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現代詩の中心に入れば入るほど、誰も読まなくなる

「中央公論」2015年6月号 (下) の現代詩をめぐる対談を読みかえしている。

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 小池昌代と四元康祐とは十年前にも対談というか対詩している(『対詩 詩と生活』)。

 今回は日本の現代詩や詩人であることをめぐって対話している。四元がふだんはドイツ在住であることもあり、2015年に小説『偽詩人の世にも奇妙な栄光』を出したこともあり、そういうドイツと日本の違いとか、詩人が小説を書くことといった、やや周辺的なことがらも扱われる。

 だが、何といってもおもしろいのは、現代詩の「中の人」としての視点、小説でなく詩にしかできないこと、等々を、評論家的にでなく、高レベルの実作者としてさらっと述べているところだろう。「関係者」が読むとドキッとするのではないか。いわば業界内幕話にちかい。

現代詩の中心

 一般読者がいちばん知らないのは、「現代詩の世界が世間とパラレルになっていない」ことだろう。「詩集が売れて、外からは本流のように見えるだろう詩人たちは、現代詩の世界では脇のほうに寄せられて」いることなど、まったく知られていない。

 これには理由がある。中也にしても俊太郎にしても、中心的な人ではない。「そこから外れているから世間に読まれる」。つまり、「現代詩の中心に入れば入るほど、誰も読まなくなる」のである。

現代詩のエントロピー

 四元が小説を書いた理由をこう語る。現代詩の世界に少しずつ入れてもらったが、「気がついたらその世界自体のエントロピーが低下していた。このまま老後をこの世界だけで生きていったら寂しいんじゃないか」と。だから、ちょっと別の世界である小説に行きたくなった。

小説と詩

 四元は小説が生まれる場についてこう語る。「詩に比べると、小説は地上的で世俗的で、人間との関わりの中で生まれる」と。

 ヨーロッパでは、たぶん日本とちがい、詩人は生きていける。なぜか。四元は「社会全体として、詩人というものを神聖なものに言葉を捧げる存在と考えているから、最低限の生活を保障してやろうという感じ」だと言う。日本の場合は、「世の中から超越的な感覚が希薄になってきているから、きついと感じ」ると。

 小池は「詩人には本質的な冷たさのようなものがあるかもしれない」と言う。「人間には、すごく不親切で無愛想な言葉が必要な時がある」と思うと。

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同号には佐藤優がキリスト教観を書いていた。それも含めた書評はこちら

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#コラム #現代詩 #詩 #小池昌代 #四元康祐 #中央公論

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