見出し画像

「母」で在り続けるための休息

母もひとりの人間だと気づいたのは、いつぐらいだっけ。親は揺るぎない存在だと思っていた子どもの頃。大人になるにつれ、普段みている顔は一つの側面でしかないと知る。

「いつも子どもと一緒に22時前には寝ちゃうんだよね」と、友達のTちゃんは何でもない様子で言った。

昨年、新たな住処として引っ越した未知のエリアで、唯一の救いがシリコンバレー時代の友人一家が再赴任していたことだった。一度は日本へ戻ったが、私たちが引っ越す数ヶ月前に再びアメリカへ。今は車で40分ほどの距離に住んでいる。

初雪が降った冬の夜、おうちへ遊びに行って一緒にワインを飲んだ。同い年の男の子がいるので、話題は当然子育てに及ぶ。その中で、彼女は前述のように夜は子どもと同時刻に寝ていると話した。

私はさも当然だと言わんばかりに尋ねた。

「じゃあ、そのぶん朝早く起きるの?」

彼女はまったく平然とした様子で首を振る。

「ううん、子どもと同じ時間に起きるよ」

これを聞いたとき、心底おどろいた。Tちゃんは、ずっと母親でいられるんだ、と。寝る前まで母親で、起きてすぐも母親でいられるんだ、と。

子育てに専念中の彼女は、子どもが学校へ行っている間はとにかく自分が好きなことをしてる、とも言った。もっとも、その間で存分に自分を癒しているのかもしれない。


***


仕事を切り上げてお迎えへ。夕方以降の時間はまるで戦場のようだ。子どもたちが寝付き、ようやく本日の戦を終えた頃には、心身ともにクタクタ。

それから私は、母親という鎧をどさりと脱ぎおろし、自分の時間を楽しむ。書いたり、読んだり。気の向くままに。張り詰めた母親から、ただ一人の女性に戻る。

夜泣きで振り出しに戻る日もあれば、仕事や用事を片付けなければならない日もある。でも、そんなときは少しだけ夜を延ばしてでも、ふうっと一息をつく。この時間がないと、明日を戦えない。


***


私の母は、毎晩お酒を飲む人だった。

仕事から帰宅するのが夕方6時頃。慌ただしく夕飯の下ごしらえをしたら、必ず入浴を済ませる。いただきますと同時に350mlの缶ビールが開く。スタメンはアサヒのスーパードライ。だいたい1本では足りず、2本。

夕飯の洗い物をすべて片付け終えると、テーブルにはウイスキーが置かれる。注がれた黄金の液体が溶けた氷と混ざる。ビールは序章にすぎない。おつまみには流行りのスナック菓子。私はよく勝手にパクパク食べては「つまみがなくなった」と母に叱られた。

ウイスキーのお供は、レンタルビデオ屋さんで借りた映画のDVD。母は泣ける系のコンテンツを一切好まず、アクションやSFばかりを観る。特にスター・ウォーズが大好きで、ハリソン・フォードに恋をしていた。

決してやけっぱちのような飲み方ではなく、母はとても穏やかにお酒を飲んでいた。そっとしておいたほうがいいのかな、と思うぐらいに、どこか薄いベールを纏ったような静けさがあった。無論、そんなことはお構いなしに私や弟は周囲でガヤガヤと騒いでいたのだけれど。


子ども時代には見えていなかった一面が、大人になるにつれてだんだん見えてくる。

母は、フルタイムで働きながら、兄と私と弟の3人を育てていた。幼少期、父は出張の多い仕事をしており、家に戻るのは1〜2ヶ月に一度の週末だけ。その日々がどれほど大変だったか、近い立場になった今、ようやく身に染みてわかる。

ウイスキーを飲んでいる時間は、きっと母にとって大事なひとときだった。エネルギーを補っていたのだろう。あのときの母は、もしかしたら母じゃなかったのかもしれない。お酒を嗜んだり映画を観たりしているときだけは、一人の女性に戻っていたのかもしれない。

誰もが、お母さんである前にただの人間だ。子どもの誕生という明確なスタートラインはあれど、すぐ母親になれるわけじゃない。多少経験を積んだとしても、自分本来の性質までは変えられないのだと痛感する。だから、深呼吸しながら役割を担う。

特に母は、二人の子どもを抱えた身で最初の夫(私の実父)と死別している。当時20代後半。その喪失と重圧の大きさを「わかる」なんて、とても言えない。ウイスキーはいつから飲み始めたのだろうか。泣ける映画を毛嫌いするのは過去のせいだろうか。

そういえば、何も知らない。

***


今年の夏は、日本へ帰省を考えている。今は父と母とプードル一匹が暮らす実家。両親にとって、娘一家の滞在はのんびりした生活が一変するビッグイベントだ。

もし実現したら。孫を世話する喜びを存分に満喫してほしい、などと調子のいい発言をして、私は母に甘えてしまうだろう。日中は、男の子が持つ爆発的なエネルギーに立ち向かうべく、共に母業をこなす。

それを乗り越えた一日の終わり、母と一緒にお酒を飲みながら話したい。核心へ触れずにいたから最初は多分ぎこちないはず。でも、母がまだお酒を嗜むうちに、女性同士で会話をしてみたい。

そのときは、ウイスキーをグラス一杯もらおうと思う。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。