見出し画像

音楽の耳と言語の耳

Fum さんから質問票をいただき、コメント欄にすこし書きました。やや舌足らずかもしれないと思いましたので、もう少し丁寧に書きます。

「ピアノに対する耳が良いというのは、英語に対する耳が良いとイコールなのでしょうか?」

「音楽と言葉の思考回路はどういう風に重なっていると思われますか。」

こういうご質問の内容でした。詳しくはぜひ Fum さんの「note×ISAK (勝手にコラボ②)」をお読みください。

そこのコメント欄に書いたのはつぎの内容でした。

 こんにちは。名前を挙げていただいて恐縮です。
「音楽と言葉の思考回路」は大きな問題でしょうね。よく分かりません。
 言葉を中心にして考えると、アクセントのとり方によって二種類に分かれます。強勢とピッチです。その強勢によるアクセントの言語の場合だと、強勢がつくりだすリズムが聴き取れないと意味をとるのが困難です。リズム上のまとまりが意味のまとまりに相関しているからです。脳の中の認知のメカニズムがそうなっているらしいのです。
 かたや音楽の方ですが、クラシックのような指揮者・演唱者が自由にリズムを決める音楽は別として、ある種の定常的なビートを備える音楽の場合、リズムがとれなければ音楽になりません。
 というわけで、リズムのある音楽と強勢でリズムをとる言語(強勢拍律言語といいます)との間には、たぶん親和性があります。ので、前者に耳が慣れていると後者が聞き取りやすくなることはありそうです。
 Jazz Chants という、その考え方を応用した試みもなされたことがあります。ことばの教材としては中々すぐれています。

基本的な考えは以上のようなものです。が、Fum さんのノートには気になる例があります。

「私の友人は留学経験があり、英語を普通に話せる人なのですが、耳を慣れさせるためにクラシックをよく聞いていると言っていました。」

この例は、わたしには理解不能です。クラシックといっても広いので、ことによると、歌を含むクラシックなのかもしれません。歌の場合だと、ほとんどの場合、詩がつかわれます。詩にはほとんどの場合、ある種のリズムや韻律が備わっています。そういう言葉の場合、音楽に乗せるとよく聞こえるということはあり得ます。

***

ここで少し上の話題からそれますが、興味深い事例を挙げます。音楽の起源に関する話題です。

アイルランドの伝統音楽にダンス音楽があり、そのリズムの種類の中にジグ(jig)という3拍子系のリズムがあります。この起源についての議論です。

ジグのリズムに乗って踊っている場合、その言語的起源について想いを馳せることは、まずありません。あるとしたら、韻律学者のような変人(誰それ?)くらいでしょう。

ところが、一説にジグの起源は詩のリズムであるというのがあります。それが当たっているとすれば、詩のリズムが音楽の起源になっているわけです。確かに、ある種のアイルランド語の詩の詩脚内リズムは3拍子です。とすると、楽器や打楽器を使う前は口三味線だったのかもしれません。実際に、アイルランドやスコットランドでは口三味線の発展形である mouth music がさかんに行われています。

***

言語の認知を問題にする学問領域に認知言語学というのがあります。

言語を脳が理解するときに、一まとまりになるものを捉えられなければ、ことばがダラダラと続くだけになってしまいます。どこかで切る必要があります。

その一まとまりを仮に「句」(phrase)とした場合、脳が認知する「句」と言語の構造上の「句」とは対応するといわれています。

そうだとすると、言語の「句」を画するマーカをみつける必要があります。

そのために基礎となる条件が、英語やアイルランド語の場合は音節(syllable)であるのに対し、日本語の場合はモーラ(mora)であるといわれています。というか、従来いわれてきました。

ところが、最近の新しい説だと、日本語の場合でも、モーラだけでなく、音節を考えに入れないと解けない現象が現れています。

ともあれ、音節を基礎ブロックとして、強勢アクセントをもとにリズムをきずく。そのリズムに乗って句を認識する。というのが強勢拍律言語(stress-timed language)の場合です。

***

Fum さんのノートには、もう一つの重要なこととして、「これからの時代はlogicalにものを考える力が大事」ということがあります。

この点については、英語がそれに向いているかどうかには懐疑的な観方があり得ます。たぶんフランス人は異議をとなえるでしょう。

明晰であらざるものはフランス語にあらず

を標語としている国民ですから。

論理的明晰性を本当に問題にすれば、どの言語がそれに適しているかはまた別個の議論となるでしょう。

***

いま言語のロジックについて語るゆとりがないので、個人的な考えを一つだけ。

ことばなどを用いてコミュニケーションをはかる場合に、伝えたいことは往々にして、論理でなく感情であると思っています。

たとえば、あることがきたないと思われた場合、そのことじたいを伝えるのは思ったよりむずかしいことがあり得ます。「清浄」の概念は文化や宗教により異なるからです。

だとすると、その根本のところはお互いの差異を認めたまま、前に進まざるを得ない。

しかし、自分がある感情を抱いているということは、相手に伝えた方がいい場合があるでしょう。

それをどうやったら伝えられるか、という意味での言葉のロジックは考える価値があります。

そして、ある民族の感情の歴史を知るには、その民族の言語を知らなければならない、というのはおそらく本当でしょう。そこのところは、近似値あるいは迂回路を、翻訳によってある程度達成することがあるいは可能かもしれませんが、基本的には無理にちかいでしょう。

それでも、その内容を「翻訳」して伝えることが、共同作業や相互理解のために必要だとしたら。そのためには、たぶん、共通の価値を見つけて、そこまでの道筋の違いを相手に分かるように伝えることが有効ではないかと思います。

その共通の価値は、私見ですが、霊的なものか、「皮膚感覚」に近いもの(この場合の皮膚は「皮膚という脳」の考え方です)か、ヒトに関わること、の中に見出せそうです。たとえば、地球に人類が生存を続けるために必要なこと、とか。健康(WHOの一番ひろい定義)とか。

#コラム #耳 #言語 #コミュニケーション #音楽 #アクセント #句 #認知 #皮膚  


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?