The end of the world 3, I stand by you
「……どうしてこうなった?」
そのパン職人は、一人で夜の海に浮かんでいた。記憶がない。酔っ払いだ。
「……おーい!誰かいないか?」
酔っ払いは叫んだ。近くに酒樽がある。ワインだ。ロープで結んである。
「……おーい!本当に生きている奴はいないのか?」
パン職人は救命胴衣を着ている。確か山小屋でもらった。誰だったか?
「……誰かいるなら返事をしてくれ!」
酔っ払いは、全世界で独りぼっちだった。誰もいない。暗い海と暗い空だけだ。
「……本当に誰もいないのかよ」
パン職人は嘆いた。時折、木材が流れて来る。だが人はいなかった。
酔っ払いは泳いで移動しようとした。すると何か黄色いものが見えた。複数ある。
「……そこに誰かいるのか?」
パン職人は泳いで近づいた。見ると、それは救命胴衣を着た男たちだった。皆、死んでいる。目立った外傷はない。溺死でもない。なぜ死んでいるのか?
この男たちは、自分と同じ救命胴衣を着ている。キャンプ場にいた者だろう。
……よく分からないな。眠るように死んでいる。なぜだ?
酔っ払いは諦めて離れると、酒樽に近づいた。蛇口を捻って、ワインを直呑みした。五臓六腑に染み渡る。よし。活力が出て来た。やはり酒は命の水だ。ガソリンだ。
とりあえず、いつまでも漂流していても仕方ない。移動しよう。
パン職人は酒樽に登ると、周囲を見渡した。ダメだ。暗くてよく見えない。これでは朝まで待たないとダメだろう。酔っ払いはしゃっくりした。止まらない。
「……とりあえず、呑むか」
パン職人は、また蛇口を捻って、カルフォルニア・ワインを味わった。
「おい!起きろ!寝るな!」
レオンがパン職人の顔を叩いている。アリスは意識が朦朧としていた。
「目を覚ませ!」
一際大きな平手打ちをすると、酔っ払いは、目を覚ました。
「……誰だ?」
「俺だよ。レオンだよ。山小屋で話しただろう?」
レオンがそう言うと、パン職人は、目を見開いた。
「……ああ、お前たち、生きていたのか!」
酔っ払いは、急に元気を取り戻した。そして酒樽の蛇口を捻って、ワインを呑む。
「俺たちも飲んでいいか?」
パン職人は頷いた。アリスは先に呑むようにレオンに言われた。
「……山小屋の後、記憶がない。どうなった?」
「波が迫って来て、海に浚われたんだ」
レオンはそう答えると、アリスを酒樽の上に乗せた。黄色い救命胴衣が朝日に反射していた。酔っ払いは、かねてからの疑問を口にした。
「……どうして他の皆は、死んでいるんだ?救命胴衣を着ているのに」
「水温だろう。あまりに冷た過ぎる。まるで北の海だ」
パン職人は驚いた。そんなに冷たいか?特に何も感じない。これはおかしいか?
「……どうして俺たちは死んでいない?」
レオンは酒樽を見た。アリスは寒そうにしていたが、持ち直して来た。
「酒だろう。そうとしか考えられない。山小屋でもかなり呑んだからな」
酔っ払いは、思い出した。世界の終わりを祝して、三人で乾杯した。
「ブランデーとか、かなり呑んで、酔っ払っていた。その後、海に投げ出された」
通常であれば、そっちの方が危ない。溺死する。だがこの場合は違った。
「……もし酔いが醒めたら、どうなる?」
「体が冷えて、死ぬだろう」
レオンは、自分の体に触れていた。感覚がなさそうだった。だから恐怖もない。
「本来であれば、冷えや痛みを意識する筈だが、今は完全に麻痺している」
本当はかなり不味い状態だろう。そして酔いが醒めて、海水の冷たさや、体の痛みを感じ始めたら、恐らく死ぬ。もたない。感覚が麻痺しているから、生きている。
「……分かった。じゃあ、どんどん呑もう。それしかない」
パン職人は再び、ワインを呑んだ。レオンは空を見上げた。鳥さえ飛んでいない。
「とりあえず、救援を待つしかない」
「……そうだな。でもどれくらいやられたんだ?ロスは全滅か?」
酔っ払いがそう言うと、アリスが答えた。
「分からない。でも生き残ったのは私たちくらいよ」
「……地震と津波か。大地が割れて、陥没していたな」
パン職人は思い出すように言った。たまたまキャンプ場にいて助かった。
「……でも何で急に沈んだんだ?いくら何でもこれは酷過ぎる」
「それはあまりに合衆国の人々が、自然に反し、神に背いたからよ」
アリスが答えると、二人の男は互いに顔を見合わせた。何かヒソヒソ言っている。
「……俺たちも死ぬのか?」
