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並行世界の恋人、アンリミテッド

 ――気が付くと、その女子高生は廊下の物陰から、様子を伺っていた。
 一瞬、どうして自分がここにいるのか分からなくて、混乱した。
 いや、今は目の前の出来事に、集中しないといけない。大事な場面だ。
 「……先生、どうか受け取って下さい。ここに私の気持ちが書いてあります」
 その女子生徒は、薄いピンク色の便箋で書いた手紙を先生に渡していた。
 「うん。分かった。読んでおくよ」
 女子生徒のその眼差しに、羨望を覚えた。
 自分もああなりたい。だが人の相手を奪ってはならない。
 女子高生は退いた。恋の撤退だ。ここで戦ってはならない。
 その後、女子高生は平穏無事に高校を卒業し、大学に進学した。
 両親は彼女の進路を祝福し、キャンパスで開放感を味わった。
 三年の時、一コ上の先輩と恋に落ちた。これは本物だった。運命を感じた。
 彼が卒業するまでの一年間、彼女の人生の中で、一番輝いていたかもしれない。
 だが彼女の初めては、彼には捧げなかった。今はまだその時ではない。
 二年後、二人は別々の会社に就職したが、交際は続いていた。
 だがこの会社で、彼女は30代の上長と出会った。
 恋の誘惑を感じたが、辛うじて踏み留まった。彼も満更でもない。
 彼女は悩んだ。これは人生の選択肢、オルタネィティブだ。
 将来性では、一コ上の先輩も負けないかもしれないが、今輝いているのは彼だ。
 彼女は30代の上長を選ばなかった。人生は収入でも、将来性でもない。約束だ。
 この事もあって、彼女は自分から先輩にアタックした。性格だ。
 上手く行った。幸せだ。憧れのジューンブライドを挙行し、神前で誓う。
 私はこの人と共に生き、共に死にます。約束だからだ。
 結婚初夜で初めてを捧げた。シナリオ通りだ。
 たちまち子供を授かった。一発必中だ。彼女は外さない。
 それから子供が生まれた。そして暫くしたら、ベビーカーで外に出た。
 「……可愛い赤ちゃんですね?男の子ですか?」
 ふとコンビニの駐車場で、ベビーカーを覗き込む若い女がいた。胸が大きい。
 「ええ、男の子です」
 元女子高生は答えた。その若い女性も命を授かったと言った。互いに祝福して、別れた。
 誰も死んでいない。誰も不幸になっていない。あれ?でも本当にそうだったのか?
 だがその元女子高生は満足だった。満ち足りている。問題はない筈。だが悲しい?
 傍らに並ぶ旦那は、元一コ上の大学の先輩だ。彼が微笑んだ。そして運命は回る――
 ――その高校教師は、運命の岐路に立っていた。
 一瞬、どうして自分がここにいるのか分からなくて、混乱した。
 だがその女子生徒の声で、すぐに状況を認識した。
 「……先生、どうか受け取って下さい。ここに私の気持ちが書いてあります」
 女子生徒は、薄いピンク色の便箋で書いた手紙を先生に渡していた。
 「うん。分かった。読んでおくよ」
 近くの物陰から誰かが退いたが、英語教師は気が付かなかった。
 だがこの瞬間、世界は確実に変わっていた。高校教師が知らない処で。
 それからこの二人は、先生と生徒の範囲内で、話し合いを続けた。
 それは高校卒業、大学進学、大学卒業後も続いた。
 二人は『不思議の国のアリス』(注16)と『オズの魔法使い』(注17)の話をしていた。
 アリスはウサギを追い掛けて迷い込むSpirited Awayで、神隠し系だが、ドロシーはハリケーンで家ごと魔法の国に飛ばされたので、異世界転生ものの走りだと解釈していた。
 英語教師は大学で両者を比較して、アメリカ文学を選んだ。現代性を感じたからだ。
 アリスはイングランドの話だが、ドロシーはカンザスの話だ。アメリカ西部だ。
 ここには何かあると二人は話し合った。『聊斎志異』(注18)だ。『雨月物語』(注19)だ。
 彼女といると、とても楽しかった。こんな世界、こんな人生があったなんて。
 こんなルートがあるなら、こちらを選びたかった。だが現実はそうではなかった筈。
 どうして灯油を被って、炎の魔人になんかなった?彼女と一緒なら、何の問題もない。
 だがこれは、自分がいた時間の話じゃない。自分の世界線ではない。
 自分の責任で、選んだ世界じゃない。夢だ。幻だ。並行世界だ。
 自分はあの女子生徒を選ばず、別の女を選んだ。欲望だ。炎上する。
 だが彼女は二人の秘密をペラペラ喋り、高校教師は破滅した。
彼女を選んだ時点で、道を踏み外していたのだろう。悪いのは自分だ。
 このルートは選択すべきじゃなかった。人を導く教師の道ではない。
 これは結果論だが、そもそもの始まりからして、邪なものがあった。
 彼女の外見は魅力的だった。誘惑された。そして乗ってしまった。
 目の前に、美味しそうなお〇ぱいが生っていたので、つい手でもいで食べてしまった。
 その禁断の果実に、手を出すべきではなかった。
 なぜ、どうして、こんな事になった。
 そこに夢ではなく、手っ取り早い欲望があったからか?
 あの女子生徒は一度手を差し伸べたのに、自分から払ってしまった――
 「――なんで世界が成り立っているのか、考えた事ある?」
 暗闇の中、不意に女の子の声が聞こえた。やけに暑苦しい。不快だ。
