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【米大統領列伝】第三回 トマス・ジェファーソン大統領(中編)

はじめに

 告知通り、中編では一期目(1801-1805)でトマス・ジェファーソンが何をした大統領か追っていきたいと思います。

前回は以下により

閣僚編成

 毎回恒例の閣僚編成は以下の通りです。

副大統領 アロン・バー(1801–1805)
国務長官 ジェームズ・マディソン(1801–1805)
財務長官 サミュエル・デクスター(継続–1801)
     アルバート・ギャラティン(1801–1805)
陸軍長官 ヘンリー・ディアボーン(1801–1805)
司法長官 レヴィ・リンカーン(1801–1804)
     ロバート・スミス(1805)
郵政長官 ジョセフ・ハーバーシャム(継続–1801)
     ギデオン・グレンジャー(1801-1805)
海軍長官 ベンジャミン・ストッダート(継続–1801)
     ロバート・スミス(1801-1805)

内政政策

 まず、ジェファーソンは外国人・治安諸法の下で投獄されていた人々を釈放するところから始まり、1801年に司法権法を撤廃し、アダムズ政権で嫌がらせ半分で押し付けられた判事を解任するなどしました。これらの動きからマーベリー対マディソン事件と呼ばれる世界初の違憲審査制を確立する事件にまで発展しました。他には「ジェファーソン聖書」という神話性の部分を削ぎ落した聖書を道徳規範として1804年に出しましたが、現存する写しは存在しない。

軍事・外交

 前回でも軽く触れましたが、ジェファーソンは英国軍を前に敵前逃亡した人物でした。そのため、非難されることも多かったわけですが、汚名返上する為にも、富国強兵政策として陸では1802年にウェストポイントの陸軍士官学校を設立し、海では第一次バーバリ戦争でトリポリまで海軍を派遣する等しました。

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米艦エンタープライズがトリポリ船を拿捕する図

 そもそも、バーバリ海賊に襲われるようになった理由は英国から独立した時、それまで英国の強大な海軍力下で護衛された交易船の護衛がなくなった為です。米艦フィラデルフィアが拿捕されるまで事態は悪化し、ジェファーソンは議会に対し、宣戦布告する手続きを行った上で海軍艦隊をトリポリまで派遣しました。トリポリと同盟関係にあった国々との連携外交もあり、素早い決着で和平までもっていくことができました。戦争終結とともに海軍を縮小させました。

ジェファーソン政権ではフランス領だったルイジアナの買収案をナポレオンに知らせる特使を派遣し、提示額の1.5倍の値段なら売却してもよいと返事された為、ジェファーソンはルイジアナ買収に成功しました。額にして1500万ドルという破格の買い物をしたジェファーソンは「わが国のために、おそらく史上最大のバーゲン品を買い上げた」とする発言をしたとされてます。

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ルイジアナ買収領土は緑部分

注:米国が領土を購入したのはルイジアナ買収のほかにアラスカ買収もあり、購入した領土面積はかなり広いものです。尚、太平洋進出までの解説をした記事も出しているので、載せておきます。

他に外交と言えば、原住民との交渉もあります。まだ、原住民が住んでいた土地が残っている為、各酋長との交渉の末に条約を結ばせるなどしました。

注:酋長とは部族の長です。合議制の政治体制を持つ原住民は部族の支配者は厳密には存在せず、一人の一任で物事を決めることの出来ない現代で言うところの内閣を介した民主主義的な体制でした。

外交上のミスコミュニケーションも多く生じ、ジェファーソン本人は原住民を「高貴な野蛮人」と呼び、見下していました。他にも「人と猿の中間にある存在」など学識のある文明人とは思えない数々の発言を残してます。尚、非文明人のような発言をしていたジェファーソンは原住民に文明を与える同化政策の元で原住民との交易や安全保障関係を結ぼうとしていました。しかし、外交上のミスコミュニケーションも多く、苛立ちを隠せないジェファーソンは原住民を住んでる土地から追い出し、西部に強制移住させました。当然のことですが、長年住みついていた土地から出ていけと言われた原住民は抵抗を続けることになり、長年続くインディアン戦争を悪化させることになりました。尚、原住民を絶滅政策はジェファーソンが起草し、後のアンドリュー・ジャクソン大統領が法整備化し、実行されることになりました。

移民政策・奴隷政策

移民政策

 ジェファーソンの移民政策はこれまでの路線から大きな変化はないです。但し、外国人帰化の統一規則を設定する法律(別名:1798年の外国人帰化法)を1802年撤廃すしたことにより、帰化する在留資格を14年から5年に戻した点くらいの変更点です。

