当防衛だ」
 ブタの💝様もそう言った。だが猿渡空が疑問を呈した。
 「……でもそれって、本当に一人で済むのかな?」
 「……戦なら、総大将だけ討って、終わりにはならんのか?」
 ブタの💝様が猿渡空を見ると、彼女は考えてから、説明した。
 「……昔、深夜アニメで見たたとえ話なんだけど……」(注169)
 500人の人間がいて、300人と200人に分かれて、船に乗っている。
 だが二隻とも壊れて沈もうとしている。そして手元には直す技術がある。
 だが時間的猶予から言って、どちらか一隻しか直せない。どうする?
 「……そりゃあ、300人の船を直すだろうよ」
 ブタの💝様はそう答えた。だが河童型宇宙人は、早くも固まった。
 助かった300人は、再び2隻に分散した。200人と100人だ。
 そしてまた二隻が壊れて、どちらか選ばないといけない。どっちだ?
 「……200人の船だが、おいおい、待て待て。この問いはどこまで続く?」
 「……数字が割り切れなくなるまで。一人になるまでだよ」
 二回目の時点で、すでに300人が死んで、200人が助かっている。多殺だ。
 個々の判断では、多い方を必ず助けているが、累積するとそうならない。
 結果的に、多くの死者を積み上げている。一殺多生どころではない。
 「……少殺多生と言いたい処だが、回数を重ねると、真逆の結果となる」
 河童型宇宙人は呻いた。多殺少生だ。だが戦争や災害はこういうものだ。
 「……命を数量で選択するとそう言う話になるわな。一殺多生は無理だ」
 ブタの💝様もそう言って嘆息した。女の童が猿渡空を見て言った。
 「仏典にも似た話があります。そのアニメは参考にしているのでしょう」
 猿渡空は黙って、頷いた。そして女の童は続けた。
 「溺れている近くの知人を助けるか、遠くの親友を助けるか?」
 「……何だそれは?両方助けるのは無理なのか?」
 「両方助けられるのだったら、難問になりません」
 女の童は、ブタの💝様にそう答えた。
 「……じゃあ、遠くの親友は助けられるのか?」
 「いえ、この話では無理です。一緒に溺れて死にます」
 「……それだったら、最初から答えは決まっている。近くの知人だ」
 「ええ、近くの知人は助けられます」
 女の童がそう答えると、ブタの💝様は首を傾げた。
 「……そもそもこいつは問いにさえなっていない」
 「でも人生、得てして、そういう状況は在り得ます」
 女の童がそう指摘すると、ブタの💝様は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
 「……さっきの難問は人数が問題でしたが、今回は性質の問題でしたね」
 河童型宇宙人がそう言うと、猿渡空が指摘した。
 「……知人だろうと、親友だろうと、一人助けた事実は変わらない」
 そうであるならば救助可能な一人を助けるべきだろう。親友には悪いが。
 「人間には、性質があり、人数で捉えても、単純に割り切れない」
 女の童はそう言った。だが割り切れないのは気持ちか、人数か。
 「……一殺多生は理想論だな。少なくとも現実的じゃない」
 ブタの💝様も言った。それができるシーンは限られている。限定的だ。
 「万能の理論ではないと思います。だからお釈迦様も言っていない」
 女の童もそう言った。河童型宇宙人は考えている。
 「……まぁ、黙って殺されるのもおかしいが、一殺多生ともいかんがな」
 ブタの💝様は言った。少殺多生、中殺中生、多殺少生、どれかになる。
 「……いずれにせよ、善悪の観点が抜け落ちてはダメではないか?」
 河童型宇宙人は、静かに顔を上げた。
 「……そして善悪は数量で量れない」
 正義は数量で量れない、とも言い換えられるかもしれない。
 「……たった一人だけ正しくて、他は全員、間違いも在り得る」
 その時、助けるべきは一人だけになるだろう。他は全員助からない。
 「……だけどよう、沙悟浄。その判断は一体誰がやるんだ?神様か?」
 ブタの💝様がそう言うと、河童型宇宙人も頷いた。
 「……確かに神の如き判断だ。だが法に基づけば、不可能ではない」
 数量は、「物」と「事」の世界に属する。善悪の世界ではない。
 人間を人数で捉えると、性質を見失う。本質を見失う。善悪が測れない。
 「……でも大乗仏教って、一切衆生救済なんだろう?無理じゃね?」
 ブタの💝様はそう言った。だが女の童が反論した。
 「この場合、成仏が問題だから、人の生死は問題じゃない」
 そのための善悪であり、正義の観点だ。見失ってはならない。
 「……正義が数量で量れないというのは賛成だな。だが待てよ……」
 ブタの💝様は考え始めた。何か思い当たる節があるのか。
 「……じゃあ、多数決で決める民主主義ってどうなんだ?正義か?」
 「正義ではないでしょうね。間違いの方が多いですから」
 女の童がそう答えると、現代人である猿渡空も反応した。
 「……アンケートも正しくない?統計学とか、平均値、中央値も?」
 「正しい事は中道ですが、中道は多数決でも平均でもないです」
 概念的に難しいが、それが真理の世界だ。非常に狭き門なのだ。
 多数決、平均、中央値などは、「物」と「事」の世界に属する。
 だが現代人は、アンケートとか、多数決とか、中央値を重視する。
 真理の世界からかなり遠ざかっている。正しさを追及できていない。

 玄奘は、ナーランダで学んだ『瑜伽師地論』の一殺多生に影響を受ける。
 だが一殺多生は、中道ではない。つまり、仏教的に正しいとは言えない。
 玄奘は、少しずつ、気が付かないうちに、道から逸れていく。
 小乗の外を歩く事は、危険を伴うが、小乗では人類全体を救えない。
 だから大乗の道を選んだ玄奘は、正しいと言える。歴史的決断だ。
 その結果、日本の仏教も全て大乗となった。これは玄奘の影響が大きい。
 玄奘の修行は進み、ナーランダ僧院で、玄奘に勝てる者はいなくなった。
 天竺から旅立つ日が近づいた。それが玄奘、ナーランダに留学だった。

注169『Fate/Zero』虚淵玄/ TYPE-MOON 2011~2012 第24話「最後の令呪」

            『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』補遺049

『玄奘、アジャンターを視察』 玄奘の旅 15/20話 以下リンク

『玄奘、西天取経の旅に出る』 玄奘の旅 1/20話 以下リンク


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