「書く」という、心の調律
以前、仕事で声楽の先生にインタビューした経験がある。地域で開いている体験レッスンを実際に受けて、その様子をレポートする内容だった。時間は60分程度。
発声練習に半分以上の時間を使った後、実際に一曲歌ってみる。ポイントを指摘していただく。課題曲は「ハナミズキ」だったと思う。
あらゆる方法で発声練習は行われた。中でも印象的だったのは、鼻の付け根を少し摘みながらガマガエルみたいな声を出す方法と、お腹に力を入れながらどこまでも低音を出し続ける方法。先生はこう言ったのだった。
「高く綺麗な音を出したいなら、そればかりをやると思うでしょう?でも、こういう一見醜いようなトレーニングもやってこそ、自分が想像する以上の声が出せるの」
数回分チケットをもらったので、しばらくレッスンへ通った。その度に様々な発声練習が取り入れられる中で、楽曲を歌う前に必ずガマガエルと低音は行われるのだった。
なるほど、あれは発声練習でありながら、チューニング作業でもあったのかもなと、リビングでギターを弾く夫を眺めながら思い出していた。
学生、社会人とバンドをやっていたらしい夫の関係で、我が家にはいろんな楽器がある。ときどき思い出したように弾くのだが、いつのまにか子どもたちが触っているから弦楽器は音を合わせるのが大変なのだと言う。
好きなバンドのライブへ通うようになった頃、開演前にスタッフが登場して、ギュイーンとかベンベンとか楽器を鳴らしているのを見ながら「何してるんだろう」と思っていた。それをチューニングと呼ぶらしいと知ったのはいつだったか。
改めて辞書を引くと「調律」と書かれてあった。美しい言葉だと思った。
心にもやもやが溜まったとき、文字を書いている。手帳のフリーページに思うがまま綴る。ほんの一部、少し時間が経って濾過された感情をnoteに書く。
割とそのまま葛藤を記すものだから、私のnoteは「率直」とか「実直」と評してもらうことが多い。たしかに解釈の幅や余白があまりない文章だと思う。ぐずぐずした内面を表へ出すのに多少の抵抗はある。クライアントさんも見ている中で、情けない一面を吐露するのは少し怖い。
それでもどうしてやるのか、私は私の話を聞いてあげたいから、それには距離が必要だからと、前に書いた。
"過去" から地続きで "今" を綴るとき、私は必ず終わりに向かうにつれ文章の明度を上げようとする。暗いものを暗いままで終わらせたくない。
日記も、noteも。こうして書きながら、自分の心を調律しているのだと思うとしっくりくる。毎日繰り返す生活やこれからくる未来を、よりきれいな音色で彩るための作業。
「きれいごと」だと揶揄された過去もある。たしかに、実際の私はここに書いているほど、いつも前向きではないし、心を整えられてもいない。大切な人に優しくできないし、子どもたちを見つめられてもいない。それでも、いつか、もしくは、これから、せめて自分なりに良い音を出したくて、試行錯誤している。
音を合わせる夫の周りに子どもたちが集まるように。私が好きなバンドのチューニングシーンを楽しむように。
自分の心を調律するために書いた文章を、誰かが読んで心に留めてくれるという光栄をたびたび授かる。読むに足らないと謙遜したくなる荒削りな内容に価値を付けてもらえたのは、私にとって大きな救いになっている。
一方で、最近ひとつ学んだのは、こうしたチューニング作業が「誰かにとってはノイズになりえる」事実だった。鳴らす本人は楽しんでいるかもしれないが、それに煩わしさを感じる人もいるのである。
自分のためにやっているつもりでも、ひとたび公開すれば外の世界へと繋がるのは当然の話。
音量に技術、想像、気遣い。たとえ調律だろうと至らぬ点を挙げればキリがなく、知識も経験も積み上げていく必要がある。きっと鳴らすのはやめられないのだから。その手触りを愛している限りには。
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