奴隷政策

 前政権の連邦党は北部州の反奴隷よりのポリシーを持っていたのですが、ジェファーソン政権は南部よりの奴隷推奨していた民主共和党でした。南部の州が奴隷を必要としていた理由はプランテーションでの労働力に必要だった為です。この時代は農業機械が発達する前の時代であり、農業生産力は土地の広さと労働力数の比例関係にあり、土地質で農業立地も決まる時代の話です。その為、奴隷を手放すことは中々出来ない状況のまま奴隷は引き続き、酷使されます。尚、奴隷を使わずにプランテーションを運用することは可能なことはジョン・アダムズ前大統領が証明してくれますが、ジェファーソン本人は生涯に渡って、奴隷を使ったプランテーションを運用していました。北部と南部の州も似た構図です。他には郵便局の配達係から黒人を排除する法律にも著名するなどもしてました。

教育

 前任者のアダムズよりも教育の重要性を理解していました。それまで海外の一級技士に方の高さまでお金を積んで教えを享受してもたっていたところのですが、富国強兵における技術人材育成が国内で出来るように技術士官学校の創設にも携わっていました。1800年に発足した米国議会図書館にも興味を示し、多くの図書を推薦したとされます。加えて、議会でジェファーソンに初代図書館長を任命する権限を与えることに加え、図書館における法律や規制を決めました。更に大統領と副大統領にも図書館を使う権限もしました。

経済

 ジェファーソン政権は前任のアダムズ政権とは異なる「税」に関する方針を持ってました。アダムズ政権は国内で税金を集め、関税を低くする交易による国富を実現しようと試みていたのですが、ジェファーソン政権は国内で減税を行い、海外製品に関する関税を高くする方針をとりました。過去の大統領列伝の回で以前にも触れましたが、ジェファーソンの率いる民主共和党は農業国としての発展を目指していた為、海外交易に関しての関心は低めでした。しかし、第一次バーバリ戦争でも見られるように交易船がやられても放置するまでの関心の低さはなく、しっかりと自国の利益追求の為に海外派兵を決めました。財政難に陥ったフランスが破格でルイジアナを売却する意思を固め、ジェファーソンも購入に同意した為、世界でも稀に見る農業に適した土地を手に入れ、国内の農業生産力は著しく向上しました。

更に、ジェファーソンはルイス・クラーク探検隊をまだ未開拓だった西部の太平洋側まで地図を作成させ、その過程で北西航路の存在の有無を確認させるなどして、将来的な交易路模索も抜かりなく探させました。ジェファーソンが地図を作成させるために議会で費用を拠出させた功績は米国の太平洋への領土拡張及び、国際交易の可能性を模索しようとしていた先見性の高さは素直に評価しなければならない。

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北西航路の交易路

他の功績としてウィスキー税の廃止もあり、国民人気はこれで大きく伸びる要因のひとつになりました。

1804年の大統領選挙

 国内ではウィスキー税廃止、海外での戦争勝利やルイジアナ買収でジェファーソンは非常に人気のある候補として大統領選挙に挑み、難なく選挙人票を162票獲得し、再選を果たします。連邦党から出馬していたチャールズ・ピンクニーは14票の獲得でしたから大差での勝利でした。この選挙の1804年のアメリカ合衆国憲法修正第12条で大統領と副大統領の選挙人票を分けることを制度化した初の選挙だったことも特筆すべき点です。バー副大統領はハミルトンとの決闘で問題を起こしていたので、ジェファーソンは距離を置き、ジョージ・クリントンと共に選挙に挑みました。

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1804年大統領選挙の結果

トマス・ジェファーソン小話

・ジェファーソンが大統領になれたのは選挙人票での再投票でアレクサンダー・ハミルトンが票を投じてくれたからですが、再投票候補のアロン・バーは恨みを持っていた為、バーは副大統領だったにも関わらず、1804年にハミルトンに決闘を申し込み、殺害しました。

・大統領就任以前に考古学に関する発掘技術開発で功績を出していた。

あとがき

 ジェファーソンは教育の重要性を理解しているだけでなく、先見性の高い政策を実施し、米国が反映する将来設計を築くことのできた人物ですが、その一方、どこか人を見下す性質を持っていた部分が見え隠れしてました。私見として、ジェファーソンには教育者として人生を過ごしていれば、より功績を誉めやすい人物です。次回の後編にて、ジェファーソン政権二期目と大統領辞任後の動向について書きます。

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