 「あなたたちはもう少し、世界の世界性について考えた方がいい」
 その声は決して大きくなかった。だが確実に届いていた。
 「あ、決してハイデッガー(注20)的な意味では言っていないからね」
 何やら、急にドイツ人の名前を出していた。そんな人は知らない。
 「世界は勝手に自然発生したものじゃない。それは人間も同じ――」
 気が付くと、そこは地獄だった。血が流れ、炎が燃え盛る。黒天だ。紫色のクモと炎の魔人がいた。二体は相争い、複雑に絡み合っていた。戦っているようにも見え、互いに貪っているようにも見えた。その様子を一言で言えば、おぞましいに尽きた。延々と繰り返している。
 だから死神美少女はこうも言った。
 「何でエンマ様は、こんな身勝手な人たちのためにチャンスを与えるんだか……」
 嘆息した後、気を取り直すと、死神美少女は呼び掛けた。
 「……二人ともよく聞きなさい。あなたたちはやり直したいか?」
 「やり直したい!」
 「人生をやり直せるのか!」
 紫色のクモと炎の魔人がそう言うと、死神美少女は答えた。
 「やり直せる訳がない。人生は一回きり。それが責任。でも記憶を封じて、また新たに生まれ変わる事はできる。でもその前に、反省は必要。そうしない限り、ずっとこのまま」
 「……ずっとこのままは嫌だ。でも反省?どうやってやるんだ?反省できない」
 炎の魔人は言った。まだ辛うじて、正気は残っているようだった。
 「これからあなたたちに、本来あったかもしれない運命のルートを見せる。これは高度な技で、本来下っ端の死神に許されないもの。だけど今回は特別に、天帝様から許可を頂いた」
 話は上の方まで通っている。この死神は執行者に過ぎない。
 「これから見せる世界をあなたたちと同期させる。そこではあたかも転生者のようにやり直せるけど、あくまで並行世界の話。でもこの世界も時間のどこかに存在する。よく考えて」
 二体の魔物はちょっと分からないという風に見えた。だが体験すれば分かる。
 「クモの糸のカンダタ(注21)になるか、ならないかは、あなたたち次第……」
 二体の魔物は、大人しく待った。
 「……鎌苅雫、これより救済措置に入ります」
 死神美少女が鎌を回した。右回りに高速回転する。
 「秘儀、並行世界の恋人、アンリミテッドワールド!」
 閃光が弾けて、溢れた。二人の運命が再構築される。恐ろしく複雑にルートが分かれていた。無量大数だ。ちょっと認識できない。だが大筋は理解できたし、自分が入らなかったルート、世界線も見る事ができた。派生的に、自分たちと直接関係がないルートも見た。
 二人は全く知らない話を見た。若い夫婦がアパートで幸せに暮らしている。だがその若い奥さんは、コンビニの駐車場で、刺されて死んだ。若い旦那は悲しみ、幽霊になった若い奥さんが癒す。そんな話だ。二人は青い顔をしていた。これは自分達がやった。間違いない。
 死神美少女は、二人の様子を見ると、もう一つの世界線を見せた。
 二人が高校で関係を作らず、若い奥さんが刺されないルートだ。普通にコンビニに行って、タマゴとラムレーズンを買って帰る。ただそれだけだ。そして子供を作り、育て、二人は幸せな一生を過ごした。ハッピーエンドだ。恐らくこれが、本来予定されていた正しいルートだ。
 「これは一体……」
 炎の魔人は言った。
 「私たちは何て事を……」
 紫色のクモも言った。
 「悪い事をやったと思うか?」
 死神美少女が尋ねると、二人は頷いた。
 「あなたたちは人の幸せの芽まで摘んだ。それは許される事ではない。反省しなさい」
 死神美少女がそう言うと、二人は項垂れた。心から悔やんだ。
 微かに光を放ち始める。徐々に二人は、人の姿を取り戻して行く。
 「これは一体何なんだ?世界はこうなっているのか?」
 元高校教師が尋ねると、死神美少女は言った。
 「そう。世界は原因結果の連鎖。これを縁起の理法と言う」
 無数の並行世界があり、原因結果で連鎖し、縁で互いに引き合う。これが世界だ。
 単純に、物質界と霊界があるだけではない。それさえ無数の世界線で重なっている。
 この後、時間のどの時点で、二人が反省して、救われたのかは定かではない。だが反省はした。運命に修正はかかる。だが今はまだ地獄だ――そして地獄とは、無限ループの事である。所謂、悪無限だ。運命の選択肢を間違えると入り込む。オルタネィティブだ。
 世界はアンリミテッドで、選択肢は無限にある。そして運命は回る。車輪のように。
 
 注16 『Alice's Adventures in Wonderland』1865年 ルイス・キャロル著 イギリス
 注17 『The Wonderful Wizard of Oz』1900年 ライマン・フランク・ボーム著 アメリカ
 注18 『聊斎志異』1766年 蒲松齢著 清
 注19 『雨月物語』1766年 上田秋成著 江戸
 注20  マルティン・ハイデッガー 『哲学への寄与』1936年 ドイツ
 注21  芥川龍之介 『蜘蛛の糸』1918年 日本

          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード45

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