酔っ払いが尋ねると、アリスは意外な事を言った。
「新しい大地が浮上してくる。沈んだ分だけ」
地球には陸地が3割ある。海は7割だ。これはいつも変わらない。
「世界は再建される。古い世界を滅ぼして」
「……それは勘弁願いたいな。何だって滅ぼす」
「これは何度も繰り返されて来た。そして前回はアトランティスだった」
アリスがそう言うと、パン職人はレオンを見た。彼はただ頷いている。
「だが俺たちは生き残った」
レオンが言った。そしてアリスを見る。
「何とか生き残らないといけない」
アリスも頷いた。それは死んだ人たちのためでもあるのだ。
「……でも何で合衆国なんだ。そんなに俺たち、悪いのか?」
パン職人は不満そうだった。酔っ払いは国を愛していた。愛国者だ。
「合衆国だけじゃない。他の国でも同じ事が起こる」
アリスはそう答えた。今なら分かる。滅びの道は広く、救いの道は狭いのだ。
「……大陸もそうか?」
レオンは大陸の猿兵の事を考えているようだった。アリスは頷いた。
「かなり沈むと思う。自然と神に背いた分だけ」
「……神様、酷くないか?」
その酔っ払いは泣いていた。アリスは考えた。
「いや、これ以上、悪を犯さないために、死を与えるという選択肢もある」
それはグリム・リーパーがやってきた事だ。真の正義を執行していた。今なら意味が分かる。峻厳だ。真実の世界はかくも恐ろしい。全ての善悪は裁かれる。
「……それがこれか!」
パン職人は水面を叩いた。水柱が上がる。
「私の父も死んだ」
アリスは言った。彼女の父親はカルフォルニア州知事だった。表向きは急死となっている。だが彼女は見たのだ。グリム・リーパーが彼を裁くのを。
「きっと私の父のような人は、多いと思う。皆、同じような事を考えている」
善悪などない。価値判断もない。世界は全て同じで、相対的だという見方だ。
「……どうしてそんな事が言える?どうしてそんな事が分かる?」
酔っ払いはアリスに尋ねた。さらに詰問する。
「……それにアトランティスなんて、あるかどうか分からない遠い昔の話だろう?」
「アトランティスはマルチバースに存在する。今も存在する。生き生きと」
「……どういう事だ?」
「もしこの世界と、zoomのオンラインみたいに繋がったら、どちらが真で、どちらが偽か、分からない。それくらい存在する。でも存在するから、働き掛けて来る」
「……象巫女に?」
レオンがふざけてそう言うと、アリスは真面目に答えた。
「いや、夢巫女よ」
「……じゃあ、俺たちはどうすればいい?」
酔っ払いは尋ねた。アリスは二人を見た。
「Believe in me. I stand by you.」(私を信じて。側にいるから)
なぜかアリスが微笑むと、男たちも合わせて、微笑んだ。
「……でもあれだけの地震と津波だぞ。他の奴らは生きているのか?」
パン職人がそう言うと、レオンは答えた。
「沖に出ていた船が全部やられた訳じゃない。津波を乗り切った船もある筈」
「……サーフィンのようにか?」
「サーフィンのようにだ」
二人の男はそこで笑った。ふとレオンが耳に手を当てた。
「……何か聞こえないか?」
汽笛が鳴っていた。遠くに船が見える。三人は顔を見合わせた。助かる。
それからが長かったが、幸いにも船の方で、漂流している三人を見つけてくれた。
救助された。貨物船だ。オーストラリア船籍だ。三人は暖かい毛布に包まれて、ブリッジで船務長と話をした。すると操舵室が、にわかに騒がしくなった。
「……レーダーに感あり。大船団です。いや、大艦隊?」
そのクルーがそう言うと、ワッチが飛び込んで来た。
「見て下さい。霧の中に艦隊が……」
艦長は双眼鏡を持って、ブリッジを出た。アリスたち三人も甲板に出た。
「……アレか」
軍艦のようなシルエットが見えた。複数見える。霧の合間だ。
「連中、無線封鎖しています。作戦中ですかね?」
クルーがそう言うと、艦長は双眼鏡を下げて、こう言った。
「……大艦隊のど真ん中にいるようだ」
貨物船は何もしなかった。そして霧が晴れると、大艦隊は姿を消していた。
それがThe end of the world 3, I stand by youだ。一つの世界が終ろうとしていた。
『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード113
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